火事と聞くと「炎に巻き込まれて亡くなる」というイメージを持つ人が多いかもしれません。
しかし実際には、火災による死亡の大半は炎そのものではなく、一酸化炭素(carbon monoxide, CO)による中毒が原因です。
一酸化炭素は物が不完全燃焼したときに生じる無色・無臭のガスで、吸い込むと気づかないうちに血液の酸素運搬を妨げ酸欠によって命を奪ってしまうのです。
総務省消防庁の調査でも、火災で亡くなる人の6〜7割は一酸化炭素中毒が主因だと報告されています。
ところが、この一酸化炭素中毒には有効な解毒剤がこれまで存在せず、高圧酸素療法などの酸素を大量に送り込むことで一酸化炭素を体から追い出す方法が取られていますが、これは時間がかかり、脳や心臓に深刻な後遺症を残すことが少なくありませんでした。
そうした中、アメリカのメリーランド大学医学部(University of Maryland School of Medicine)らの研究チームが発表した、一酸化炭素の解毒剤開発が注目を集めています。
これは血液中の一酸化炭素をすばやく捕らえ、体外に排出する仕組みを持つもので、もし実用化されれば火災や事故での被害を大きく減らせる可能性があります。
この研究の詳細は、2025年8月5日付で科学雑誌『Proceedings of the National Academy of Sciences(PNAS)』に掲載されています。
目次
- 一酸化炭素中毒の治療方法の限界
- 数分で赤血球からCOを引き抜き、安全性も高い
一酸化炭素中毒の治療方法の限界

一酸化炭素中毒は、火事以外にも、石油ストーブやガスヒーター、ガス給湯器利用時の換気不足でも発生することがあり、意外と身近にある怖い症状の1つです。
日本でも毎年のように、中毒事故で亡くなる人がおり、米国でも毎年およそ5万~10万件の救急受診と約1,500人の死亡が報告されており、被害は小さくありません。
一酸化炭素中毒が厄介なのは、死亡の危険があるというだけでなく、たとえ助かったとしても深刻な後遺症を残すケースがあるという点です。
一酸化炭素は血液中の赤血球が持つヘモグロビン(hemoglobin)という赤いタンパク質に強く結びつきます。
ヘモグロビンは本来なら酸素を全身へ運ぶ役目を持ちますが、一酸化炭素が先に席を取ってしまうと酸素が運べなくなります。
この状態のヘモグロビンは一酸化炭素ヘモグロビン(carboxyhemoglobin)と呼ばれ、通常の酸素よりはるかに強く結合してしまい離れにくい性質があります。
結果として、脳や心臓のように酸素を多く必要とする臓器が酸欠でダメージを受け、記憶障害や集中力の低下、心筋の障害といった後遺症につながるのです。
このような状態に陥ってしまった場合に、現在医療が行える標準治療は、100%酸素を吸わせる高流量酸素吸入や、高圧環境で酸素を吸わせる高圧酸素治療です。
これらは血液中の酸素の濃度を高めて、一酸化炭素を少しずつ押し出していきます。
ただこの酸素療法では、完全に酸素と一酸化炭素が入れ替わるまでに時間がかかります。さらに搬送や準備にも時間を取られるため、たとえ命が助かっても脳や心臓などの臓器にダメージが残ってしまうことが少なくありませんでした。
そこ今回ので研究チームは「血液の中で一酸化炭素を直接捕まえて外に排出する解毒剤を作る」という、これまでとはまったく異なるアプローチを考えました。
そこで着目されたのが、土壌細菌が持つ“一酸化炭素に結びつくタンパク質”です。
このタンパク質はRcoM(regulator of CO metabolism)と呼ばれ、ごくわずかな量の一酸化炭素でも素早く結合して反応を起こす性質を持っています。

