VR世界で病人を「見るだけ」で免疫細胞が活性化していた

免疫

スイスのローザンヌ大学(UNIL)とジュネーブ大学(UNIGE)で行われた共同研究によって、「病気の人を見ただけで、私たちの脳と免疫が反応を始める」という驚きの事実が明らかになりました。

研究チームは、仮想現実(VR)の中に“病気の症状をもった人”を登場させ、その人物がゆっくりと近づいてくる様子を参加者に体験してもらいました。

すると、実際にウイルスや細菌が体に入っていないにもかかわらず、参加者の脳は「感染の危険」を察知し、免疫細胞があたかも本物の感染に備えるように活性化し始めたのです。

この反応は、視覚情報が「自分のすぐそばにいる人の危険度」をすばやく判断し、それに応じて体の内側の“警報システム”を作動させている可能性を示しています。

実際、脳の危険感知ネットワークと視床下部のあいだの結びつきが強まり、感染に対抗する免疫細胞「自然リンパ球」が活性化する様子が確認されました。

この働きは、インフルエンザワクチン接種後に見られる免疫反応とよく似ていました。

たとえば、おいしそうな料理を見ただけで唾液が出てしまうように、病気の気配を視覚から感じ取っただけで、体の内側も“準備モード”に切り替わる──。

そんなしくみが、私たちに備わっているとしたら、病気への備えや予防にどのような可能性が広がるのでしょうか?

研究内容の詳細は、2025年7月28日に『Nature Neuroscience』にて発表されました

目次

  • 本能と免疫の関係
  • 仮想世界で起きた免疫反応
  • 「見る感染防御」と未来の応用

本能と免疫の関係

本能と免疫の関係
本能と免疫の関係 / VR世界でも免疫反応が起こるのだろうか?/Credit:Neural anticipation of virtual infection triggers an immune response

人間の体には、「危険を察知して身を守る仕組み」がいくつもあります。

たとえば、目の前にクマが現れたら、一瞬で「逃げるか戦うか」を判断します。

これは「闘争か逃走(ファイト・オア・フライト)」と呼ばれる、体の自然な反応です。

でも、ウイルスや細菌などの病気のもとって目に見えません。

そこで、人間や動物は進化の中で「病気の人を避ける」ような行動を自然に身につけてきました。

たとえば、咳をしている人のそばから無意識に離れたりするのがその一つです。これを「行動免疫システム」と呼びます。

【コラム】動物も病気の仲間から距離をとる

動物たちも、じつは私たち人間と同じように、周囲の“体調不良”にとても敏感です。サルやマンドリルの仲間では、咳やくしゃみ、皮膚の発疹など、明らかに病気の兆候を示す個体がいると、他の仲間たちは自然と距離をおくようになります。実際、マンドリルは病気の個体の体臭や見た目を鋭く察知し、寄りつかなくなることが科学的な研究で確かめられています。こうした行動は、ネズミや鳥、さらにはアリやハチのような昆虫にも見られます。アリの社会では、感染した仲間が巣の外に隔離されることも珍しくありません。これは病原体が広がるのを防ぐために、動物たちが進化の過程で身につけてきた知恵なのです。社会で生きる動物たちにとって、感染を未然に防ぐための「最前線の盾」と言えるでしょう。

ただし、実際にウイルスが体に入ってこない限り、本来の免疫細胞は動かないと考えられてきました。

それでも研究者たちは「もしかしたら、病気の人を“見ただけ”で、体の中の免疫も動き出すのでは?」と考えたのです。

とくに、咳や発疹など、わかりやすい症状がある人なら、脳はすばやく「感染の危険が近づいている」と気づくかもしれません。

そうなると、ウイルスが体内に入る前に、免疫細胞が戦闘態勢に入ってくれるかもしれません。

このような発想から、研究チームはある仮説を立てました。

「人間の脳には、病気のサインを早めに察知し、それだけで免疫システムの準備が始まる仕組みがあるのではないか?」というものです。

これを確かめるため、VRを使ってその検証を行うことになったのです。

仮想世界で起きた免疫反応

今回の研究では、仮想現実(VR)という最新の技術が使われました。

研究チームは、合計248人の健康な大人に協力してもらい、VRの中でさまざまな状況を体験してもらいました。

ただし、全員が同じ実験をしたわけではなく、行動の反応を見る実験や、脳波(EEG)を測る実験、血液を調べる免疫実験、脳の画像を撮るfMRI実験など、それぞれの内容に応じて異なるグループが参加しました。

VRの中で参加者は、人の顔がだんだんと自分に近づいてくる映像を見ます。

顔の種類にはいくつかあり、ふつうの表情の人もいれば、発疹(はっしん)などの病気のサインが見える人、さらには怖がっているような不安そうな表情の人もいました。

実験では、まず全員がふつうの顔を見た後、それぞれのグループごとに別の種類の顔を何度か見るように設定されていました。

参加者たちは、病気のサインがある顔を見たとき、「この人は感染しているかもしれない」と自然に感じることがわかっていて、実際にそのような顔からは無意識に距離を取りたくなる傾向があったそうです。

