事実は小説よりも奇なりを体現する研究結果です。
アメリカのテキサス大学MDアンダーソンがんセンター(MD Anderson Cancer Center)で行われた研究によって、新型コロナウイルス感染症の予防に広く用いられているmRNAワクチンが、がんの免疫療法にも大きな効果を発揮するかもしれないことが示唆されました。
この研究では、進行した肺がんや皮膚がんの患者を対象に分析を行い、免疫療法の開始から前後100日以内に新型コロナのmRNAワクチンを接種したグループは、接種しなかったグループに比べて生存期間が(肺がんでは中央値が)約2倍になるという驚くべき関連性が観察されました。
さらに研究チームは既に「第III相臨床試験」という大規模な実験的研究(最終的な効果を人間で確認する試験)を準備しているとのこと。
もともとは感染症対策として開発されたワクチンが、なぜがんの治療にも役立つ可能性があるのでしょうか?
研究内容の詳細は2025年10月19日に『European Society for Medical Oncology Congress 2025』にて発表されました。
目次
- 免疫療法の「目覚まし時計」は新型コロナワクチンだった?
- コロナワクチンが「がんに効く」という驚きの結果
- 未来のがん治療に身近なワクチンが加わる可能性
免疫療法の「目覚まし時計」は新型コロナワクチンだった?

がん治療に、新型コロナウイルスのワクチンを使う――。
正直なところ、この話を聞いたとき、少し奇抜すぎて理解が追いつかなかった方も多いかもしれません。
ワクチンというと、そもそも感染症を防ぐために使うイメージが一般的であり、インフルエンザワクチンのように、体に入ったウイルスを免疫が覚えておいて退治するための準備、というのが本来の役目です。
そのため、がんの治療とはまったく別世界の話だと思われても不思議ではありません。
ところが近年、「免疫療法」というがんの新しい治療法が急速に注目されています。
免疫療法とは、薬を使って患者自身が持つ免疫システムを活性化させ、がん細胞を自分の体内の免疫の力で攻撃しようというアプローチです。
もともと私たちの免疫細胞は、体内に侵入した細菌やウイルスを敵とみなして攻撃し、感染症を防いでくれていますが、実はがん細胞も本来なら「敵」として免疫の攻撃対象になるはずです。
しかし現実には、多くのがん細胞は巧みに免疫の目をかいくぐり、攻撃されないよう「カモフラージュ」をしています。
免疫療法が成功するには、この免疫細胞ががんを攻撃するスイッチを完全にオンにする必要がありますが、いくら治療薬を使っても、スイッチが完全に入らず「眠ったまま」になってしまうことが課題となっていました。
そこで登場したのが、少し乱暴な比喩ですが「ウイルス感染をあえて演出する」というアイデアです。
私たちの免疫システムは、ウイルスが侵入すると一気に目覚め、外敵を倒そうと全力で活動を開始します。
つまり、がん細胞を倒すために免疫細胞を目覚めさせるには、本当にウイルスに感染する必要はなくても、「ウイルスが侵入した」と免疫細胞に錯覚させてしまえばいい、ということです。
実際、2025年7月に報告された動物実験では、この驚くべき仮説がすでに一定の成功を収めています。
マウスに対して特定のがんを標的としていない、ごく一般的な(専門的には「非特異的」と呼ばれる)mRNAワクチンを投与しました。
すると、ワクチンが体内に入ると免疫細胞はまさに「緊急事態だ、ウイルスがやってきたぞ!」という具合に最高レベルの警戒モードに切り替わったのです。
この強い反応が、がん細胞に対する免疫攻撃力を大きく向上させることが確認されました。
ここで研究チームは、「もしや、新型コロナワクチンでも同じような効果が人間でも起きるのでは?」と、大胆な仮説を立てました。
新型コロナウイルスのmRNAワクチンも同様に、「免疫システムにウイルス侵入を警告する」というメカニズムを利用していますから、理論的には免疫を最大限に覚醒させる「非常ベル」としてがん治療に役立つ可能性があるわけです。
がんの中でも特に治療が難しい進行がんでは、従来の免疫療法が思ったように効果を出せず、患者にとって「これ以上の手がない」という非常に厳しい壁が存在しています。
しかし、もしこの壁を私たちがすでに手にしている新型コロナワクチンで打ち破れるとすれば、これはまさに治療における大きな前進となるかもしれません。
果たして、感染症予防を目的に作られたワクチンが、がん免疫療法という異なるフィールドで、本当に救世主のような役割を果たすことができるのでしょうか?
コロナワクチンが「がんに効く」という驚きの結果

