マウスの社会にも「勝ち」と「負け」を決める見えない力が働いているようです。
日本の沖縄科学技術大学院大学(OIST)で行われた研究によって、わずか1%ほどしか存在しない特殊な脳細胞が「負けたあとに引き下がるかどうか」を決めていることがわかりました。
研究チームは、オスのマウスを使い、他のケージのマウスと戦わせて社会的な順位の変化を観察しました。その結果、外の世界で負けた経験をもつマウスは、自分のグループでも地位を下げる一方、ある脳内の細胞を働かなくすると、この「敗者効果」が弱まったのです。
つまり、体の大きさではなく「経験」がマウスの社会的順位を動かしていたのです。
では、この小さな細胞がどのようにして「譲る」という社会的な判断を生み出しているのでしょうか?
研究内容の詳細は2025年10月17日に『iScience』にて発表されました。
目次
- 「負けグセ」は脳の奥でつくられていた
- たった1%の脳細胞が「負けて引き下がる」を決めていた
- 強い者が勝つのではなく、“勝った者が強い”
「負けグセ」は脳の奥でつくられていた
勝負を決める要因は「体格」よりも「経験」──そう聞いて、皆さんはどう感じるでしょうか?
普通は、「強い」と聞けば、体が大きくて力があることを連想しますよ。
実際、スポーツの試合でも体格の良い選手の方が有利そうに見えるでしょう。
ところが、経験豊富なベテラン選手に体格で勝る新人が簡単に負けてしまうことはよくあります。
「あの先輩、やっぱり経験が違うよね…」という会話を聞いたことがある人もいるでしょう。
この「経験がモノを言う」現象、実は人間だけの話ではありません。
動物の世界でも、群れの中には必ずと言っていいほど「ボス」と「部下」の序列(順位)が生まれます。
ボスは常に優先的にエサを食べたり、メスと交尾したり、いわば群れの「王様」として君臨します。
一方、部下は基本的にボスには逆らわず、争わずに譲る立場をとります。
なぜこうした序列が安定するのかというと、毎回争ってケガをするよりも、役割を決めておいたほうが群れ全体にとってメリットがあるからです。
つまり、力関係が決まっている方が、無駄な争いが減るわけです。
そんな序列ですが、必ずしも固定されたものではありません。
例えば、一度勝った動物は次の勝負でも勢いに乗って積極的になります。
一方、一度負けた動物は次の勝負に対して弱気になり、譲りがちになるという現象があります。
動物行動学では、これらをそれぞれ「勝者効果」と「敗者効果」と呼び、古くから観察されています。
たとえばヘビやザリガニを使った研究では、直前の勝負で負けた個体は本来ならば格下であるはずの相手にも撒けてしまうことが示されています。
さらに興味深いことに同様の勝者敗者効果は人間にもみられることがわかってきました。
ただ、「なぜ経験によって態度が変わるのか?」という脳のメカニズムは長らく謎のままでした。
「勝てば強気になり、負ければ大人しくなる」という現象は、単なる心理的な学習と考えられてきましたが、脳のどこでその変化が起きているかまでは分かっていませんでした。
近年、いくつかの脳領域が関与している可能性が示されています。
研究者の関心は、「前頭前野」という脳の前側の領域にも向いています。
また、ある研究では外側手綱核(がいそくたづなかく)という脳の奥深くを刺激すると、ボスの地位が下がったという報告もあります。
こうした諸領域が連携して、社会的な順位の変動を調整しているのではないかと考えられてきました。
しかし、それら「司令塔」からの指示を末端で受け、行動を切り替える場所がどこかは、これまで明らかではありませんでした。
そこで今回の研究チームは、線条体背内側部(略称:DMS)という脳の部位に目をつけました。
線条体は脳の奥深くにあり、私たちがそのときどきの状況に応じて動きを選ぶときの柔軟性(行動を切り替える力)を支える働きを持つとされています。
その中のコリン作動性介在ニューロン(アセチルコリンを出す連絡役ニューロン)は、脳内のわずか1%ほどしか存在しませんが、周囲の神経を調整する影響力が強いと考えられてきました。
そこで研究チームは仮説を立てました。もしかすると、マウスが勝ち負け経験を通じて行動を切り替えるスイッチは、この細胞たちかもしれません。
たった1%の脳細胞が「負けて引き下がる」を決めていた
動物たちの世界でも、ボス争いにはちょっとしたドラマがあります。
研究チームが用いたマウスの実験では、こんなドラマが起きました。
まず研究チームは、オスのマウスを数匹ずつケージ(檻)の中で同居させました。
動物社会には自然と力関係、つまり序列(順位)が生まれます。
その順位を客観的に調べるために、「ドミナンスチューブテスト」と呼ばれる方法が使われました。
これは透明な細い筒の両端から2匹のマウスを同時に入れ、真ん中で鉢合わせさせる実験です。
筒の中ではすれ違う余地がありません。
そこで、必ずどちらか一方が相手を押し戻して筒の外に追い出すことになります。
先に後退した方が負け、押し切った方が勝ち、というシンプルな勝負です。
こうして各ケージ内で、すべてのマウス同士の対戦を何日も繰り返し行いました。
この「総当たり戦」の結果から、グループ内での順位(ボスと下位)がはっきり決まりました。
ここからが本番です。
研究者は、他のケージから同じ順位のマウスを選び出し、「他所のボス同士」「他所の下位同士」をそれぞれ対決させました。
つまり、他のケージのマウスと競争してもらい、「外の世界で勝ち負けの経験」をさせたのです。
すると、驚くような変化が起きました。
自分のケージでは常に勝ってボスだったマウスでも、他のケージの強い相手に負けを経験すると、途端に自分のケージ内での順位も下がってしまったのです。
実際、外部対戦で負けを経験したボスマウスの多く(約3分の2=6/9)は、その後に自分より下位の仲間にも負けて、ボスの地位を明け渡してしまいました。
逆に、外部で勝った経験を積んだ下位のマウスは、自分のケージ内でも格上の相手に勝てることがありました。
いわば「下剋上」です。
さらに面白いことに、マウスの体重(体格)と順位には関係が見られませんでした。
普通は「力の強いマウスがボスになるのでは?」と思われがちですが、実は体の大きさよりも、勝敗の経験が順位を決める要素の一つである可能性が高いのです。
マウス社会でも「勝ち癖」や「負け癖」が順位を決めているんですね。
では、このような勝敗経験を受けてマウスの態度が変わる仕組みは、一体どのように脳で作られているのでしょうか?
