サイケデリック薬物(幻覚剤とも呼ばれる)とは、LSDやシロシビンなどに代表される、私たちの脳や意識に強い変化をもたらす薬物群です。
これらの薬物は、従来は幻覚や錯覚を引き起こす危険なドラッグとして敬遠されてきましたが、近年はうつ病や不安症などの治療に新しい可能性を示すものとして世界中で再注目されています。
イタリアのサクロ・クオーレ・カトリック大学(UCSC)の研究チームは、「もし仮想現実(VR)技術と人工知能を使えば、こうしたサイケデリック薬物の“ポジティブな脳効果”だけを安全に再現できるのではないか?」という大胆な疑問に挑みました。
この研究の詳細は、2025年5月23日付で『Dialogues in Clinical Neuroscience』誌に掲載されました。
目次
- サイケデリック薬物(幻覚剤)とは何か?仮想現実で目指した“新しい体験”
- VR“幻覚体験”がもたらした脳と心の変化とは?
サイケデリック薬物(幻覚剤)とは何か?仮想現実で目指した“新しい体験”
サイケデリック薬物――つまり幻覚剤とは、脳のセロトニン受容体などに作用し、知覚や思考、感情に劇的な変化をもたらす薬物群です。
LSDやシロシビン(マジックマッシュルームの成分)が有名で、体験者は現実とは異なる色彩・形状の知覚、自己と世界の境界が曖昧になる感覚、時には深い気づきや創造性の高まりを得ることも報告されています。
実は、近年になって欧米では「サイケデリック薬物がもたらす“意識の柔軟化”が、うつ病やPTSDなど従来の治療で改善しづらい症状に効果がある」という臨床研究が急増しています。
例えばシロシビンやLSDを使った心理療法では、脳内ネットワークの“固定化”がゆるみ、新しい考え方や自己認識が生まれることが示されています。
しかし一方で、サイケデリック薬物は予測不能な副作用や急性の幻覚・不安発作、長期的な精神健康リスク、さらには法的な規制問題も多く、一般的な治療として広く普及するには大きな壁があります。
「効果はほしいが、リスクや違法性は避けたい」――そんな発想のもとで登場したのが、“サイバーデリックス(Cyberdelics)”という、AI×仮想現実によるデジタル幻覚体験です。
今回の研究では、「サイケデリック薬物の視覚的な幻覚を、VRと人工知能を使って安全に再現できるのか?」「そして本当に、脳や心に同じような効果が現れるのか?」を検証しました。
方法はとてもユニークで、被験者(健康な成人50人)は仮想現実ゴーグルを装着し2つの動画を動画をそれぞれ10分間体験します。(視聴の順序はランダムです)
1つは、「ザ・シークレットガーデン」と題した日本庭園のリラックス映像(360度パノラマ映像)です。
もう1つは同じ映像をAIで加工し、複雑で夢のような“幻覚風”に変換したバージョンです。
そして体験の前後には、「創造性や発想力」「自動的な反応の抑制力」「感情や不安」「心拍や自律神経活動」など、心理・認知・生理指標を総合的に測定。
また「身近な物の新しい使い道をいくつ発想できるか」、「色と単語が食い違う刺激に対し、正しく反応できるか」を判断するテストを行い、認知の柔軟性や自己制御力を詳しく調べました。
では実際に、仮想現実による“幻覚体験”はどのような変化を生んだのでしょうか。
VR“幻覚体験”がもたらした脳と心の変化とは?
実験の結果、最も注目すべき点は、VR幻覚体験により、認知の柔軟性や創造性が大きく高まったことでした。
AIで加工された幻覚風VRを体験した後、参加者は「レンガ」や「クリップ」などの使い道をより多様に、かつ本来の用途から遠く離れた斬新なアイデアまで発想できるようになりました。
言い換えると、“ものごとを固定的に見る”脳のクセが一時的に緩み、普段なら考えつかない自由な発想がしやすくなったのです。
また、別のテストでも、無意識に反応してしまう自動的なクセを抑え、柔軟に切り替える力が上昇しました。
これらは、まさにサイケデリック薬物による「認知の拡張」と類似した現象です。
心理的な側面でも興味深い発見がありました。
どちらのVR体験でも、不安感は明らかに減り、リラックスした気分になると分かりましたが、「幻覚風VR」では特に“没入感”が強くなりました。
ただし、映像の複雑さや刺激の強さもあり、「この体験は自然ではなく、楽ではなかった」という報告も見られました。
また生理的にも、どちらの体験後も心拍数や交感神経活動が下がり、リラックス効果が確認されました。
こうした結果は、薬物を使わずとも、仮想現実とAIの組み合わせでサイケデリックに類似した認知変化が起こりうることを初期的に示したものです。
これは、「薬物を使いたくない」「治療薬が効かない」「新しい刺激で脳の柔軟性を取り戻したい」など、多様なニーズを持つ人々に、安全かつコントロールされた環境で“脳のリセット”をもたらす可能性があります。
ただし本研究にはいくつかの限界があります。
被験者は全員が健康な若い成人であり、高齢者や精神疾患のある人々で同じ効果が現れるかは分かりません。
加えて専門家は、「本物のサイケデリック薬物(幻覚剤)よりは安全だが、VR体験にもサイバー酔いや不快感などのリスクがないわけではない」と指摘しています。
今後はより多様な集団や患者を対象に、さらに脳波や皮膚電導などの生理データも含めて、効果の持続時間や安全性を検証する必要があります。
加えて、どの効果が「VR技術」自体によるものか、「幻覚体験」の内容によるものかを区別するため、さまざまなコントロール条件も比較していく必要もあるでしょう。
サイケデリック薬物(幻覚剤とも呼ばれる)の“脳の柔軟化”効果を、AIとVRの力で安全に再現するというこの研究。
ある種の懸念と可能性をもたらすこの分野が、今後も医療や福祉、教育の現場にどう影響を与えていくのか注目できます。
参考文献
Cyberdelics: Virtual reality can replicate cognitive effects of psychedelics, new study finds
https://www.psypost.org/cyberdelics-virtual-reality-can-replicate-cognitive-effects-of-psychedelics-new-study-finds/
Immersive virtual reality visual hallucinations simulate the effects of psychedelic substances
https://www.eurekalert.org/news-releases/1101311
元論文
Cyberdelics: Virtual reality hallucinations modulate cognitive-affective processes
https://doi.org/10.1080/19585969.2025.2499459
ライター
矢黒尚人: ロボットやドローンといった未来技術に強い関心あり。材料工学の観点から新しい可能性を探ることが好きです。趣味は筋トレで、日々のトレーニングを通じて心身のバランスを整えています。
編集者
ナゾロジー 編集部