南極の氷河が後退して露出した岩場から、1959年に消息を絶った英国の気象学者デニス・ティンク・ベル氏(Dennis ‘Tink’ Bell,当時25歳)の遺体が見つかったと報じられました。
発見したのはポーランドのヘンリク・アルクトフスキ南極基地(Henryk Arctowski Polish Antarctic Station )のチームで、場所は南極半島沖・キングジョージ島のアドミラルティ湾に面した氷河です。
遺骨はDNA鑑定により本人と確認され、長年の謎に終止符が打たれました。
氷の国の科学史に刻まれていた一つの物語が、66年を経て静かに結末へとたどり着いたのです。
目次
- 遺体の発見と身元確認
- デニス・ベルとは何者だったのか?
- あの日、氷河で何が起きたのか
遺体の発見と身元確認
発見は2025年1月19日、キングジョージ島のエコロジー氷河で行われました。
氷の後退で露出した岩場の間から、人骨とともに多数の遺品が見つかりました。
無線機器の破片、懐中電灯、スキーポール、腕時計、ナイフ、パイプの吸口など、回収された個人所持品は200点以上にのぼります。
回収物はヘンリク・アルクトフスキ南極基地へ持ち帰られ、同年2月9日から13日にかけて、考古学者・地形学者・人類学者・氷河学者による追加調査が実施されました。
こうした学際的な調査により、骨片や遺品がさらに収集され、記録が整えられました。

遺骨は英国南極観測局(BAS)により英国へ送致され、キングス・カレッジ・ロンドンの法遺伝学チームによってDNA鑑定が行われました。
生存する実兄デイビッド・ベル氏と姉ヴァレリー・ケリー氏のサンプルと照合した結果、「血縁関係がない場合よりも10億倍以上の確率で血縁といえる」との結論に至りました。
兄デイビッド氏は「66年ぶりに兄が見つかったと知らされ、妹と私は衝撃と驚きでいっぱいでした。英国南極観測局と英国南極記念財団、そして彼を家族のもとに戻すことに尽力してくれたポーランドのチームに深く感謝します」とコメントしています。
発見後、遺骨はBASの王立調査船「サー・デイビッド・アッテンボロー号」でフォークランド諸島へ運ばれ、英国南極地域の検視官に引き渡されました。
その後、空軍の支援のもとロンドンまで搬送され、正式な手続きが進められています。
BASのジェーン・フランシス局長は「これは私たちにとって感慨深い瞬間です。過酷な条件下で南極の初期科学と探検に貢献した隊員の一人であるベル氏の物語に、区切りを与える発見です」と声明を発表しました。
デニス・ベルとは何者だったのか?
デニス・ベル氏はロンドン北西部ハロウで育ち、三きょうだいの長男でした。
身の回りの機械を整備し、写真を撮れば自ら現像までこなすなど、「手を動かして解決する」若き技術者気質の持ち主でした。
無線機を一から自作し、長時間にわたりモールス信号を傍受・解読することも楽しんでいたといいます。
演劇やスカウト活動、そして家族や友人とともに過ごす食事の時間を何より大切にし、一方で組織的なスポーツにはあまり関心を示さなかったという人柄です。
学校卒業後は短期間の保険業務を経て、国家奉仕で英国空軍に入隊。
無線通信士として訓練を受けたのち、さらなる冒険を求めて1958年にフォークランド諸島属領調査隊(FIDS:現BASの前身)へ参加し、気象学者としてキングジョージ島のアドミラルティ湾にある小規模基地へ派遣されました。