そこで研究チームが注目したのは、「線条体背内側部」という脳の一部分です。
線条体という場所は、脳の奥深くにあり、私たちがそのときどきの状況に応じて行動を選択したり、柔軟に切り替えたりする働きを支えています。
特に線条体の中の背内側部分(略称:DMS)には、「コリン作動性介在ニューロン」という珍しい神経細胞が存在しています。
この細胞は脳内物質「アセチルコリン」を放出し、周囲のニューロン(神経細胞)の働きを調整します。
いわば脳内の指揮者のような存在で、数は脳内の細胞のたった1%程度しかいないにもかかわらず、大きな影響力をもつと考えられてきました。
研究チームは、この細胞こそが勝敗によってマウスの行動を切り替えるスイッチではないかと考えました。
そこで特殊な遺伝子技術を使って、線条体背内側部のこのニューロンだけを選んで機能しないように操作しました。
つまり、この細胞を働かないようにしたマウスを作ったのです。
するとどうでしょう。
興味深いことに、敗北した後に順位が下がるという「敗者効果」が、以前よりも弱まりました。
一方、勝った経験によって自信をつける「勝者効果」の方は、特に明確な差は見られませんでした。
この結果から、線条体背内側部のコリン作動性介在ニューロンは、「負けた経験を受け入れて行動を変えるかどうか」のスイッチとして働く可能性が示されました。
言い換えると、この細胞が正常に働くことで初めて、「今回は負けたからおとなしくしよう」という判断が可能になるのかもしれません。
逆に、この細胞が働かないと、マウスは負けても行動を変えにくく、順位の変動が起きにくいというわけです。
研究チームはさらに仮説を立てています。
それは、勝者効果と敗者効果は、脳内の別々の回路で作られている可能性があります。
勝者効果は、勝った経験が「ご褒美(報酬)」として脳に刻まれる回路で作られ、敗者効果は、負けた状況に合わせて行動を切り替える回路で処理されるというものです。
今回、敗者効果だけが弱まった結果は、この仮説を支持する証拠となり得るでしょう。
この発見は、動物の社会的順位が柔軟に変動する脳内の仕組みを示す初めの一歩と考えられます。
強い者が勝つのではなく、“勝った者が強い”
今回の研究が明らかにしたのは、「勝ち負けの経験」がマウスの社会的序列を動かす、脳の中のスイッチの存在です。
しかも、そのスイッチ役を果たしていたのは、線条体(せんじょうたい)という脳の奥深くにある「コリン作動性介在ニューロン」というわずか1%ほどの細胞たちでした。
このニューロンが正常に働いていると、マウスは負けた経験をきちんと受け入れ、「今回は譲ろう」と判断を変えられる可能性があります。
しかし、この細胞の働きを止めると、マウスは負けても引き下がりにくくなり、順位変動が起きにくくなります。
この発見は、動物の社会的順位を柔軟に変動させる脳の仕組みへの最初の具体的な手がかりと考えられます。
要するに、「負けたら大人しくなる」というこれまで感情の話と思われてきた行動の裏側に、神経回路の仕組みが見えてきたのです。
たとえば、職場でリーダー的な人が、別の場では控えることがあるように、人は環境で立場を変えます。
こうした柔軟さは、社会性という人間らしさの根っこかもしれません。
研究チームは、このマウスの仕組みがヒトの社会的行動の変化理解にもヒントを与える可能性があると述べています。
研究チームは今後、光遺伝学などでリアルタイム観察する計画を立てています。
それでも、この研究は価値があります。
マウスたちの小さな押し合いの中に、社会性という深いテーマのヒントが隠れていたのです。
あえて言えば、強い者が勝つのではなく、“勝った者が強い”という見方もできるかもしれません。
元論文
Cholinergic interneurons of the dorsomedial striatum mediate winner-loser effects on social hierarchy dynamics in male mice
https://doi.org/10.1016/j.isci.2025.113581
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部