運動をすると気分が良くなるものです。
たとえ気分が落ち込んでいたり、うつ病の症状があったとしても、少し体を動かしただけで心が軽くなる経験は多くの人が共有しています。
しかし、この「即座の気分改善」がどのような脳の変化によって生じているのかは、これまで明確になっていませんでした。
香港理工大学(PolyU)の研究チームは、たった1回の運動が脳の特定の神経細胞を活性化し、気分を改善する仕組みを明らかにしました。
その鍵を握っていたのは、意外にも脂肪細胞から分泌されるホルモンでした。
今回の成果は2025年10月25日付の『Molecular Psychiatry』に掲載されています。
目次
- 1回の運動には即時的な「抗うつ」効果がある
- 「30分の運動」が脳の神経回路のつながりを強め、抗うつ効果を示す
1回の運動には即時的な「抗うつ」効果がある
研究チームが今回注目したのは、「単発の運動がどれほど速く気分に影響するのか」という点でした。
これまで定期的な運動がうつ症状を軽減することは多くの研究で示されていましたが、1回の運動が生む即効性については、科学的に十分な説明がありませんでした。
そこで研究チームは、40名の大学生と職員を対象に、中強度のランニングを30分行う実験を実施しました。
参加者の半数は不安や抑うつの症状を持ち、残りの半数は症状のない人たちでしたが、全員が同じ条件でトレッドミル上を走りました。
そして運動の前後で気分状態を詳しく調べたところ、ネガティブな感情が減り、活力や自尊心が上昇するという変化が見られました。
特に、もともと不安や抑うつの自覚があった人たちでも、30分後には「気分の落ち込み」や「うつっぽさ」が和らいでいたことが確認されました。
この結果は、単発の運動が実際に即時の気分改善をもたらすことを、人間で示したものです。
こうした変化が脳のどの仕組みによるものなのかを探るため、研究チームは動物実験でも同じ問いを検証しました。
慢性的なストレスで「うつ様状態」にしたマウスに対し、30分間のランニングを1回だけ行わせ、その後の行動の変化を追跡したのです。
その結果、運動後およそ2時間以内に抑うつ行動が改善し、その効果は24時間まで続いていることが分かりました。
一方で48時間後には行動が元の状態に戻っていたため、この効果は短期間に現れる即効性の変化だと考えられます。
次に研究チームは、脳全体の活動を詳しく解析し、運動によってどの部位が特に反応しているのかを調べました。
その結果、運動直後に強く活動していたのは前帯状皮質と呼ばれる領域であり、ここは感情の調整やストレスへの反応に関わる場所として知られています。
また、この前帯状皮質の中でも、興奮性のニューロンが特に強く反応していることが分かりました。
研究チームが運動の前にこの興奮性ニューロンの働きを薬で抑えると、その後に運動をしても気分の改善効果は見られなかったのです。
逆に、運動をさせなくてもこのニューロンを人工的に活性化すると、運動をしたときとよく似た抗うつ効果が現れました。
このことから、前帯状皮質の興奮性ニューロンが、単発の運動による即時の気分改善を生み出す中枢的なスイッチであることが示されました。
では、どうして運動にそのような効果があるのでしょうか。
研究チームはそのメカニズムをも分析しています。
「30分の運動」が脳の神経回路のつながりを強め、抗うつ効果を示す
運動をするとどのようにして前帯状皮質がこれほど素早く活性化するのでしょうか。
研究チームがマウスにおいて、体から脳へ伝わる分子シグナルを詳しく調べたところ、運動後にアディポネクチンというホルモンが急増していることが明らかになりました。
アディポネクチンは脂肪細胞が分泌する物質で、もともとは代謝や炎症の調節に関わるホルモンとして知られています。
そして今回の研究では、運動後に血液中だけでなく、前頭前野、とくに前帯状皮質を含む領域でもアディポネクチンのレベルが上昇していることが確認されました。
さらに、前帯状皮質にある興奮性ニューロンの多くが、アディポネクチンを受け取るための受容体を持っていることも分かりました。
つまり、運動をすることで脂肪細胞からアディポネクチンが放出され、それが血液を通じて脳に届き、前帯状皮質のニューロンに直接作用する仕組みが備わっていたのです。
では、アディポネクチンがニューロンに届くと、細胞の中では何が起こるのでしょうか。
研究チームによると、APPL1というタンパク質が細胞の核へ移動し、神経同士のつながりを強くするタンパク質が作られやすくなることで、前帯状皮質の神経回路が短時間で強化されます。
また、このAPPL1の動きを薬で止めると運動の抗うつ効果も消えました。
このことからも、アディポネクチンがAPPL1を動かして神経回路の繋がりが強まる仕組みが、「1回の運動で気分が持ち直す」メカニズムの中心だと考えられます。
研究チームは今後、どの程度の強さや時間の運動が最も効果的なのか、また年齢や性別によって反応が変わるのかを調べていく予定です。
今回明らかになったメカニズムを利用すれば、体の事情などで運動が難しい人にも、運動に近い気分改善効果を届けられる可能性があります。
30分の運動で気分が良くなるのは、脂肪細胞から分泌されるホルモンが脳の前帯状皮質に働きかけ、神経回路のつながりを短時間で「強化する」からだと分かりました。
私たちが日常生活の中で感じている「運動すると気分が明るくなる」という現象の裏には、このような精密な生物学的メカニズムが隠れていたのです。
参考文献
Scientists identify a fat-derived hormone that drives the mood benefits of exercise
https://www.psypost.org/scientists-identify-a-fat-derived-hormone-that-drives-the-mood-benefits-of-exercise/
元論文
Rapid antidepressant effect of single-bout exercise is mediated by adiponectin-induced APPL1 nucleus translocation in anterior cingulate cortex
https://doi.org/10.1038/s41380-025-03317-1
ライター
矢黒尚人: ロボットやドローンといった未来技術に強い関心あり。材料工学の観点から新しい可能性を探ることが好きです。趣味は筋トレで、日々のトレーニングを通じて心身のバランスを整えています。
編集者
ナゾロジー 編集部

