人間の体は、ときに驚くべき「異物耐性」を示すことがあります。
タンザニアで発見された一人の男性の症例は、その極限ともいえるものです。
なんと彼の胸には、8年間ものあいだ金属製のナイフの刃が刺さったままになっていたのです。
しかも本人は全く気づかず、普段通りの生活を続けていました。
この前代未聞の事例は、タンザニア・ムヒンビリ健康科学大学(MUHAS)により、2025年5月31日付で医学雑誌『Journal of Surgical Case Reports』に掲載されています。
目次
- ナイフが刺さったまま、なぜ気づかなかったのか?
- その後の男性は無事だったのか?
ナイフが刺さったまま、なぜ気づかなかったのか?
舞台は東アフリカに位置する国、タンザニア。
44歳の男性が病院を訪れたのは、右胸の乳首の下から膿がにじみ出てくるという症状が10日ほど続いたためでした。
本人は「痛みも息苦しさもない」といい、発熱もありませんでした。
医師の診察でも、バイタルサイン(心拍・血圧など)はすべて正常。
しかし胸部の右側が平坦で、吸気時にも胸が十分に膨らまないことが分かりました。
こちらが来院時の男性の患部の画像です。刺激的な内容のため、苦手な方は閲覧をお控えください。
また、膿が漏れ出す小さな穴(瘻孔)が乳首の下にできており、そこからは悪臭を伴う膿が出ていました。
実はこの男性、8年前に暴力事件に巻き込まれ、胸・背中・腹部・顔などを複数回刺されていました。
しかし当時は応急処置のみで、画像検査は一切行われず、その後も特に問題なく生活していたそうです。
その後、病院でX線検査を受けて初めて、右胸の奥深くに金属製のナイフの刃が残っていることが判明したのです。
こちらは胸部にナイフが刺さっていることを示すX線画像。
さらにCTスキャンでは、刃は背中の第5・6肋骨の間から体内に入り、胸の前面(第3・4肋骨の間)まで貫通していることが分かりました。
それでも長期間にわたり無症状だった理由は、体の「防御反応」にありました。
体内に異物が入り込むと、免疫系が異物を線維状のカプセル(線維性被包)で包み込み、炎症や組織へのダメージを抑えます。
今回のケースでも、ナイフの刃は線維性の組織や癒着に囲まれ、いわば「体内の金庫」にしまい込まれた状態だったのです。
このため本人は8年間、胸にナイフの刃が刺さったままでも普段通りの生活を送ることができたと考えられます。
その後の男性は無事だったのか?
とはいえ、体が“異物”と共存し続けられるのは永遠ではありません。
男性の場合も、年月を経て徐々に感染が広がり、ついには膿が漏れ出す症状につながったとみられます。
診断後、医師たちは胸部の開胸手術(胸壁を切開して内部にアクセス)を実施しました。
術中には、ナイフの刃は右肩甲骨付近から背中の第5・6肋骨間を通り、前方の第3・4肋骨間にまで到達していることが確認されました。
さらに、周囲の組織には癒着や膿、壊死した組織が見られ、刃の除去とともに感染部位の洗浄・壊死組織の除去(デブリードマン)が行われました。
術後は、ドレーン(排液管)を設置し、抗生物質による感染対策を実施。
8日目にはドレーンが抜去され、10日目には無事退院。
さらに術後2週間後と6週間後の経過観察でも、感染の再発や合併症はなく、男性は元通りの生活を取り戻しました。
このような大きな異物が体内に長期間留まり続ける症例は極めて稀であり、世界の医学文献でもほとんど報告がありません。
通常は弾丸などの小さな異物が多く、数週間から数カ月のうちに発見・除去されるのが一般的です。
今回の症例は、人体が極めて大きな異物を“無害化”し、長期間生き延びることができるという驚くべきサバイバル力を示しています。
一方で、貫通性外傷を受けた際には、たとえ見た目に傷が治ったとしても、体の奥深くに危険な異物が残っていないかをしっかり確認することが不可欠です。
特に医療資源が限られる地域や応急処置のみで終わってしまう場合には、早期の画像検査やその後のフォローアップ体制の重要性が、改めて浮き彫りになりました。
人間の体は思いもよらない力を秘めていますが、適切な診断と治療による「サバイバル力」のサポートも、私たちの命を守るためには不可欠なのです。
参考文献
Diagnostic dilemma: A knife broke off in a man’s chest, and he didn’t notice it for 8 years
https://www.livescience.com/health/diagnostic-dilemma-a-knife-broke-off-in-a-mans-chest-and-he-didnt-notice-it-for-8-years
元論文
An eight-year asymptomatic retention of a knife blade in the chest: a case report
https://doi.org/10.1093/jscr/rjaf325
ライター
千野 真吾: 生物学に興味のあるWebライター。普段は読書をするのが趣味で、休みの日には野鳥や動物の写真を撮っています。
編集者
ナゾロジー 編集部