研究チームは最初に、実際に治療を受けている患者さんたちの医療記録を詳しく調べるところから始めました。
調査の対象になったのは、アメリカのテキサス大学MDアンダーソンがんセンターという施設で、2019年から2023年までにがんの免疫療法を受けていた1000人以上の患者さんたちです。
特に対象としたのは、進行した肺がんと悪性黒色腫(メラノーマ)という種類の皮膚がんでした。
この研究で最も重要だったポイントは、新型コロナウイルスのmRNAワクチンを接種したかどうかでした。
具体的には、免疫療法の治療を始める前後100日以内という比較的短い期間に、このワクチンを接種していた人と、接種しなかった人のその後の生存期間を比較したのです。
すると、非常に興味深い差が見えてきました。
例えば、進行した肺がんの患者さんの場合、ワクチンを接種しなかった人たちの生存期間の中央値(生存者を順に並べて中央に位置する人の生存期間)が約20.6か月でしたが、ワクチンを接種した患者さんたちでは約37.3か月まで延びていました。
つまり単純計算で(肺がんでは中央値が)約2倍近くも生存期間が延びるという、はっきりとした差が確認されたのです。
また皮膚がんのメラノーマでは、生存期間の中央値はまだはっきりとは出ていませんが、3年間の生存率で見ると、ワクチンを接種しなかった患者さんでは約44%だったのに対し、接種した患者さんたちでは約67%に改善しました。
さらに、比較のためにインフルエンザや肺炎のワクチンを接種した人のデータも調べましたが、こちらはがんの生存期間に明確な改善は見られませんでした。
つまり、この「コロナのmRNAワクチンだけ」に特別な仕組みが働いている可能性が出てきたわけです。
さらに研究者たちが特に驚いたのは、本来「免疫療法が効きにくい」とされている患者さんたちでの大きな効果でした。
一般的にがん細胞は「PD-L1(ピーディーエルワン)」というタンパク質を表面に作り出して、これを一種の「盾」にして免疫細胞からの攻撃を防いでいます。
ところが一部のがん細胞は、この「盾」をほとんど持っておらず、免疫細胞から見えないように隠れる「隠密行動」で免疫攻撃を回避しています。
こうしたタイプは「免疫冷遇型」と呼ばれ、従来は免疫療法がなかなか効かない手強い相手でした。
ところが、今回の研究では、この「隠密型」のがん患者さんにおいても、ワクチンを接種したことで3年後の生存率が約5倍に高まるという結果が観察されました。
いったいこれは何が起きているのでしょうか?
研究チームはこの謎を探るために詳しく調べました。
すると、新型コロナワクチンが体の中に入った時に、体内で一種の「非常ベル」として働き、免疫システムに強力な警報を出すことが分かりました。
これが免疫細胞を強く刺激して、普段はなかなか起きないほどの「最高警戒態勢」にまで引き上げてしまうのです。
すると今まで免疫をうまくすり抜けていた「隠密行動型」のがん細胞も、慌ててPD-L1という「盾」を作り始めます。
しかし実は、患者さんたちはこの「盾」を無効化する「免疫チェックポイント阻害薬(ICI)」という薬も同時に投与されています。
そのため、がん細胞が慌てて作った「盾」はすぐに無効化されてしまい、むしろがん細胞が自ら「ここにいる」と目印を付けて免疫細胞に教えてしまう結果になったのです。
比喩で言えば、がん細胞が「免疫から逃げて隠れていたのに、自分で大声を出して居場所を教えてしまった」ような状態です。
さらに研究チームは、この仮説をしっかり確かめるため、マウスを使った動物実験でも検証しました。
その結果、免疫チェックポイント阻害薬と新型コロナウイルスのmRNAワクチン(動物実験用モデル)を一緒に投与すると、これまでは効果がなかったタイプのがんでも腫瘍の成長が明らかに抑えられたのです。
まさに「効かなかったはずの治療」を「効く治療」に変える可能性が示されました。
こうして研究チームは、患者さんたちの医療データと動物実験という2つの異なる角度から、「感染症用のmRNAワクチンで免疫を覚醒させる」という方法が、がん治療の大きな突破口になる可能性を示しました。
未来のがん治療に身近なワクチンが加わる可能性

今回の発見の本質を一言で表すなら、「誰もが知っている新型コロナワクチンが、意外にもがん治療を後押しする可能性を秘めている」ということになります。
ただの感染症予防のために作られたはずの一本のワクチンが、がん患者さんの生存期間にここまではっきりとした差をもたらす可能性があるとすれば、それは患者さんにとってかけがえのない命の時間を生み出す、非常に価値ある朗報となるでしょう。
しかも、この研究で使われた新型コロナのmRNAワクチンは、すでに世界中で何十億回も接種されており、安全性や副作用についてのデータが多く蓄積されています。
つまり、新しい薬を一から開発するのとは違い、すでに手元にある道具をうまく再利用して治療効果を高められる可能性があるのです。
研究チーム自身も、この点を非常に重要だと考えており、「幅広い患者さんに使える汎用的な免疫強化剤(免疫ブースター)」として、コロナワクチンの可能性に大きな期待を寄せています。
現在、研究チームはさらにこの可能性を確かめるために、「第III相臨床試験」という大規模な実験的研究(最終的な効果を人間で確認する試験)を準備しています。
もしこの試験で効果がはっきりと証明されれば、免疫療法を受ける多くの患者さんにとって、新型コロナワクチンを治療プロトコル(標準的に使われる治療計画)に取り入れる道が現実味を帯びてくるでしょう。
本来なら治療効果が期待できなかった免疫療法を、身近にあるワクチンという手軽な方法でより効果的にできるとすれば、医療分野における大きな前進と言えるでしょう。
もしかしたら近い将来、新型コロナワクチンはただの感染症予防薬という本来の役割を超えて、「がんと戦うための免疫を目覚めさせる」新しい役割を与えられるかもしれません。
参考文献
European Society for Medical Oncology Congress 2025
https://cslide.ctimeetingtech.com/esmo2025/attendee/confcal/show/session/345
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部