私たちの目を巧みに欺く「錯覚」。
見えているはずのものが、実際とはまるで違う姿に感じられる瞬間は、誰しも経験があるでしょう。
こうした錯覚は、決して“愚か”な状態を示すのではなく、むしろ脳が複雑な推論や補完を行っている「高次機能の証拠」でもあります。
イギリスのランカスター大学(Lancaster U.)で行われた研究によって、脳の使い方を訓練することで錯覚に惑わされる度合いを減らせる可能性が示されました。
ランカスター大学のラドスラフ・ウィンツァ氏は「一般の人々も適切なトレーニングをすれば世界をより客観的に認識できるかもしれない」と語ります。
実際に、医療画像を長年見続けている放射線科医(報告放射線技師や研修中の放射線科医も含む)たちは、周囲の文脈情報を“意識的に無視”することで、錯覚のトリックに引っかかりにくくなっていることがわかりました。
誰でも焦点の当て方を工夫すれば、私たちを翻弄する錯覚のからくりをある程度克服できる――果たして、あなたは脳を鍛えることでこの驚きの可能性を実現できるのでしょうか?
研究内容の詳細は『Scientific Reports』にて発表されました。
目次
- 錯覚は訓練でどうにかなるものなのか?
- 驚愕の正答率格差! 訓練がもたらす錯覚への耐性
- 専門技術は「真の視覚力」を生むのか:脳トレーニングが描く未来
錯覚は訓練でどうにかなるものなのか?

私たちの目や脳は、周囲の情報を積極的に統合することで世界を理解しようとしています。
しかし、その働きがときに“錯覚”を生み出し、私たちを惑わせる原因にもなります。
実際、医療現場では「60~80%の診断ミスが視覚的な見落としに起因する」とも言われるほど、脳の認知プロセスと錯覚は密接な関係にあります。
興味深いエピソードとして、過去の研究では、医療画像の専門家である放射線科医(広義には報告放射線技師や研修医も含む)も「ウォーリーを探せ」のような日常的な視覚探索タスクでは一般の人と大差がなかった、という報告があります。
これは、放射線科医があくまで「医療画像という特定の領域」における視覚能力を鍛えている可能性を示唆します。
一方で、骨折の微細な線や腫瘍のわずかな影を発見するために毎日膨大な画像と向き合い、どこに注目すべきかを即座に判断しなくてはならない放射線科医には、文脈を切り離して必要な情報だけをすくい上げる特別な視覚戦略が備わっているのではないか、という見方もありました。
もしこのような「不要な要素を排除する力」が確立されるならば、その能力は特定領域のみならず「錯覚への耐性」にも波及する可能性があります。
こうした専門性の限界は、他の分野でも見られるようです。
たとえばパイロットは、計器や周囲の景色、警告表示など膨大な情報を瞬時に整理する一方、日常生活のごく単純な視覚探索では必ずしも優位性を示さないという報告があります。
また、プロゲーマーは特定のゲーム画面において極めて素早く重要要素を見極める一方、まったく別のジャンルでは特段の優位が見られないケースもあるようです。
これらの事例は、視覚的専門家がそれぞれの分野で特殊な戦略を育んでいる一方、そのスキルがどこまで汎用的に機能するのかが必ずしも明確ではないことを示しています。
そこで今回研究者たちは、医療用画像の専門家と学生グループを比較し、幾何学的錯覚への反応を通じて「どのような要因が錯覚に陥りにくい視覚を育てるのか」を調べることにしました。
こうして、脳の訓練がどこまで私たちの錯覚経験を左右できるのか、その仕組みを明らかにしようと試みたのです。
驚愕の正答率格差! 訓練がもたらす錯覚への耐性
今回の研究では、放射線科医(報告放射線技師や研修医など含む)44名と大学生107名に4種類の幾何学的な視覚錯覚(エビングハウス、ポンゾ、ミュラー・リヤー、そしてシェパードのテーブル)を提示しました。
高校の美術の授業などでも登場するこれらの錯覚は、同じ大きさの図形でも周りの形や線、向きによって「大きさ」や「長さ」が変わったように感じられるのが特徴です。
研究チームは、対象者が画面に表示された図形ペアを見て、「どちらが大きいか・長いか」を瞬時に判断する課題を行わせました。
