3歳児が実験皿で培養していた「淋菌」を誤食してしまった事件

1984年、医学雑誌『The New England Journal of Medicine』に衝撃的な症例報告が掲載されました。

場所はアメリカ・テキサス州。

3歳の小さな男の子が、大人の性感染症の原因菌として知られる「淋菌(学名:Neisseria gonorrhoeae)」を食べてしまったのです。

一体なぜこのような事故が起こってしまったのでしょうか?

そして男の子は無事だったのでしょうか?

目次

  • 実験皿の中身を「おやつ」と勘違い
  • 男の子は無事だったのか?

実験皿の中身を「おやつ」と勘違い

事件のきっかけは、母親の仕事でした。

男児の母親は、微生物検査技師で、医療現場から回収した検体入りの培養皿(シャーレ)を運ぶのが日常業務のひとつでした。

その日、母親は3歳の息子を車に乗せたまま、仕事帰りにスーパーで買い物を済ませ、自宅に戻りました。

母親が荷物を家に運び込む間、ほんの数分だけ息子を車内に残しました。

ところがそのわずかな時間に、息子は後部座席に置かれていた培養皿に興味を示し、蓋を開けて中身のほとんどを食べてしまったのです。

その培養皿に入っていたのは「チョコレート寒天」と呼ばれる茶色い培地。

実はこれ、赤血球を壊してつくる栄養たっぷりの「細菌のためのお菓子」のようなもので、色も名前も子どもにはおいしそうに見えたのでしょう。

しかしもちろん本物のチョコレートではなく、中には淋菌がたっぷりと培養されていました。

母親が車に戻ったときにはすでに手遅れ。

息子はほとんど全部を食べ終えていました。

驚いた母親はすぐにかかりつけ医へ。培養皿の残りから淋菌が検出され、息子の喉からの感染が疑われることになりました。

男の子は無事だったのか?

さて、そもそも「淋菌」とはどんな菌なのでしょうか?

淋菌(Neisseria gonorrhoeae)はグラム陰性双球菌という微生物で、人間の粘膜に感染して「淋病」という病気を引き起こします。

主な感染経路は性的接触で、尿道炎や子宮頸管炎、時には咽頭炎や結膜炎なども起こします。

近年は抗生物質耐性の菌株も増えており、世界中で大きな医療課題となっています。

事件の男の子の場合、寒天を食べてから6日間は喉の検査で菌は検出されませんでした。

しかし8日目、ついに喉のぬぐい液から淋菌が検出されました。

目に見える症状は報告されていませんが、口や喉の淋菌感染は無症状のことも多く、放置するとまれに重症化や合併症を起こすことがあります。

医師たちは当時のCDC(アメリカ疾病対策センター)のガイドラインに従い、「プロカインペニシリンG」という抗生物質を筋肉注射し、さらに「プロベネシド」という薬をアイスクリームに混ぜて投与しました。

プロベネシドは抗生物質の効果を高める薬です。

この治療により男の子はすぐに治癒し、その後の検査では菌が検出されなくなりました。

この事件の医学的な「珍しさ」は、子どもが非性的な経路――つまり実験用の培養皿から淋菌に感染した点です。

淋病は基本的に性行為を通じて広がるため、子どもの感染例があると性的な虐待を疑われることが多いのですが、今回はまったく異なる「事故」でした。

この事件は、医学の教科書に載るほどのレアケースですが、2つの重要な教訓を残しています。

ひとつは、研究現場で扱われる「菌」や「ウイルス」が、意外な形で日常生活に紛れ込むリスクがあるということ。もうひとつは、「子どもを一人で車内に残す危険性」です。

どんなに短い時間でも、子どもが予想外の行動を取ることは珍しくありません。今回のように、ほんの少しの油断が思わぬ「感染事故」につながることもあるのです。

全ての画像を見る

参考文献

Diagnostic dilemma: A toddler accidently ate gonorrhea bacteria from a lab dish
https://www.livescience.com/health/viruses-infections-disease/diagnostic-dilemma-a-toddler-accidently-ate-gonorrhea-bacteria-from-a-lab-dish

元論文

Nonsexual Transmission of Gonorrhea to a Child
https://doi.org/10.1056/NEJM198408163110716

ライター

千野 真吾: 生物学に興味のあるWebライター。普段は読書をするのが趣味で、休みの日には野鳥や動物の写真を撮っています。

編集者

ナゾロジー 編集部

タイトルとURLをコピーしました