日本では、政府による現金給付や生活扶助に対して、その是非や効果について大きな議論が巻き起こります。
経済的な支援は困っている人の生活を助けるものの、本当に長期的な幸福や健康につながるのか、賛否は分かれがちです。
では、世界に目を向けたとき、現金給付のメリットにはどのようなものがあるのでしょうか。
アメリカのペンシルベニア大学(The University of Pennsylvania)の研究チームは、低・中所得国で実施された大規模な政府主導の現金給付プログラムの効果を明らかにしました。
現金給付は、母子の健康や子どもの予防接種など、多様な健康指標を大きく改善したのです。
この成果は2025年11月10日付で『The Lancet』誌に掲載されています。
目次
- 現金給付が国にもたらす効果とは?
- 現金給付は低・中所得国で母子の健康を改善する
現金給付が国にもたらす効果とは?
「現金給付」という言葉には、緊急時の「お助け」や貧困対策というイメージが強く結びついています。
多くの国で政府が主導する現金給付プログラムは、極度の貧困状態にある人々の生活を支え、社会の安定や機会の平等を促す柱の一つとなっています。
実際、世界の低・中所得国では20%以上の人々が1日3.65ドル未満で暮らしており、7億人が1日2.15ドル未満の「極度の貧困」に直面しています。
新型コロナウイルスの流行以降、この傾向はむしろ悪化しており、貧困層の拡大が世界的な課題となっています。
これまで現金給付の効果については、多くの国で「受給者個人」レベルの調査が行われ、就学率や栄養状態、家庭の経済的安定などへの好影響が確認されてきました。
しかし、「国全体」としての健康効果、特に非受給者も含めた社会全体への影響については、十分に検証されてきませんでした。
そこで、ペンシルベニア大学の研究チームは、37の低・中所得国、延べ200万件以上の出生データと約100万人の5歳未満児のデータをもとに、2000年から2019年までの現金給付プログラムの効果を徹底的に分析しました。
このうち20カ国は、調査期間中に大規模な政府主導の現金給付プログラムを新たに導入しています。
分析には「差分の差分法」と呼ばれる手法を用い、現金給付プログラムの導入前後でどのような変化が起きたか、またプログラムが導入されなかった国と比べてどの程度の違いがあったかを、時系列に沿って詳細に評価しました。
焦点となったのは、妊婦の早期受診、医療施設での出産、避妊の利用状況、母乳育児、ワクチン接種、栄養状態など17項目にわたる母子保健・児童健康の指標です。
(今回の研究は、同チームが2023年に発表した研究の調査に基づいており、その研究では現金給付が女性と子供の死亡率の大幅な低下に繋がったことが示されています)
現金給付は低・中所得国で母子の健康を改善する
では実際に、現金給付プログラムを導入した国々では、どのような変化が起きたのでしょうか。
まず最も顕著だったのは、「母親の健康行動の改善」です。
現金給付が始まると、妊娠初期から医療機関を受診する女性が5.0パーセントポイント増加。
さらに、医療施設で出産する割合も7.3パーセントポイント増え、助産師などの熟練した医療者が立ち会う出産が7.9パーセントポイント増加しました。
これらの変化は、母体や新生児の死亡リスクを大きく下げることが知られています。
また、女性のリプロダクティブ・ヘルス(性と生殖に関する健康)でも好影響が現れました。
たとえば、計画的な妊娠(望まれた妊娠)の割合が1.9パーセントポイント増加し、出産と出産の間隔が平均2.5か月延びるなど、無理な短期妊娠のリスクが軽減。
「避妊をしたいけれどできていない女性の割合」は10.3パーセントポイント減少し、女性が自分の意思で妊娠や出産をコントロールしやすくなったことがうかがえます。
子どもたちへの影響も見逃せません。
現金給付プログラムの導入後、乳児の完全母乳育児率が14.4パーセントポイントも増加し、栄養面で最低限のバランスが確保できている子どもの割合も7.5パーセントポイントアップ。
はしかワクチンの接種率も5.3パーセントポイント向上し、下痢や低体重の子どもが減るなど、子どもの健康指標は幅広く改善しました。
こうした結果がもたらされた背景には、現金給付によって経済的な余裕が生まれ、通院やワクチン接種、十分な食事、衛生的な生活など健康的な選択がしやすくなることがあります。
さらに、プログラムの対象範囲(カバレッジ)が広いほど、社会全体の意識や行動が変化しやすくなる「波及効果」も考えられます。
もちろん、限界はあります。
すべての健康指標が改善したわけではなく、初産年齢や発育不良などには有意な変化が見られませんでした。
現金給付だけで万能に社会問題を解決できるわけではなく、教育・医療インフラの整備や地域社会のサポートと組み合わせていくことが今後の課題となるでしょう。
貧困対策としての現金給付は、単なる経済支援にとどまらず、母子の健康や子どもの未来にも大きな恩恵をもたらす可能性があることが、この大規模な研究で示されました。
今後、世界各国の政策設計において、「お金の使い方」が人々の健康をどこまで支えられるのか、さらに注目が集まりそうです。
参考文献
Cash transfers boost health in low- and middle-income countries, data reveal
https://medicalxpress.com/news/2025-11-cash-boost-health-middle-income.html
元論文
The effects of government-led cash transfer programmes on behavioural and health determinants of mortality: a difference-in-differences study
https://www.thelancet.com/journals/lancet/article/PIIS0140-6736%2825%2901437-0/abstract
ライター
矢黒尚人: ロボットやドローンといった未来技術に強い関心あり。材料工学の観点から新しい可能性を探ることが好きです。趣味は筋トレで、日々のトレーニングを通じて心身のバランスを整えています。
編集者
ナゾロジー 編集部

