私たちの身の回りには、自閉スペクトラム症(ASD)の特性を持つ人が少なくありません。
統計的にも、ASDは世界人口の数%にみられると報告されています。
けれども、なぜASDのような傾向は、これほど多くの人に広がっているのでしょうか。
進化の過程で有害であるなら淘汰されてもよさそうなのに、なぜ人類の中に普遍的に残っているのでしょうか。
この謎に挑んだのが、米国スタンフォード大学(Stanford University)の研究チームです。
彼らはヒトの脳を構成する神経細胞を精密に解析し、ある特定の細胞が進化の過程で異常なスピードで変化してきたことを発見しました。
その進化の痕跡は、ASDに関連する遺伝子の働きと重なっており、人類が特別な知性を獲得する代償としてASDが登場した可能性があるという。
この研究の詳細は、2025年9月に科学雑誌『Molecular Biology and Evolution』に掲載されました。
目次
- なぜ人類にはASDが多いのか?
- 進化の代償として生まれたASDのリスク
なぜ人類にはASDが多いのか?
ASDは人類で数%の人が持つとされる特徴です。(近年は診断精度向上により、この割合はだんだん高くなって来ています)
そしてこの症状は人類以外の種ではあまり確認されていません。
一部の研究ではイヌやサルなどに、仲間との交流を避けたり、同じ行動を繰り返しすなど「自閉的な行動に似た特徴」が報告されていますが、ASDという医学的な症状が体系的に広く見られるのは人間だけだと言われています。これは人間が特に高度な社会性や言語を進化させた結果、見られるようになった症状だからというのが1つの解釈です。
しかし、なぜこの症状は常に人類の数%の人の中に居座り続けているのでしょうか?
進化生物学には中立進化説という考え方があります。これは「生物に起きる遺伝子変化の多くは、有利でも不利でもなく中立であり、自然淘汰ではなく偶然の要素(遺伝的浮動)によって集団に残ることがある」という理論です。
通常、生物にとって不利だったり不都合な遺伝子は、長い進化の歴史の中で淘汰されていくと考えられます。
しかしこの説で考えた場合、「ASDに関わる遺伝子変化の多くは実際には大きな害をもたらさず、偶然に次世代へ伝わってきただけではないか」という説明になります。つまり「致命的ではないから、遺伝子は淘汰されないので残っても不思議ではない」という論理です。
この致命的という部分は、繁殖に影響しないからと言い換えることも出来ます。
たとえば、がんのような一見致命的に見える症状も、人類の中に居座り続けています。その理由は、この症状が基本的には40歳以降の繁殖を終えた人たちに発症する症状だからだと考えることができます。いくら生物にとって不都合な特性であっても繁殖に影響しない場合はその特性が淘汰されずに居座り続けると考えられるのです。
しかし、ASDは生まれつき、あるいは幼少期から見られる症状であり、人間社会のおいて重要なコミュニケーション能力に大きく関わる症状です。これはパートナーを見つけ繁殖するという、遺伝子の継承に影響すると考えられます。
となると、これらの説明では「なぜ人間という種に、ASDのような傾向がこれほど一般的なのか」という問いに答えきれません。
そこでスタンフォード大学の研究チームは、この原因が「脳の神経細胞の進化そのものにあるのではないか」という説を考えました。
彼らはヒト、チンパンジー、マカクといった霊長類の脳を比較し、細胞ごとにどのくらい速く遺伝子の働きが変わってきたのかを調べたのです。
その結果、ほとんどの細胞では「数が多い細胞ほど変化はゆっくり、数が少ない細胞ほど変化は速い」という規則性が見えてきました。これは、生命の安定性を保つための自然な仕組みとして理解できます。
例えば脳内で、非常に数の多い細胞が急激に変わってしまうと、脳の働き全体が崩れてしまう恐れがあります。逆に数の少ないタイプの細胞は、変化が起きても影響が少ないため進化の速度が早まるのです。
これは会社組織などで考えても納得が行くでしょう。会社の根幹に関わる巨大なチームがしょっちゅう入れ替え、変更をされては業務が上手く回りませんが、小規模なチームなら比較的短期間で入れ替えや、方針の変更が行われても問題はないはずです。
ところが、ヒトの脳にはそのルールを破る特別な細胞が存在していました。
それが大脳皮質の第2/3層にある「L2/3 ITニューロン」と呼ばれる神経細胞です。この細胞は脳の領域どうしをつなぎ、言語や複雑な思考、社会性に関わる重要な役割を果たし、脳内で数の多い細胞です。
驚くことに、この進化に対しては慎重であるべき広範な細胞が、ヒトの進化の過程で例外的に速い変化を示していたのです。これは会社で重要な大規模チームがしょっちゅう入れ替えや変更されているような現象でした。
進化の代償として生まれたASDのリスク
「L2/3 ITニューロン」という神経細胞は、いわば「情報の中継点」として、私たちが言葉を理解したり、相手の気持ちを推し量ったりするときに大きな役割を果たしています。
研究チームは、この細胞が急激に進化したことで、人間は高度な思考や複雑な社会性を獲得できた可能性があると指摘しています。
しかし同時に、その変化は「神経回路のバランスを取りにくくする」側面も持っていた可能性があるのです。
脳の主要なネットワークの動作が急速に進化し繊細な動作をするようになった結果、人類の認知機能は他の動物と比べて大幅に向上しましたが、それによって一部の人は情報処理がうまくかみ合わず、社会的なやりとりの難しさや行動の反復などASDの特徴が現れやすい素地を作り出したと考えられるのです。
さらに研究者たちは、ゴリラを比較対象に加えて「ヒトの進化の枝で本当にこの変化が起きたのか」を検証しました。
結果として、L2/3 ITニューロンの遺伝子発現の変化はヒトに特有であることが示されました。
また、ヒトの脳細胞を試験管内で再現した脳オルガノイドを使った実験でも、同じような遺伝子発現の変化が再確認されました。これは偶然の産物ではなく、ヒトの進化の過程で積極的に選び取られた変化だった可能性を示しています。
つまり、人間は大脳皮質の特定の細胞を“進化の特急レーン”に乗せることで、言語や高度な社会性といった知性を手に入れました。しかしその代償として、ASDのリスクが高まりやすい脳の特徴を抱えることになったと考えられるのです。
ASDは人類が人類であるための副産物だった
今回の研究は、自閉スペクトラム症(ASD)を単なる「遺伝の不具合」として見るのではなく、人類が特別な脳を進化させる過程で生まれた副産物としてとらえる視点を与えてくれます。
人間は言語を使い、社会をつくり、複雑な文化を築くことができる存在です。
その力を可能にしたのは、脳の中で特別な進化を遂げた神経細胞でした。
しかしその進化は、同時にASDのリスクを高めることにもつながったのです。
ASDは不思議なことに世界中で一定の割合で存在し続けています。
それは、人間の知性を支える「もうひとつの側面」なのかもしれません。
私たちの社会にASDが広がっている理由は、人類が人類であるために欠かせない脳の進化と深く結びついていることを、この研究は教えてくれます。
元論文
A General Principle of Neuronal Evolution Reveals a Human-Accelerated Neuron Type Potentially Underlying the High Prevalence of Autism in Humans
https://doi.org/10.1093/molbev/msaf189
ライター
相川 葵: 工学出身のライター。歴史やSF作品と絡めた科学の話が好き。イメージしやすい科学の解説をしていくことを目指す。
編集者
ナゾロジー 編集部