モロッコのカサブランカ大学(University of Casablanca)で行われた研究によって、脳の深部にある「右視床」と呼ばれる部位が小さな脳卒中で損傷すると、「根拠のない嫉妬」という病的な妄想が生まれる可能性があることが明らかになりました。
この研究では、50歳の女性が突然脳卒中を発症した後、まるでシェイクスピア劇『オセロ』の主人公のように、根拠もなく夫が浮気をしているという妄想に支配され、最終的には家族に暴力をふるうまでに至った稀な症例を報告しています。
なぜ脳のごく小さな領域が傷ついただけで、人は「妄想的な嫉妬」に取りつかれてしまうのでしょうか?
研究内容の詳細は『Neurocase』にて発表されました。
目次
- シェイクスピアの悲劇が現実に—『オセロ症候群』とは何か
- 脳卒中が『根拠なき嫉妬』を引き起こす理由
- 脳卒中が教えてくれる『心』の脆さ
シェイクスピアの悲劇が現実に—『オセロ症候群』とは何か

誰もが一度は、パートナーのささいな行動に不安を感じて、つい疑ってしまった経験があるかもしれません。
スマートフォンに届いたメッセージ、帰宅時間が遅れた日、あるいは何気ない表情の変化だけでも、「もしかして浮気?」と胸がざわつくことがあります。
普通であれば、それは一時的な不安で済みますし、パートナーの誠実さや状況説明を聞けば疑いも自然に晴れていくものです。
しかし、そうした普通の嫉妬心とは根本的に異なる病的な嫉妬が存在します。
それが「オセロ症候群」という精神疾患です。
オセロ症候群にかかると、パートナーがどれほど無実の証拠を示しても、患者は決してそれを受け入れず、妄想に取りつかれたように浮気を確信し続けます。
この疾患の名前は、シェイクスピアの悲劇『オセロ』の主人公に由来しています。
劇中でオセロは、周囲の悪意ある噂や些細な誤解から妻の浮気を妄想し、その妄想に支配されて破滅的な結末を迎えました。
現実に起こるオセロ症候群でも、この主人公と同じように妄想が暴走し、患者は完全に嫉妬心に支配されてしまいます。
症状が深刻化すると、言葉による攻撃はもちろん、時には身体的暴力を伴う事件にまで発展することがあります。
これまでの研究では、オセロ症候群は主に統合失調症、アルコール依存症、薬物乱用やパーキンソン病などの神経疾患を背景にして起こりやすいことが知られていました。
ところが非常にまれなケースとして、脳卒中がきっかけで突然こうした嫉妬妄想が現れる患者も報告されていました。
これらの症例は珍しく、なぜ脳卒中が嫉妬という特定の感情を激しくゆがませてしまうのか、脳のどの部分が壊れると妄想が生まれるのかはよくわかっていませんでした。
今回の研究チームが着目したのは、まさにその謎の解明です。
研究のきっかけになったのは、一人の女性患者の症例でした。
その女性は50歳で、これまで精神疾患やアルコール、薬物依存の問題とは無縁でした。
結婚生活も非常に良好で、夫婦は30年以上にわたり仲睦まじく暮らしていました。
ただ一つ、彼女には高血圧という持病がありました。
そんな彼女の日常が一変したのは、ある日、台所で料理をしている最中でした。
突然の激しい頭痛に襲われ、そのまま倒れてしまい、病院に緊急搬送されたのです。
医師の診察により、彼女は脳卒中を起こしていることが判明し、約2週間の入院生活を送ることになりました。
治療の甲斐もあり容体は安定し、退院を迎えましたが、病院を出て間もなく、予想外の出来事が起きました。
それまで何の問題もなかった夫に対して、突如として「妹と不倫をしている」と激しい疑いを持ち始めたのです。
妹は彼女の退院後の手助けのために訪れていただけで、浮気の証拠などは全くありませんでした。
それでも彼女は、夫の浮気こそが自分が倒れた原因だと周囲に言い触らしました。
さらに妄想は徐々に対象を変え、夫の浮気相手は妹ではなく、友人の娘だと信じるようになりました。
嫉妬心に支配された彼女の行動は日を追うごとに過激になり、夫が眠っている間にこっそり携帯電話を調べたり、夜中に夫を起こして浮気を責めたりするようになりました。
発症から約1年が経つころには、その妄想はついに暴力事件へとエスカレートします。
激しい怒りに駆られた彼女は刃物を持ち出し、夫を攻撃するという事件を、それも別々の機会に2度も起こしてしまったのです。
幸い深刻な怪我には至りませんでしたが、彼女自身は後に攻撃の事実を否定しながらも、妄想は一向に収まりませんでした。
なぜ、脳卒中をきっかけに、これほどまで激しく妄想が暴走してしまったのでしょうか?
脳卒中が『根拠なき嫉妬』を引き起こす理由

