アンドロメダという天体について、「アンドロメダ大星雲」と「アンドロメダ銀河」という二通りの呼び方を聞いたことがあると思います。
そのためアンドロメダには大星雲と銀河が、それぞれあるんじゃないかと勘違いしている人もいるかもしれません。
しかし、この2つは同じ1つの天体を指しています。
星雲と銀河。この2つはまるで違う天体なのに、なぜ混同して呼ばれているのでしょう? 今回はその理由を壮大な天文学の歴史を通して解説していきます。
目次
- すべての始まり 星雲を記録したメシエ・カタログ
- 天の川銀河の発見と宇宙の形
- 星雲か? 銀河か? 初めて渦巻銀河をスケッチしたロス伯爵
- 宇宙はどこまで広いのか?銀河間の距離測定法の発見
すべての始まり 星雲を記録したメシエ・カタログ

星雲は、星間ガスや宇宙塵が集まってできた、その名の通り宇宙に浮かぶ雲のような天体です。
古代の天文学者たちは肉眼でこの天体を発見し、「ネビュラ:Nebula」(星雲の英名。語源はラテン語で霧・雲を表す単語「nebura」)と呼んだのです。
はっきりとした星の輝きと異なり、ぼんやりと滲んで見えるこの天体は天文学者たちにとってずっと謎の存在でした。
しかし、望遠鏡の精度が上がってくると、星雲は非常に夜空にたくさんある天体だということがわかってきます。
正体はわからないものの、星雲というほんやりした天体は宇宙ではごくありふれたもので、それほど特殊な天体ではないという認識が天文学者たちの間には広まっていくのです。
そんな星雲の研究で有名なのが、18世紀フランスの天文学者シャルル・メシエです。

ただ、メシエ自身は星雲の研究をメインにしていたわけではありませんでした。メシエは時の国王ルイ15世から、「彗星探索者(フユレ・デ・コメート)」の二つ名を賜ったほどの彗星研究者だったのです。
メシエは夜空で彗星を探すとき、彗星と非常によく似た紛らわしい天体が多いことに悩みました。
その紛らわしい天体こそが星雲です。
当時の望遠鏡では、尾を伸ばして夜空を駆ける彗星と、ぼんやり滲んだ星雲は非常にそっくりで見分けがつかなかったのです。
星雲は動かないので時間が経てば見分けがつきますが、見つけるたびに動くまで確認したのでは時間がかかって仕方ありません。そこでメシエは、発見したこの紛らわしい天体(星雲)の一覧表を作ることにしたのです。
こうしてメシエは1784年までに103個の星雲を発見し、そのスケッチを記録した一覧表は「メシエ・カタログ」と名付けられました。

メシエカタログに記録された星雲には、すべて「M」から始まるメシエナンバーが割り振られています。
ウルトラマンの故郷とされる「M78星雲」というのも、メシエカタログの78番目に記録されている星雲という意味です。
そしてアンドロメダ星雲は、このカタログに「M31」として記録されているのです。
そうこの時点では、星雲とはなんなのか? どころか銀河の存在すら発見されていなかったのです。
では人々はどのようにして、銀河を発見し、どうやって宇宙の姿を理解していったのでしょうか?
天の川銀河の発見と宇宙の形
銀河とは、誰もがよく知る通り数万を超える大量の星々が集まった領域のことです。
わたしたちの属する太陽系は、天の川銀河の中にあります。
この事実を発見したのは、18世紀イギリスの天文学者、ウィリアム・ハーシェルでした。

ハーシェルは天体はすべて同じ明るさで輝いていると考え、明るさの違い=距離の違いという考え方から観測した星をプロットし、地球がパンケーキ型の星の集まりの中にあるということを発見しました。
その後ハーシェルは、メシエカタログを手に入れて同様に星雲の観測も行い、メシエを超える数千もの星雲を発見することになります。
このとき、彼は星雲の中には1つだけ星の輝きと思えるものが見つかることに気づきます。そしてこの発見から星雲とは宇宙で塵などが集まった雲であり、1つの星雲からは1つの星が生まれてくるのだと考えました。
現代でも星雲(分子雲)が星の種であり、これが重力的に集まることで恒星が誕生すると考えられています。
そのため、ハーシェルは18世紀の人物でありながら、かなり現在の理論に近い形で宇宙を理解していたと言えるでしょう。
しかし、彼の考えでは星雲はすべて天の川銀河の中にあり、その外には天体はないだろうと考えていました。彼は天の川銀河が宇宙で唯一無二の銀河だと信じていたのです。
一方、18世紀ドイツの哲学者イマニュエル・カントは宇宙には天の川銀河に匹敵する巨大な銀河がいくつもあると考えていました。