ここでユニークなのは、医療の現場で日々「骨折線や腫瘍の痕跡」を探しているプロフェッショナルと、まだ専門訓練を十分に積んでいない学生とを直接比較した点です。
さらに、同じ錯覚でも「わざと複雑な背景」を強調したり、サイズの差をわずか数%にしたりと、かなりシビアな条件が設定されていました。
こうすることで、どの程度の「集中力」や「周辺ノイズを切り離す力」が必要なのかを、より客観的に測定できるよう工夫されています。
結果は非常に興味深いものでした。
たとえばエビングハウス錯視の条件では、専門家グループが約50%近い正答率を示したのに対し、学生グループはおよそ30%ほどしか正解できなかったというデータがあります。
この差は約20ポイントほどあり、錯覚課題においてはかなり大きな意味を持つ数値です。

また放射線科医たちは、周りの図形によってサイズ感が歪んで見えてしまう3種類の錯覚(エビングハウス、ポンゾ、ミュラー・リヤー)で、総じて学生グループよりも高い正答率を示しました。
一方、図形の「向き」が錯覚を生むシェパードのテーブルでは、両グループに大きな差は見られませんでした。
つまり「不要な文脈」や「紛らわしい線」を無視して狙いどころを見抜く訓練が、錯覚に惑わされにくい目を育てている可能性が示唆されます。
本研究は、「ある分野で習得した集中力や文脈の取捨選択の技術」が、広く「錯覚を克服する力」として働く可能性を提示し、私たちの「見る力」がどこまで伸ばせるのか、新たな扉を開いたといえるでしょう。
専門技術は「真の視覚力」を生むのか:脳トレーニングが描く未来
今回の結果から見えてくるのは、「特定の専門分野で培われた視覚スキル」が、思いのほか汎用的に働く可能性です。
これまでの研究では、放射線科医などの専門家は「自分の領域(医療画像)」にだけ能力を発揮し、それ以外の一般的な視覚探索や場面認知にはあまり転用されないと考えられてきました。
しかし、幾何学的な視覚錯覚に対しても放射線科医グループが高い精度を示したことは、「文脈を遮断して対象に集中する」という訓練が、未知の課題でも錯覚に惑わされにくい力として働いている可能性を示唆しています。
放射線科医が日々取り組んでいる医療画像の読影は、人体の内部を2次元で捉えながら必要な情報のみを見極める、いわば「局所への集中力」と「不要情報の遮断力」が鍵となる作業です。
この習慣的な視覚戦略が、後に幾何学的錯視のように「周辺の誤情報」に惑わされない目を育てたと考えられます。
反対に、周囲の物体や背景が錯覚を誘発するわけではないシェパードのテーブル錯覚では差が見られなかったことも、文脈処理の訓練が関与していることを裏づける材料です。
さらに注目すべきは、こうした専門家の能力を一般の人に応用できる可能性です。
研究チームや他の専門家のコメントによれば、「誰でも訓練すれば錯覚に陥りにくくなる」余地は十分にあるというのです。
もちろん、医療画像のような専門的訓練を何年も積むのは現実的に難しいかもしれませんが、脳の働き方や視覚のクセを意識的に変えるトレーニングが普及すれば、私たちの日常でも「より正確に物事を見抜く」ためのヒントになるでしょう。
今後の課題としては、「どんな種類の訓練を行えば最も効果的に錯覚耐性を高められるのか」「領域ごとに訓練方法の違いがあるのか」などを明らかにしていくことが挙げられます。
たとえば胸部画像の専門家がマンモグラフィでも同様の集中力を発揮できるのか、あるいは将棋やチェスなど他分野のエキスパートが類似の錯覚耐性を持つのかといった疑問も興味深いテーマです。
今回の知見は、視覚心理学や医学教育だけでなく、広く私たちの知覚能力を再定義する上で重要な一歩であり、今後もさらなる研究が期待されます。
元論文
Specific visual expertise reduces susceptibility to visual illusions
https://doi.org/10.1038/s41598-025-88178-y
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部