キングジョージ島は南極半島北岸から約120キロ沖に位置し、山頂は約800メートルに達します。
島は広く氷で覆われ、アドミラルティ湾は長さ約20キロ・幅約5キロの入江で、周囲を山々に抱かれ、海は年の大半(9か月)氷に閉ざされます。
限られた人員・資材で任務を継続する彼らにとって、互いの技量と信頼は生命線でした。
基地では、ベル氏の「大きな人柄」とユーモアが仲間の支えになっていました。
共に過ごした同僚ラッセル・トムソン氏は、彼の気さくさと“場の空気を明るくする力”を繰り返し語っています。
極限環境における長期任務は、気象観測や地質調査といった科学活動だけでなく、隊員同士のメンタルケアや連帯でも成り立っていたのです。
あの日、氷河で何が起きたのか
1959年7月26日、南半球の厳冬期。4人の隊員と2台の犬ぞりが、氷原での測量・地質調査のため氷河を登りました。
ベル氏は測量士ジェフ・ストークス氏とペアになり、気象学者ケン・ギブソン氏と地質学者コリン・バートン氏の組より先行して出発します。
氷河の傾斜を上がる途中、ベル氏らはクレバス(氷河や雪渓の割れ目)帯を慎重に通過し、ひとまず危険域を抜けたと判断しました。
しかし深い新雪が前進を難しくし、犬ぞりの犬たちにも疲労の色が出始めます。
そこでベル氏は犬を励ますため、スキーを外して前方に歩を進めました。次の瞬間、雪橋が崩落し、彼の姿はクレバスの闇に消えました。

元BAS局長サー・ヴィヴィアン・フックス氏は著書『Of Ice and Men』で当時の救出劇を詳細に記しています。
ストークス氏が呼びかけると、深部からベル氏の応答がありました。
およそ30メートルのロープを下ろして引き上げを試み、重量に耐えるためロープの上端を犬ぞりに結び、犬たちの牽引力で巻き上げ始めます。
ところが、ベル氏はロープを胴体に回すのではなく、腰のベルトに通して固定していました。
体勢の不安定さからそうせざるを得なかった可能性が示唆されています。
クレバスの縁に到達しかけた瞬間、体が縁で噛み込み、ベルトが破断。ベル氏は再び深みに落下し、その後の呼びかけに応じることはありませんでした。
後続のギブソン氏とバートン氏は、下ってくるストークス氏と合流し、現場へ引き返します。
しかし天候は急速に悪化し、数分で吹雪に近い状況へ。
ストークス氏は標識と山座同定で位置を把握しようとしましたが、飛雪で視界はほとんどきかず、二次災害のリスクも高まります。
彼らはそれでも捜索を続け、約12時間後に現場を再特定しましたが、生存は望めませんでした。
こうしたクレバス救助は、ロープの取り方一つ、装備の選択一つが生命を左右します。
あのとき、ベルトではなく体幹を回すハーネス状の結索ができていれば——。
結果論でしかない“もしも”ですが、極地の現場では、わずかな判断の差が取り返しのつかない帰結につながることを、今回の記録は静かに示しています。
今回の発見は、単なる身元確認の達成ではありません。
過酷な環境で観測と探検に携わった若い科学者の生と死、そして彼を想い続けた家族と仲間の時間に、ようやく区切りを与える出来事です。
氷は溶け、岩が露わになり、遺品が姿を見せました。
南極の大地は、長い歳月ののちに物語を返してくれたのです。
ベル氏の名を冠したキングジョージ島の「ベル岬」は、これからも彼の名とともに残ります。
遺族は今後、彼の記憶をいかに刻むかを決める予定です。
南極科学の歴史には、数字や記録だけでは語り尽くせない人の営みが確かにあり、その物語は今も静かに続いています。
参考文献
Remains of British researcher lost in 1959 recovered from Antarctic glacier
https://www.bas.ac.uk/media-post/remains-of-british-researcher-lost-in-1959-recovered-from-antarctic-glacier/
Body of scientist lost in 1959 found in Antarctica
https://www.popsci.com/science/found-body-dennis-bell-antarctica/
ライター
千野 真吾: 生物学に興味のあるWebライター。普段は読書をするのが趣味で、休みの日には野鳥や動物の写真を撮っています。
編集者
ナゾロジー 編集部