日本に忍び寄る第4の貧困:「時間の貧困」とは何か?

ストレス

残業を片づけ、駅ナカで夕食をテイクアウトしながら帰路につく――そんな日常を繰り返すうちに「今日は自分のために使えた時間がいったい何分あっただろう」と立ち止まった経験はありませんか。

横浜市立大学(YCU)で行われた研究によって、この“モヤモヤ”をたった6つの質問で数値化できる日本語版「主観的時間貧困尺度」が開発されました。

仕事・家事・育児に追われる私たちの「時間が足りない!」という感覚を点数化したところ、そのスコアは睡眠不足や幸福感の低下、社会的孤立、さらには仕事満足度の低下と驚くほど正確に連動していたのです。

忙しさは、気づかぬうちに「見えない貧困」へと姿を変え、私たちの心身をむしばんでいるのかもしれません。

あなたの“時間残高”はいま黒字でしょうか、それとも深い赤字でしょうか?

研究内容の詳細は『PLOS ONE』にて発表されました。

目次

  • 財布より薄い“自由時間”──あなたはいま黒字?赤字?
  • 第4の貧困が忍び寄る:時間を食う社会のメカニズム
  • 時間赤字は幸福赤字

財布より薄い“自由時間”──あなたはいま黒字?赤字?

財布より薄い“自由時間”──あなたはいま黒字?赤字?
財布より薄い“自由時間”──あなたはいま黒字?赤字? / Credit:Canva

「日本は豊かな国」という看板は、遠くのネオンサインのように虚ろに輝くだけです。

実際には――静かに着実に――私たちは四重の貧困スパイラルに足を取られつつあります。

まず第一の所得貧困。

先進国の中で抜きん出て高い相対的貧困率は、もはや統計上の“汚点”ではなく社会の地肌そのものです。

非正規雇用とひとり親世帯は毎年のように増え、賃金中央値は30年間ほぼ横ばい。国全体が稼いでも、その果実は一向に末端へ滴り落ちません。

低所得国のように食べるものに困ることはありませんが、物価高はジワジワと人々の経済的活力をそぎ取っていきます。

次に第二の教育貧困。

国際学力テストで上位を守れているのは、教育投資に資金と時間を注ぎ込める家庭が成績を押し上げているからにすぎません。

授業料・塾代・大学進学費用の値札は年々つり上がり、家計に余裕のない子どもたちはスタートラインにすら立てないまま社会に放り出されています。

高い大学進学率に比べて、日本の研究の質は長期的な下落傾向にあるのも見逃せません。

なによりこの問題については、改善の兆しが見えないことが最大の問題です。

第三の健康貧困も進行中です。

長寿国という称号の背後では、低所得層ほど自己評価健康度が低く、慢性疾患を抱えたまま仕事も休めず医療にもかかれない「静かな病人」が膨れ上がっています。

医療費の自己負担、介護の担い手不足、そして生活習慣病を誘発する安価な加工食品――すべてが健康格差を押し広げる燃料になっています。

極めつけが今回のテーマになる第四の貧困、時間貧困です。

長時間労働と家事・育児のワンオペが合わさり、睡眠と余暇は“真っ先に削るコスト”に転落しました。

日本語版PTPSで測れば、裁量時間が枯れた瞬間に幸福感は奈落へ落ち、ストレスと孤独感が急上昇し、仕事のモチベーションさえ蒸発することがはっきり数値に表れます。

これは単なる忙しさではなく、“時間という通貨”の慢性的な赤字です。

1日は確かに24時間ありますが、使い道を制限されたあとの“自由時間”は、給料日前の財布のように底が透けて見えます。

この「使える時間の薄さ」は、1970年代に経済学者クレア・ヴィッカリーが“the time‑poor”と名付けて以来、所得・教育・健康と並ぶ“第4の貧困”として世界の研究者が注目してきました。

最近では睡眠不足、メンタル不調、肥満までも引き寄せる“負の両替商”だとも言われています(参考:Miura et al., 2025)。

とりわけ日本は、世界有数の長時間労働文化と共働き世帯の急増というダブルパンチに加え、家事・育児といった「無償ケア労働」が女性や特定の家族に偏りやすい現実を抱えています。

その結果、「やることは山積みなのに自分のための時間がない」という主観的な“時間の赤字”――いわば“見えない貧困”が、都会の高層マンションから郊外のベッドタウンまで静かに広がっています。

ところが奇妙なことに、この時間貧困を国内で正確に測る“メジャー”はこれまで存在せず、忙しさの正体は霧の中にとどまっていました。

そこで今回研究者たちは、「時間が足りない!」という感覚そのものを6つの質問で点数化し、その点数が睡眠時間、幸福感、社会的孤立感、仕事満足度とどんな糸で結ばれているのかを徹底的に見極めることにしました。

第4の貧困が忍び寄る:時間を食う社会のメカニズム

第4の貧困が忍び寄る:時間を食う社会のメカニズム
第4の貧困が忍び寄る:時間を食う社会のメカニズム / Credit:Canva

研究チームはまず、“忙しさ”という霧を晴らすための新しいレンズを用意しました。

それが7段階・6項目の日本語版 主観的時間貧困尺度(PTPS) です。

質問はどれもシンプル──「運動する時間がないとよく感じる」「好きなことをする時間がないとよく感じる」など、日常の “あるある” をそのまま聞く構成で、1つにつき数秒あれば回答できるほど手軽な作りです。