このとき彼は銀河のことを「島宇宙」と表現し、天の川も島宇宙の1つであり、星雲とは天の川の外に浮かぶ他の島宇宙なのだと主張したのです。
その根拠としてカントは、星雲のスケッチの多くが楕円形になることを上げました。天の川銀河はパンケーキ型の円盤をしています。これを斜めに見れば楕円に見えるはずです。
そして霧や雲のように見えるのは、その距離が想像を絶するほど遠いため、大量の星の光が滲んでいるからだと説明したのです。
これは現代の知識から見れば銀河に対する非常に正しい解釈です。
ただ、こうした考え方をカントができたのは、観測事実によるものではなく、彼の神学的な信念が関係していました。
カントは神がこの宇宙にたった1つの銀河しか作らなかったとは考えられなかったのです。宇宙は無限であり巨大な銀河も宇宙には無数に浮かんでいる。それがカントの考える神の作りし世界の姿だったのです。
銀河は我々の天の川が唯一無二なのか、宇宙ではありふれた天体なのか? 星雲ははるか彼方の銀河なのか、天の川の中にある塵の雲なのか?
以降、ハーシェルとカント、どちらが正しいのかという議論は世紀をまたいで長く続くことになります。
星雲か? 銀河か? 初めて渦巻銀河をスケッチしたロス伯爵
外の銀河の詳細を初めてスケッチしたのは、莫大な財産を持つアイルランドの貴族、第3代ロス伯爵ウィルアム・パーソンズでした。

一般にはロス卿と呼ばれるこの人物は、玉の輿で莫大な財産を手にしましたが、飢饉の時期には農民たちから小作料を受け取らず、地域社会のために資金を振り分けるなど人望ある政治家でした。
そんな彼の人柄はともかく、ロス卿は天体観測に強い情熱を傾ける天文学者でもあり、職人たちとともに鉄くずにまみれながら、当時としては世界最大級となる重さ3トン、直径1.8メートル、長さは16.5メートルにもおよぶ巨大望遠鏡「リヴァイアサン」を3年の歳月を費やして建造したのです。

この怪物級の望遠鏡は、かすかにしか見えない星さえも明るく映し出し、ぼんやりした雲にしか見えなかったメシエカタログの星雲の詳細な姿も明らかにしたのです。
ロス卿がこの望遠鏡によって最初に詳細なスケッチを行ったのが「M51」星雲で、これは現代では子持ち銀河と呼ばれているりょうけん座にある渦巻銀河であることがわかっています。
下の画像の左がロス卿のスケッチ、右がNASAのハッブル宇宙望遠鏡が撮影したM51の姿です。

これを見るとロス卿はリヴァイアサンと呼ばれた怪物望遠鏡を使って、見事な精度で銀河の渦巻構造をスケッチしていたことがわかります。
この銀河には腕の先に小さな伴銀河があり、そのためこれはロス卿のクエスチョンマーク星雲という愛称も付けられました。
これは当時のヨーロッパでも大変話題になり、ゴッホの星月夜の絵画はこのスケッチにインスピレーションを受けたという噂もあったほどです。
こうして光学観測の精度が上がったことで、星雲の持つ構造の複雑さが徐々に明らかになってきます。そしてロス卿はこの観測から、星雲がただのガス雲ではないと考えるようになりました。
「星雲それ自体には、星がたくさん散りばめられている」
彼はそう考えたのです。
ただ、いくら精密に構造を示したとはいえ、彼のスケッチはこれが星の集まりであることを証明するほどの決定的な証拠にはなりませんでした。
なぜなら、当時の知識ではこの天体がどのくらいの距離にあるのかということは不明だったからです。
この天体が天の川銀河の中にあるのか? 外にあるのか? それが分からなければM51が単に複雑なガス雲なのか、星の集まった別の銀河なのか答えることはできません。
星雲か? 銀河か? この論争に決着をつけるには、天体との距離を調べる方法が必要だったのです。
宇宙はどこまで広いのか?銀河間の距離測定法の発見
天の川銀河は宇宙で唯一の銀河なのか? 天の川銀河の外にも宇宙は広がっていて他にも銀河が存在しているのか? この論争は意外なほど長く続き、20世紀になってもまだ決着が付きませんでした。
それは遠い天体との距離を測る方法がいつまで経っても見つからなかったためです。これについては、ほとんどの天文学者があきらめムードになっていました。
しかし、1912年アメリカの女性天文学者ヘンリエッタ・スワン・リービットがその問題を解決させます。

リービットは現代では女性天文学者として伝えられていますが、実は当時天文台で雇われていたただのパートタイマーでした。
パソコンもなかった当時、観測した膨大な天体写真を整理するのは大変な作業で、ハーバード天文台では女性パートタイマーを雇ってその整理をさせていました。
リービットはそんなパートタイマーの一人で、毎日大量の天体写真乾板を整理してカタログ化していたのです。そしてその作業を行う中で、彼女はマゼラン雲(銀河だが当時はまだ星雲と考えられていた)の領域に映る星の中に何百日もの時間をかけて明るさが変化している星があることに気づきます。
これ自体はセファイド変光星と呼ばれるもので、別段特別なものではありませんでしたが、彼女は膨大な写真乾板の整理をするなかで、このセファイド変光星をマゼラン雲の中に複数見つけ、それを比較したとき明るさの変わる周期が同じ星は同じ明るさであり、周期が長いほど最大輝度が明るくなることに気づくのです。