もともとは細菌が周囲に一酸化炭素があるかどうかを判断するための「センサー」として働いていたものですが、研究チームはこの“強くCOと結びつく力”を一酸化炭素中毒の治療に利用できないかと考えたのです。
そして研究者たちはこのRcoMをベースに、医療用にふさわしい性質を持つよう設計し直し、RcoM-HBD-CCCという小さなタンパク質を作りました。
このタンパク質は血液中に入ると、一酸化炭素に非常に強く結びつき、ヘモグロビンから一酸化炭素を引きはがす役割を果たします。
たとえるなら、血液の中に入れる「小さなタンパク質の掃除屋」で、毒ガスだけを狙って捕まえるイメージです。
さらに重要なのは、酸素と結びつく力は弱いため、酸素の運搬は邪魔しにくいという点です。
研究チームは、まず試験管内で赤血球からどのくらい素早く一酸化炭素を取り除けるかを調べました。
次に、マウスに急性の一酸化炭素中毒を起こして、このタンパク質を静脈注射し、血液の中でどのように働くかを確かめました。
数分で赤血球からCOを引き抜き、安全性も高い
マウスの実験では、RcoM-HBD-CCCを注射すると、赤血球にしがみついていた一酸化炭素が短時間(数十秒~数分)でこのタンパク質に移り替わることが確認されました。
その結果、血液中のヘモグロビンは再び酸素を運べる状態に戻り始めました。
このタンパク質は一度つかまえた一酸化炭素をほとんど離さない強さを持つため、再び血液に戻る心配が少ない点が大きな利点です。
さらに安全性の観点でも前進がありました。
過去にはヘモグロビンそのもののようなタンパク質を投与すると、一酸化窒素(nitric oxide, NO)という血管を広げるガスを奪ってしまい、血圧が上がるなどの副作用が問題になりました。
今回のRcoM-HBD-CCCはそんな一酸化窒素(NO)との不要な反応性が低く、マウスの実験では血圧の大きな乱れが見られず、臓器のダメージを示す検査値の上昇も確認されませんでした。
投与後については、約45分後の尿から、このタンパク質がCOを抱えたまま排出されていることが確かめられました。
体に長く残りにくい点も安心材料になります。
救急車で投与できる「真の解毒剤」になるかも

もしこの解毒剤候補が人でも安全かつ有効だと確かめられれば、医療の現場は大きく変わります。
救急車に常備して現場で投与すれば、病院に着く前から血液の「浄化」を始められる可能性があるのです。
その結果、火災事故などでも現場で一酸化炭素中毒の治療を実施でき、後遺症のリスクを下げ、助かる命を増やせるかもしれません。
一方で、現時点のデータは動物実験での成果であり、人で同じ効果と安全性が得られるかは慎重に確認する必要があります。
必要な投与量、投与のタイミング、繰り返し使った場合の影響など、臨床試験で解くべき課題は多く残っています。
それでも「短時間で血液から一酸化炭素を抜く」というコンセプトは、従来の酸素で時間を掛けてCOを押し出すという“一酸化炭素中毒治療”の限界を補う新しい発想です。
一酸化炭素中毒は、家庭の事故から火災や災害時まで、誰にとっても身近なリスクです。
RcoM-HBD-CCCという小さなタンパク質の掃除屋は、その見えない脅威に対して、本格的な解毒剤の有力候補となり得る力を示しました。
実用化までには検証が必要ですが、救急の現場で命と生活の質を守る、新しい選択肢が見えてきたと言えるでしょう。
参考文献
New Protein Therapy Shows Promise as First-Ever Antidote for Carbon Monoxide Poisoning
https://www.medschool.umaryland.edu/news/2025/new-protein-therapy-shows-promise-as-first-ever-antidote-for-carbon-monoxide-poisoning.html
元論文
Engineering a highly selective, hemoprotein-based scavenger as a carbon monoxide poisoning antidote with no hypertensive effect
https://doi.org/10.1073/pnas.2501389122
ライター
相川 葵: 工学出身のライター。歴史やSF作品と絡めた科学の話が好き。イメージしやすい科学の解説をしていくことを目指す。
編集者
ナゾロジー 編集部