人類の歴史において感染症との戦いはつきものであり、古今東西で様々な感染症が流行していました。
日本の場合は、特に奈良時代に感染症の流行が幾度となく起こったのです。
果たして奈良時代にどのような感染症が発生したのでしょうか?
この記事では奈良時代の感染症の流行について紹介しつつ、どのような感染症が流行したのかについて取り上げていきます。
なおこの研究は、董科(2011)『奈良時代前後における疫病流行の研究 ―『続日本紀』に見る疫病関連記事を中心に』東アジア文化交渉研究3巻p.489-509に詳細が書かれています。
目次
- 頻繁にあった感染症の流行
- 農民も貴族もバタバタ死んだ天然痘
頻繁にあった感染症の流行

奈良時代の疫病史を紐解いてみると、感染症はまるで嵐のように周期的に襲来し、去ってはまた訪れるものでした。
現代の人間には病気の流行は可視化されていますが、ウイルスも細菌も知らない当時の人達には理解の難しい問題でした。
まず、奈良時代には疫病の波が幾度も押し寄せていたことが『続日本紀』などの古文書から伺えます。
697年から791年までの約100年にわたり、疫病は38回、そしてそのうちの11回はまさに「大流行」と呼ばれるべき規模で人々を苦しめたのです。
特に疫病が多発した期間を見てみると、697年から721年、732年から741年、757年から791年の3つの時期が頻発期と呼べるでしょう。
いずれも疫病がひっきりなしに流行し、社会に深い爪痕を残しています。
こうした疫病の流行には、いくつかの周期がありました。
頻発期とそうでない時期が交互に現れるというこのパターンは、当時の人々には不気味で理解しがたいものであったに違いないでしょう。
たとえば、697年から713年の頻発期では、疫病が27回も流行しました。
そのうち大流行が2回、その他の流行が25回と、ひとたび発生すれば容赦なく広がったことがわかります。
しかし、不思議なことに、次の714年から732年には一転して疫病の記録が途絶えているのです。
この時期は疫病の足音がしばし遠のいたことで、人々もほっと胸をなでおろしたに違いありません。
この時期について、ある学者は「この時期は女帝が統治しており、政治が退廃して疫病の記録が残らなかったのではないか」と分析しています。
しかしながら、同じ時期に飢饉や干ばつの記録は豊富に残っているため、果たして疫病だけが記録されなかった理由にはやや疑問も残るのです。
むしろ、当時の衛生環境や医療水準を考えれば、一定周期で発生と沈静を繰り返す疫病の特性がそこに現れているのかもしれません。
さらに、疫病の周期は、気温の変動とも不思議とリンクしています。
疫病が流行した時期と気温が上がった時期は重なる傾向が見られるのです。
平均気温が高くなると疫病が広がりやすく、逆に気温が下がると流行が収まります。
最後の760年から791年にかけては、32年間で16回の流行と6回の大流行が起き、頻発期の真只中でした。
だが、しばしば3年以上疫病が姿を消す小さな間欠期も挟んでおり、気候や人々の生活環境など様々な要因が影響していたことが推測されます。
疫病の流行と消失は、人々の生活に時に希望を、時に絶望を与えたに違いありません。
その周期は風のように捉えがたく、まるで神や自然が人の営みを見守りながら、緩やかにそして容赦なくその身に試練を課していたかのようです。
農民も貴族もバタバタ死んだ天然痘

このように奈良時代には疫病が大流行しましたが、具体的にはどのような病気が流行したのでしょうか?
疫病の種類は大きく分けて二つあり、それは独自の土着感染症とアジア大陸からの新たなウイルスです。
まず、国内には日本住血吸虫やマラリア原虫が古くから存在し、田んぼで働く農民がこうした寄生虫に感染することも少なくありませんでした。
特に夏場には田んぼの水や、川や池で捕まえた魚貝類を生で食べることで、様々な寄生虫病が広がっていたのです。
また、暑さの中で冷たいものを求める傾向や、頻繁に発生するハエが赤痢などの消化器感染症を蔓延させました。
さらに、日本を襲ったエピデミックの多くは、新型の呼吸器感染症が原因でした。
これらはアジア大陸から渡ってきたウイルスによるもので、特に735年から始めった天然痘の流行は凄まじく、太宰府を経て西から東へと人々の命を次々と奪っていったのです。
天然痘の勢いは驚異的で、京を中心に全国へ広がり、ついには支配層の藤原四兄弟までもが病に倒れ亡くなりました。
一説によれば、感染の最も激しい時期には、日本の総人口の3割近くが命を落としたとされ、都の貴族も例外ではなかったのです。
国の中枢を担う者たちが次々と消え去る中、残された政務を担ったのは橘諸兄でした。
彼は藤原氏の後釜として政権を手にし、その後、農地の私有を許す「墾田永年私財法」を発布し、疫病で荒廃した社会の立て直しに奔走したのです。
本来なら島国である日本では、こうしたウイルスが土着することは稀で、通常は大陸との往来が少ないことで新しい病から守られていました。
しかし一度往来が活発になると、その海という「盾」は無力となったのです。
その上これまで人々がウイルスに触れていなかったことにより、人々は抗体を全く持っておらず、そのこともあってウイルスは猛威を振るい、屍が街を埋め尽くすほどの惨状を招いたのです。
以降も天然痘のエピデミックは数回発生し、10世紀頃に天然痘が日本に定着するまでなくなることはありませんでした。
余談ですが、現在でも感染症が拡大した場合は政府が槍玉に上げられることが多々ありますが、当時は「災厄は天皇の徳がないから起きたのだ」という信仰があったこともあり、現在と同じように政府を吊るし上げる動きがありました。
それを受けて当時の天皇である聖武天皇は仏教に深く帰依するに至り、都に東大寺と盧舎那仏像(奈良の大仏)を建立することで、国を救済しようとしたのです。
こうして出来上がった大仏は、ただの銅像ではなく、国家全体の祈りと犠牲の象徴として今日までその威容を保っています。
参考文献
奈良時代前後における疫病流行の研究 ―『続日本紀』に見る疫病関連記事を中心に
https://kansai-u.repo.nii.ac.jp/records/12272
ライター
華盛頓: 華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。
編集者
ナゾロジー 編集部