しかし侮るなかれ。

回答を合計すると6点(まったく時間に困っていない)から42点(深刻な時間不足)までのスコアが出て、これが“時間残高”をひと目で示すダッシュボードになります。

翻訳と逆翻訳を繰り返し、医療・看護・経済・データサイエンスの専門家が表現のニュアンスをミリ単位で調整した結果、項目間の一貫性を示すCronbachʼs αが0.90、McDonaldʼs ωが0.94という高水準を記録しました。

これは、6つの質問それぞれがブレなく測定できていることを意味し、まるで糊でしっかり貼り合わせたように安定した物差しだと確認できたわけです。

次に、この“レンズ”を現場に向けるため、横浜市在住の結婚・子育て世帯1万世帯に郵送とオンラインで同時にアンケートを実施し、1,979人から回答を回収しました。

サンプルの7割は30代、男女比はほぼ五分五分、働いている人が9割超。

まさに「家も職場も全力疾走」の世代がぎゅっと詰まったデータセットです。

スコア分布を覗いてみると平均は24.8点。

これは“やや時間不足”を意味しますが、問題はその内訳です。

グラフを重ね合わせると、睡眠が1日7時間を下回った瞬間にスコアが急上昇、余暇が3時間を切るとさらに跳ね上がり、まるで車のタコメーターが赤ゾーンに突入するようなカーブを描きました。

反対に、労働時間や通勤時間とはほぼ無関係という意外な結果も見えました。

つまり「長く働いているから時間貧困になる」のではなく、「貴重な裁量時間が削られている」ときに私たちは強い“時間赤字”を訴えるのです。

さらにスコアを、心と体の指標と組み合わせてみました。

するとこの主観的時間貧困尺度が1点高くなるごとに、主観的幸福感はストンと落ち(相関係数 r = −0.22)、心理的ストレスはじわりと上昇(r = 0.18)、孤独感はより強くなり(r = 0.30)、仕事への満足度も目減りしていくという“4連リンク”がほぼ直線で並びました。

研究者の比喩を借りれば、「忙しさで削られるのは時計の針ではなく、私たちの幸福感だった」というわけです。

最後に、育児というファクターも見逃せません。

子どもと向き合う時間が長い親ほどPTPSが高くなる傾向がはっきり現れました。

ケア労働が重なると、自分の裁量時間は真っ先に切り詰められる──家族を支える手は温かくても、その陰で“自分の時間口座”は冷え込むという、働く世帯ならではのリアルが浮き彫りになったのです。

まとめると、このPTPSは「6つの質問×1分未満の回答」で、睡眠・余暇・幸福感・孤立感・仕事満足度まで同時に透視できる“時間貧困のMRI撮影装置”のような働きを示しました。

時間赤字は幸福赤字

時間赤字は幸福赤字
時間赤字は幸福赤字 / Credit:Canva

数字が出そろったところで改めて見えてくるのは、「時間がない」という感覚は単なるぼやきではなく、幸福感を根こそぎ奪う“見えない貧困”だという事実です。

注目すべきは労働時間や通勤時間の長さではなく、自由に使える“裁量時間”がどれだけ削られているかが決定打になっていた点でした。仕事や家事をこなし、わずかな余白を睡眠と余暇で埋める――その余白が紙のように薄くなった瞬間、幸福感は滑り台のように下がり、ストレスと孤独感はシーソーの反対側で跳ね上がります。

これは「お金が足りないから生活が苦しい」の時間版であり、“時間残高”がマイナスに傾くと心の口座まで連動して赤字になる構造です。

とりわけ育児時間との強い結びつきは、ケア労働が人知れず時間口座を食い潰している現実を示しています。

親が子に手を差し伸べるたび、その裏で自分の自由時間を切り崩している――その積み重ねが睡眠不足と孤独感となって跳ね返れば、結局は家族全体の幸福度も下がりかねません。

忙しさが親から子へ“時間貧困の負の遺産”を連鎖させるリスクすら透けて見えます。

では、どうすれば時間口座を黒字に戻せるのでしょうか。

まず個人レベルでは、月に一度でも主観的時間貧困尺度を自己診断し、得点が危険水域に近づいたら「時間を買う」戦略――家事代行や時短家電への投資、タスクの大胆な削減――を検討するのが現実的です。

企業は従業員の主観的時間貧困尺度の分布をモニターし、在宅勤務やフレックスタイムが本当に裁量時間の黒字化につながっているかをデータで検証できます。

行政もまた、家事・育児の外部サービスに補助を出したり、保育園の時間延長や病児保育の拡充で“時間給付金”を配る形の施策を優先すべきでしょう。

もっとも今回のモデルは平均平方誤差近似指数がやや高く、単身世帯や多様な働き方を十分にカバーできていないという限界があります。

次のステップは、若年層や非正規勤務者、そして高齢のケアラーなど、ライフステージの異なる集団に物差しを当て、時間貧困の地図をより精密に塗り替えることです。

結局のところ、“忙しい”とは「やることが多い」状態ではなく、「自分で決められる時間が少ない」状態でした。

時間は誰にでも一日24時間平等に与えられている――その常識は、自由時間という視点で見ると驚くほど不平等です。あなたの時計の針は、果たして自由に動けるスペースを持っているでしょうか。

それとも今も、見えない赤字を刻み続けているでしょうか。

全ての画像を見る

元論文

Development of the Japanese version of the perceived time poverty scale
https://doi.org/10.1371/journal.pone.0320807

ライター

川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。

編集者

ナゾロジー 編集部

タイトルとURLをコピーしました