研究者たちは、こうした見た目の違いが私たちの体にどんな影響を与えるのかを調べるため、ある実験を行いました。

それは、アバター(仮想の人物)が近づいてくる間に、参加者の顔に小さな振動のような刺激を与え、どれだけ早くボタンで反応できるかを測るというものです。

このテストでは、相手に対する「警戒心」がどれくらい高まっているかを知ることができ、特に自分の体のすぐ近くの空間(パーソナルスペース)をどう感じているかがわかるのです。

結果として、「病気の顔」のアバターが近づいてきたときには、まだ遠くにいても反応が早くなり、「早めに身構える」ような状態になっていたことが確認されました。

これは、他の顔(ふつうの顔や恐怖の表情)と比べても明らかだったそうです。

面白いのはここからです。

仮想世界で起きた免疫反応
仮想世界で起きた免疫反応 / この研究で行われた「VRで病気の人を見る体験」や「ワクチン接種」が、実際に体の免疫細胞にどんな変化をもたらしたのかを示しています。まず左上のパネルaでは、実験の流れが描かれています。すべての参加者は最初に“健康そうな人”のアバターを見て、その直後に血液検査を受けます。その後、グループごとに「病気の人のアバターを見る」「再び健康そうなアバターを見る」「怖がっている顔のアバターを見る」など、異なるVR体験をし、もう一度血液検査を受けます。また別のグループでは、VR体験のかわりにインフルエンザワクチンを受けて血液が調べられました。つまり「病気の人を見る」だけの反応と、「実際にウイルス(ワクチン)が体に入る」反応を比べたのです。 次のパネルbは、実際にどんなふうに免疫細胞を調べたかを表しています。血液から「白血球」を分けて、さまざまな薬品や色素を使い、どの細胞がどれだけいるのかを詳しく分析しました。このとき、「自然リンパ球(ILC)」という種類の細胞に注目しました。これは体の“最前線”で敵と戦う細胞です。 パネルcは、VR体験やワクチン接種の前後で、自然リンパ球(ILC)がどのくらい増減したかをグラフで示しています。左から「健康なアバターを見た人」「病気のアバターを見た人」「怖がっているアバターを見た人」「ワクチン接種を受けた人」という順で棒グラフが並び、病気のアバターを見た人やワクチンを受けた人ではILCがはっきり増えていることがわかります。 パネルdは、自然リンパ球の“活発さ”を比べています。たんに数が増えるだけでなく、「敵が来たぞ!」と本気モードに切り替わる細胞が増えていることを意味します。ここでも、病気のアバターを見たグループとワクチンを受けたグループで活発な細胞が多くなっていました。 パネルeとfでは、同じ実験を別のグループでもう一度行い、「健康なアバター」と「病気のアバター」だけに絞って比べています。やはり病気のアバターを見た人の方が、自然リンパ球の数も活発さも高くなりました。これによって結果の信頼性がさらに高まりました。 最後のパネルgは、「自然リンパ球の数」と「活発さ」がどれだけ一緒に変化しているかを表しています。両方がセットで増える人が多いことが、グラフの点が右上がりに並んでいることでわかります。つまり、病気の人を“見るだけ”で体の防御細胞が数も働きもアップし、しかもその反応はワクチン接種とよく似ている、ということが読み取れます。/Credit:Neural anticipation of virtual infection triggers an immune response

このような身体の反応が、脳の中ではどのように起きているのかを知るために、別の実験では脳波とfMRIが使われました。

これらの実験は別々の参加者に対して行われましたが、どちらの結果からも共通したことがわかりました。

まず脳波のデータを分析したところ、病気の兆候を持つアバターが近づいてきたときには、ふつうの顔のときよりも早い段階で、脳の反応が強くなっていました。

脳が「これは危険かもしれない」と素早く判断していたのです。またfMRIのデータでは、脳の中で「危険を検知するネットワーク」と呼ばれる部分と、体の内部の働きをコントロールする視床下部(ししょうかぶ)が強くつながっていることがわかりました。