なぜ、脳卒中をきっかけに、これほどまで激しく妄想が暴走してしまったのでしょうか?
謎を解明するため研究者たちはまず、彼女に対して詳しい精神医学的な評価を行いました。
その結果、明らかになったのは、彼女が深刻な認知機能の低下に陥っているという事実でした。
記憶力は明らかに低下し、注意力や集中力にも大きな問題が見られました。
彼女の意識は嫉妬の妄想にばかり集中し、それ以外の事柄にはほとんど注意を向けることができなくなっていました。
認知機能を評価するための標準的なテスト(ミニメンタルステート検査、モントリオール認知評価)でも、正常値を大きく下回るスコアしか得られず、脳機能がかなり深刻に影響を受けていることが示されました。
研究者たちは、他の病気が症状を引き起こしている可能性を慎重に検討しました。
具体的には、認知症、薬物中毒、代謝異常などの可能性が詳細に調べられましたが、いずれも否定されました。
これらを踏まえて次に研究者たちは、患者の脳を詳しく検査することにしました。
脳の詳しい検査を行ったところ、脳卒中によって脳の奥深くにある「視床」という部位が損傷を受けていることが明らかになったのです。
視床とは脳の中で特に重要な役割を持つ、小さな「ハブ(中継地点)」のような場所です。
この視床は感情や注意力、記憶、さらに感覚情報や思考を統合するなど、脳全体の機能を円滑に保つための司令塔のような役割を担っています。
特に、左右に一つずつある視床のうち、右側の視床は感情や社会的な判断をコントロールする脳のネットワークと深くつながっているとされています。
今回の検査で、女性の脳卒中は非常に珍しいタイプで、左右両方の視床に損傷を与えていることが判明しましたが、そのうち特に右側の視床の損傷が強く見られました。
医師たちはこの右側の視床へのダメージが、嫉妬妄想という特殊な精神症状に直接的に関係している可能性が高いと判断し「脳卒中によるオセロ症候群(病的嫉妬妄想)」と正式に診断されました。
そして診断後から医療チームは症状の改善を目指して薬物治療が始まりました。
最初に使用されたのはクエチアピンという抗精神病薬です。
この薬により症状はある程度落ち着きを見せ、一時的に妄想は弱まりました。
ところが数ヶ月後には再び嫉妬の妄想がぶり返してしまい、症状が完全に消えることはありませんでした。
そこで医師たちは、新たにオランザピンという別の抗精神病薬を試してみることにしました。
すると今度は劇的な効果が現れました。
嫉妬妄想は明らかに弱まり、その後の経過観察の中でも再発は見られませんでした。
薬の量を徐々に減らしていっても症状が再び現れることはなく、約1年後には彼女自身が過去の妄想が事実無根であったことを理解し、自らの行動を冷静に振り返れるほどに回復しました。
夫への疑念も消え去り、以前の穏やかな生活を取り戻すことができたのです。
脳卒中が教えてくれる『心』の脆さ

今回の研究によって、脳の深部にある右側の視床が損傷を受けると、理性と感情のバランスが崩れて「根拠のない嫉妬」という妄想が暴走してしまう可能性が示されました。
この結果は私たちにとって衝撃的です。
なぜなら、「嫉妬」という誰もが経験するような日常的な感情が、脳の小さな領域の損傷によって簡単に病的な妄想にまで変貌してしまうことを意味しているからです。
特に興味深いのは、これがごく稀とはいえ、他の精神疾患や薬物乱用歴がない普通の人に突然起こりうるという点です。
実際、脳卒中の後に精神的な異常が起こるケースは以前から知られており、特に「嫉妬」をテーマにした妄想はそうした症状の中でも比較的多いものとして報告されています。
また過去の研究では、右脳半球の特定の領域が損傷すると他者への疑い深さや妄想的な嫉妬が生じやすいことも指摘されてきました。
では、なぜ右視床の損傷がこうした強烈な嫉妬妄想を引き起こしてしまうのでしょうか。
その鍵は、視床という脳の部位が持つ特別な役割にあります。
視床は大脳皮質という「理性的な判断や計画を司る領域」と、大脳辺縁系という「本能的で感情的な領域」をつなぐ重要な接続点です。
言い換えれば、視床は私たちが感情や理性のバランスを上手にとれるように、情報を整理し伝達する「ハブ」のような働きをしているのです。
特に右側の視床は、自分や周囲の状況を客観的に見たり、自分の感情を落ち着いて調整したりするために重要な働きをしています。
もしこの視床の機能が脳卒中によってうまく働かなくなると、私たちは自分自身や身の回りの出来事を正しく理解できなくなり、正常な判断力が失われてしまいます。
その結果、疑い深さや嫉妬などの感情が制御できなくなり、妄想的な思い込みにとらわれてしまうというわけです。
今回の症例を調べた研究者たちは、女性に認知症や薬物中毒など他の原因が一切ないことを確認した上で、「視床の限局的なダメージこそが彼女の嫉妬妄想を最もよく説明できる」と結論づけました。
こうした病的な嫉妬妄想は、単なる個人の精神的な問題にとどまりません。
家族やパートナーといった周囲の人を巻き込み、暴力的な行動にまで発展してしまうこともあるため、社会的にも見逃せない問題です。
だからこそ研究者は、こうした異常な妄想や精神症状をできるだけ早く発見し、適切な治療を行うことが非常に大切だと強調しています。
ただし今回の研究も、あくまでひとつの事例に過ぎません。
同じ脳卒中でも、すべての人が同じように嫉妬妄想を起こすとは限らないのです。
脳の損傷はその位置や範囲がほんの少し違うだけで、症状がまったく異なるものになってしまいます。
治療法もひとりひとり異なり、ある人に効いた薬が必ずしも別の人に効果をもたらすわけではありません。
しかし、一つひとつの珍しい症例報告を積み重ねていくことで、医療や科学は新たな手がかりや発見を得ることができます。
今回の研究もまた、脳という複雑な器官が人の心や感情にどれほど深く影響を及ぼしているかを教えてくれる貴重な事例です。
私たちの人格や感情というものが、脳内のわずかなネットワークの乱れで簡単に変わってしまうかもしれない――その事実を知ることこそが、心の健康を守るための重要な第一歩となるのではないでしょうか。
元論文
Jealousy’s stroke: Othello syndrome following a percheron artery infarct
https://doi.org/10.1080/13554794.2024.2436159
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部