世界のトラの約4分の3が生息していると言われるインドには、世界で唯一の“ブラックタイガー”の群れが存在します。
このブラックタイガーは、インド東部オディシャ州の「シミリパル・タイガー保護区」にのみ生息する、他に類を見ない特別な存在です。
一見すると新種のように見えますが、その正体は何なのでしょうか。
本記事では、この“ブラックタイガー”がなぜ誕生し、なぜ世界でもここにしかいないのか、そしてその背後にある深刻な問題について詳しく解説します。
目次
- インドの保護区だけに生息する「ブラックタイガー」
- ブラックタイガーが示す“危機のサイン”とは?
インドの保護区だけに生息する「ブラックタイガー」
インドにおける野生トラの復活劇は、世界的な保全活動の成功例として知られています。
2006年から2018年にかけて、インドのトラの個体数は倍増し、生息地も大きく広がりました。
その一方で、局所的な個体群に注目が集まっています。
なかでも注目を集めるのが「ブラックタイガー」と呼ばれる特別なトラの存在です。
ブラックタイガーは、その名の通り、全身が通常より黒く、黄色やオレンジ色よりも黒色が目立つ存在です。
Glad to announce that #Odisha is setting up an exclusive Melanistic Tiger Safari near Similipal Tiger Reserve in #Mayurbhanj. Tourists and visitors can now have a glimpse of the rare and majestic species found only in Odisha. pic.twitter.com/h3g2ep8tui
— Naveen Patnaik (@Naveen_Odisha) January 24, 2024
しかし、実はこのトラは「別種」ではなく、ベンガルトラ(Panthera tigris tigris)の中の遺伝的変異個体です。
動物の体色が通常より黒っぽくなる現象は「メラニズム」と呼ばれます。
「真っ黒なジャガー」や「真っ黒なリス」もこの現象の一例です。
しかし、シミリパルのブラックタイガーは一般的なメラニズムとは異なり、「pseudomelanistic(疑似黒色化、偽メラニズムなどと呼ばれることも)」と呼ばれる特殊な状態です。
このpseudomelanisticでは、通常の縞模様が極端に太くなったり合体したりすることで、全体的に黒っぽく見えるようになります。
オレンジ色の部分が目立たなくなり、縞が体全体を覆うような印象です。
この珍しい模様の原因は、2021年の遺伝学的研究によって明らかになりました。
それは「taqpep」と呼ばれる遺伝子の変異によるものです。
この研究では、シミリパル保護区のトラ12頭を調査したところ、そのうち10頭がこの変異を持っていることが判明しました。
一方、インド国内の他の地域に生息する395頭のトラを調べたところ、この遺伝子変異はまったく見つかりませんでした。
この遺伝子変異は「常染色体劣性遺伝」(両親の両方から同じ変異を受け継ぐと現れる特徴)であり、両親から同じ変異を受け継がないと、はっきりとしたpseudomelanisticにはなりません。
2014年の時点で、シミリパル保護区にはわずか4頭しかトラが残っていませんでした。
そのなかの1頭のオスがこの遺伝子を持ち、彼の子孫を含む限られた個体群で珍しい模様が一気に広がったと考えられています。
今では保護区のトラの3分の1から約半数が、ブラックタイガーだと言われています。
このように、「ブラックタイガー」とはベンガルトラの遺伝的変異による、珍しい「pseudomelanistic」個体群です。
ではなぜ、ブラックタイガーはシミリパル保護区だけにしか存在しないのでしょうか。
ブラックタイガーが示す“危機のサイン”とは?
ブラックタイガーがシミリパル保護区でのみ増えている最大の理由は、生息地の孤立と個体群の遺伝的閉鎖性にあります。
もともとトラは広い領域を移動し、異なる個体群どうしが混ざり合うことで遺伝的多様性を保ってきました。
しかしシミリパル保護区は、周囲の他のトラ生息地からおよそ160kmも隔たれており、外部のトラと交配する機会がほぼ絶たれています。
これは人間による森林伐採や開発、道路建設などが生息地を分断し、「遺伝的孤立」を招いた結果かもしれません。
では、シミリパル保護区内だけでブラックタイガーが増えているという現象がなぜ問題なのでしょうか。
この事実は、一見“珍獣の増加”として魅力的に映ります。
しかし実はこれ、近親交配が進み、遺伝的多様性が極度に損なわれている可能性があるというサインです。
野生動物は遺伝的多様性があるほど病気や環境の変化に強いですが、限られた個体で繁殖が続くと、さまざまなリスクが高まってしまいます。
長期的には絶滅のリスクも見逃せません。
Nature never fails to surprise us. This is one of the rarest of the rare…
A complete Pseudo melanistic tiger family from the forests of Odisha😌 pic.twitter.com/SQx6dQo3sD— Susanta Nanda IFS (Retd) (@susantananda3) January 7, 2024
さらに近年、このブラックタイガーを観光資源として利用しようという動きも見られました。
シミリパル保護区近郊に、ブラックタイガーだけを見せる新たなサファリ施設を設ける計画が発表されたのです。
そしてこの施設が、ブラックタイガーのさらなる近親交配を招く可能性が指摘されています。
保全の現場では「トラの頭数を増やす」だけではなく、「孤立した個体群同士をつなげて遺伝的多様性を守る」ことが大きな課題となっています。
ブラックタイガーは見た目の珍しさだけでなく、遺伝的多様性の危機や生息地分断という現代の生物多様性保全の課題を象徴する存在です。
本当の意味でトラを守るには、“希少さ”に目を奪われるだけでなく、その裏にある自然環境と遺伝子の多様性に目を向ける必要があるのかもしれません。
参考文献
World’s Only Population Of Black Tigers Lives In A Single Reserve In India
https://www.iflscience.com/worlds-only-population-of-black-tigers-lives-in-a-single-reserve-in-india-81022
ライター
矢黒尚人: ロボットやドローンといった未来技術に強い関心あり。材料工学の観点から新しい可能性を探ることが好きです。趣味は筋トレで、日々のトレーニングを通じて心身のバランスを整えています。
編集者
ナゾロジー 編集部