この視床下部は、ホルモンや免疫の調整にも関わっていて、ここが動き出すということは、脳が「免疫システムに準備をさせている」サインかもしれません。

さらに、研究チームはVR体験の前後で参加者の血液を採取し、体の中で実際にどんな変化が起きているかを調べました。

その結果、病気のアバターを見た人たちの体では、「自然リンパ球」と呼ばれる免疫細胞が活性化していることがわかりました。

これは、体内にウイルスなどの異物が入ってきたときに、最初に警報を鳴らすような役割をもつ細胞です。

面白いことに、この反応は、実際にインフルエンザワクチンを受けた人たちと同じようなパターンを示していました。

つまり、VRの中で病気の人を見ただけで、体の免疫が「本物の感染」に備えて動き出していたというわけです。

「見る感染防御」と未来の応用

「見る感染防御」と未来の応用
「見る感染防御」と未来の応用 / 図のfとhは、「病気のアバター(仮想空間で“明らかに具合が悪そうな人の顔”)を見ただけで、脳がどのように敏感に反応するか」をとても直感的に示しています。 まずfのパネルは、病気のアバターと健康なアバターを比べて、まだ遠くにいる段階での脳波の強さ(GFPという指標)がどう違うかを表しています。これを見ると、病気のアバターが近づいてくると、健康なアバターの時よりも「はるかに遠くから」すでに脳が反応し始めていることがわかります。つまり、普通の人の顔では警戒モードにならない距離でも、病気のサインを持つ人だと脳が早めに“注意のベル”を鳴らしているのです。 そしてhのパネルでは、この脳の反応が脳のどの部分で起きているのかを色で示しています。とくに頭のてっぺん付近、頭頂部のあたりが強く光っていて、ここは「パーソナルスペース」つまり「自分の身の回りの安全地帯」を見張っている部分です。つまり、病気のアバターがまだ遠くにいるだけでも、脳は「この人は危ないかもしれない」と、すでに自分の周りのバリアを意識し始めていることが読み取れます。 このように、図のfとhは「まだ触れてもいないのに、病人を“見るだけ”で脳が敏感に反応し、防御のスイッチを先回りで入れている」示しています。/Credit:Neural anticipation of virtual infection triggers an immune response

今回の研究によって、私たち人間の体は、実際にウイルスに感染する前からすでに免疫の準備を始めている可能性があることがわかってきました。

これまでは「体の中にウイルスや細菌が入ってから」免疫細胞が働き出すというのが一般的な考え方でしたが、どうやらそうとは限らないようです。

私たちが病気の人を見ただけで、「なんとなく避けたくなる」「距離を取りたくなる」ような反応をするのは、気分の問題だけではなく、体の内部でも“見えないスイッチ”が入っている可能性があるのです。

研究チームは、この反応が「煙探知機のような仕組み」に似ていると説明しています。

つまり、まだ火が出ていないうちに、ちょっとした煙のにおいや動きに反応して、火災警報器が先に鳴るようなものです。

病気の人が咳をしている、肌に赤い発疹がある、そうした「ほんの小さなサイン」を見ただけで、私たちの脳は「これは危ないかもしれない」と判断し、免疫システムに対して「そろそろ準備しておいて」と知らせているのかもしれません。

これまで「行動免疫システム」と呼ばれていた、病気の人を避けるというような行動のしくみに加えて、今後は「体の中の免疫も一緒に動き出す」という可能性が加わったのです。

【コラム】なぜ病人を見ただけで免疫が活性化したのか?

今回の研究では、「どうして“病人を見ただけ”で体の免疫システムが本気モードになるのか?」という謎に科学的に迫りました。ここでは改めてその仕組みについてみていきます。私たちの脳は、目や耳、肌などいろいろな感覚から情報を集めています。その中でも「自分のすぐ近く」に病気のサイン(たとえば咳、発疹、青白い顔色など)があると、“これは危険かも!”といち早く気づきます。このとき本文でも述べているように脳の「パーソナルスペース(自分のまわりの安全地帯)」を見張るセンサーが反応し、脅威が近づいたと判断すると、脳の中の「警報センター(サリエンスネットワーク)」がスイッチを入れます。すると脳は、「視床下部」という体の司令塔を通じて、全身に「警戒せよ!」と指示を出します。その結果、体の中では自然免疫を担当する“先兵”の免疫細胞たちが一気に活性化します。これは、実際にウイルスや細菌に感染していなくても、もしものときにすぐ戦えるように体がフライングスタートで準備を始める、いわば“先回りの防御”です。まるで火災報知器が火の手が近づく前から鳴り出すように、脳が「危険信号」をキャッチしただけで免疫のエンジンがかかる――それが今回証明された「見るだけで免疫が動き出す」仕組みなのです。

もちろん、こうした“先まわりの免疫反応”が、実際にウイルスの感染を防いだり、症状を軽くしたりするのに本当に役立つのかどうかは、まだはっきりとはわかっていません。

たとえば、新型コロナウイルスのような病気では、体にウイルスが入ってから実際に免疫が本格的に動き出すまで、数日かかることもあります。

今回の研究で見つかったような、病気の人を見ただけで免疫細胞が反応するしくみが、実際に感染を防げるかどうかは、これからの研究にゆだねられています。

けれども、この発見には、未来に向けての大きな可能性もあります。

もし「病気の人を目にするだけで体が準備を始める」のであれば、それをうまく活用して、ワクチンの効果をもっと高められるかもしれません。

たとえばワクチンを打つときに、同時にVRを使って病気の人の姿や症状を見せれば、免疫細胞が「敵が来るかも」と先に構えることができ、体の中でワクチンへの反応がより強くなる可能性があるのです。

研究チームもそのような使い方を提案しています。

また、VRのような技術を使えば、実際に病気に感染するリスクなしに「感染に近い体験」をつくることができます。

これは、脳と免疫がどう関わっているかを調べる新しい研究方法としても役に立ちそうです。

病気のサインを見たときに、私たちの心だけでなく、体の奥深くでも小さな“防衛チーム”が動き出している。

そんな私たちの体のすごさに、あらためて驚かされる研究結果でした。

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元論文

Neural anticipation of virtual infection triggers an immune response
https://doi.org/10.1038/s41593-025-02008-y

ライター

川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。

編集者

ナゾロジー 編集部

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