スイカに砂糖をかけて食べていた!江戸時代の人々はどんなフルーツを食べていたの?

日本

江戸時代は食文化が大きく発展した時代であり、江戸時代に生まれた料理の中には現在でも食べられている料理も多くあります。

そんな江戸時代ですが、料理にスポットライトが当たることは多いものの、果物に関してはあまり注目されず、当時どのような果物が食べられていたのかについてはあまり知られていません。

果たして江戸時代の人々はどのような果物を食べていたのでしょうか?

この記事ではどの果物がいつ日本にやってきたのかについて紹介しつつ、江戸時代の果物事情について取り上げていきます。

なおこの研究は、清水克志(2021)『近代日本における果物の普及に関する一考察』秀明大学紀要18巻p.23-38に詳細が書かれています。

目次

  • 続々と様々な果物が入ってきた日本列島
  • 江戸っ子はスイカに塩ではなく砂糖をかけて食べていた
  • 小さくて酸っぱかった江戸時代の桃

続々と様々な果物が入ってきた日本列島

農業全書、日本最古の農書であり当時日本で栽培されていた植物はほぼ網羅している
農業全書、日本最古の農書であり当時日本で栽培されていた植物はほぼ網羅している / credit:Wikimedia Commons

果物という存在は、今の日本において、どこか異国情緒を感じさせます。

縄文や平安の影にひっそり隠れていた日本原産の果実は、シバグリ改良の栗や柿程度に留まり、実にごく僅か

そのほかの果実は、いわば海外からやって来た輸入の使者たちです。

桃が縄文時代、梨が弥生時代に中国大陸より伝わっており、これらの果物は先史時代の人々に親しまれていました。

江戸前期の農学者・宮崎安貞が1697年に刊行した『農業全書』には、梨や栗、桃などといった全17品目が、見事な挿絵とともに記され、果物の栽培法や保存法、さらには薬効に至るまで、その多彩な利用法が綴られているのです。

実に、当時の果物は、乾燥や加熱処理、砂糖漬などの手法を経た後に食され、薬としての一面も持っていました

江戸っ子はスイカに塩ではなく砂糖をかけて食べていた

『成形図説』よりスイカ、日本全国に広がったのは江戸時代後期からである
『成形図説』よりスイカ、日本全国に広がったのは江戸時代後期からである / credit:Wikimedia Commons

江戸の夏、暑さに喘ぐ日々の中、ひと際涼しげに現れるのが「水菓子」と呼ばれるスイカです。

現代の甘美な果実とは違い、江戸のスイカは水菓子の名の通り、まるで冷水に溶け込むかのような清涼感を秘めつつも、実はその甘さに欠けていたのです。

そのため現在のようにスイカの甘さを引き立てるために塩をかけて食べるということはなく、逆に甘味を付け足すため砂糖と共に味わわれることもしばしばあったとか。

大皿に盛られた涼しげな切り口のスイカ、その横に隣り合わせる六角形のマクワウリ、さらには葉の影を巧みに映し出すビワの果実。

これらの果物は、ただの食材にあらず、夏の暑さを忘れさせる涼しげな詩情そのものとして、江戸の人々に愛されたのです。

中でも、冷し物と称された一皿の「水の物」は、切り揃えられた果実が冷水に浮かぶ様子を、まるで幻想的な水墨画の一コマのように映し出し、見る者の心に涼風を運んだといいます。

江戸の町人たちは、暑さをしのぐためだけでなく、その見事な盛り付けとともに、夏の夢を一口ごとに味わったのでしょう。

小さくて酸っぱかった江戸時代の桃

 

『本草図譜』より桃、江戸時代の桃は今の私たちが想像する桃とは大きく異なっていた
『本草図譜』より桃、江戸時代の桃は今の私たちが想像する桃とは大きく異なっていた / credit:国立公文書館

一方、江戸時代の桃はまた別の顔を持っていました。

江戸末期から明治初頭にかけて栽培された在来種の桃は、現代でお馴染みの水蜜桃とはまるで別物

果実の重さはわずか20~75グラム、まるでビワの実のような小ぶりなもので、肉質は堅く、酸味が際立つという、いわば「素朴な桃」ともいえる存在でした。

1915年発行の恩田徹彌の『果樹栽培史』によれば、これら在来種は、欧米や中国から輸入された華やかな桃に比べると、品質面で劣るとの評価がなされているのです。

しかも、宮崎安貞の『農業全書』(1697年発行)に記された桃の栽培法や品種の紹介は、すでに江戸の人々が桃という果実に、単なる点心以上の意味を見出していたことを物語っています。

古くは「和名類聚抄」に名前を連ねながらも、実際に朝廷への献上品とはならなかった桃は、室町時代以降、点心として庶民に愛されるに至ったという経緯があるのです。

さらに、「本草図譜」に記された「水蜜桃」は、実が約12センチという大振りなもので、たっぷりとした汁気が特徴。

江戸国内ではその栽培実績は微々たるものの、海外の品種としてその存在が知られていたというのは、まるで夢物語のような奇抜さを感じさせます。

 

さて、これら二つの果実は、江戸の風土と人々の生活に深く根差しておりました。

暑い夏、町角や川辺で味わう水菓子は、ただ水分補給のためだけではなく、視覚的な涼しさや、上品な味わいへの憧憬の象徴であったのです。

また桃はその小さくも個性豊かな実で時には苦味や酸味を帯びながらも、江戸の人々にとっては希少な贅沢であり、点心としての側面から一種の季節感を演出していたのです。

こうして、江戸の夏と秋、そして果物たちが織りなす物語は、現代の私たちに、ただの懐古趣味を超えた、あの日の粋な情緒と、時折露わになる人情の温かさを、そっと伝えてくれているかのように思えます。

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参考文献

近代日本における果物の普及に関する一考察(秀明大学リポジトリ)
https://shumei-u.repo.nii.ac.jp/records/55

ライター

華盛頓: 華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。

編集者

ナゾロジー 編集部

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