マゼラン雲の領域に見つかったセファイド変光星はだいたい地球から同じ距離にある星と理解することができます。そのためリービットの気づきは、変光周期が同じセファイド変光星は同じ明るさで光っていることを示していました。
宇宙の距離を測るのが難しいのは天体がそれぞれバラバラの明るさで輝いているためです。
もし同じ明るさで光る星を特定できた場合、見える明るさの違いから両者の距離を比較することができます。なぜなら明るさは距離のニ乗に比例して減衰していくからです。

セファイド変光星の輝度と周期の法則を発見したことで、リービットは遥か遠くの天体と地球に比較的近い星(天の川銀河内の星)の距離を比較する方法を世界で初めて示したのです。
ただリービットの時代はまだ観測精度が低く、天の川銀河内のセファイド変光星の距離自体も測定できていなかったので、彼女の発見を利用してマゼラン雲までの距離を正確に測るということ自体はまだできませんでした。
この発見から、遠い星の距離の測定に初めて成功したのは世界一有名な宇宙望遠鏡の名前にもなっているアメリカの天文学者エドウィン・ハッブルです。

ちなみにハッブルは星雲が遠い宇宙にある別の銀河だという説を支持していました。
1923年頃、ハッブルは繰り返し繰り返し「M31アンドロメダ星雲(この時点ではまだ星雲だと考えられていた)」の撮影を行っていました。
ある日、彼は天候が良かったので少し露光時間を伸ばしてアンドロメダ星雲を撮影してみました。すると写真の中に明るく輝く星が映っていたのです。
彼は最初それを「新星」だと考えました。しかし他の写真と見比べたところ、それがセファイド変光星であることに気づいたのです。

星雲の中にセファイド変光星を発見したということは、リービットの研究を使えば、その星雲との距離を測ることができます。
ハッブルの時代には、観測技術はかなり発展しており「視差法」(年周視差)などから正確に天の川銀河内のセファイド変光星の距離(数百光年)が測定されていました。
ハッブルは観測データとリービットの研究データ、そして自身が撮影したアンドロメダ星雲を比較してその距離を計算してみました。
その結果アンドロメダ星雲はおよそ90万光年の彼方にあるとわかったのです。
天の川銀河の直径はおよそ10万光年です。これはアンドロメダ星雲が天の川銀河の外、はるか彼方に存在することを示していました。
そして、そんな遠い天体が雲のように見えるということは、それがガスや塵の雲ではなく、無数の星々が集まって輝く別の銀河であることを意味しています。
発見の翌年ハッブルはこの事実をアメリカ天文学会へ報告し、天の川銀河が宇宙で唯一の銀河なのか? その外にも銀河が無数に浮かんでいるのかという宇宙の構造に関する長い論争に決着をつけたのです。
1924年のことでした。
こうして1771年にメシエによってカタログの31番目の星雲として記録されていた天体アンドロメダが、実は銀河だったということが明らかになったのです。
こんな長い経緯があったため、今でもメシエカタログに記録された天体は銀河なのに星雲と呼ばれることがあります。
今では、メシエカタログに記録された多くの星雲が、実は銀河であったことが分かっています。その一覧はNASAのページで見ることができます。
天文学の歴史に思いを馳せながらメシエカタログの天体を眺めてみると、今までと違ったロマンを感じられるかもしれません。
ちなみにウルトラマンの故郷M78星雲は本当にただの星雲です。しかし、これは台本の印刷ミスだったと言われていて、本当の設定ではウルトラマンの故郷はM87星雲なのだそうです。
M87星雲は、私たち天の川銀河も含めた100以上の銀河が集まる「おとめ座超銀河団」の中心となる楕円銀河です。
こっちのほうが確かにウルトラマンの故郷に相応しい感じがしますね。この勘違いも、銀河のことを慣習的に星雲と呼んでしまっていたことが問題だったのかもしれません。
この記事は2020年12月掲載の記事を、加筆修正して再掲載しているものです。
参考文献
Hubble’s Messier Catalog
https://www.nasa.gov/content/goddard/hubble-s-messier-catalog
『宇宙創成 (新潮文庫)』
https://amzn.to/3JIVX7u
ウルトラマンのふるさと(三菱電機)
http://www.mitsubishielectric.co.jp/dspace/column/cw40.html
ライター
海沼 賢: 大学では電気電子工学、大学院では知識科学を専攻。科学進歩と共に分断されがちな分野間交流の場、一般の人々が科学知識とふれあう場の創出を目指しています。
編集者
ナゾロジー 編集部