今日の地球上にいる肉食獣には、ライオンやトラといった大型種がたくさんいます。
ところが現在のイギリスにいる捕食者の中で最も大きな種は、なんとアナグマだという。
そう聞くと、多くの人が「意外」と感じるかもしれません。
しかし数百年前までは、オオカミやヒグマ、そして優雅なオオヤマネコが森の頂点捕食者として君臨していました。
その姿が消えてから、自然は少しずつバランスを失っています。
そして今、長年議論されてきた「オオヤマネコ(学名: Lynx lynx)」の再導入計画がついに実施されることになりました。
目的は単なる動物の復活ではなく、「生態系の再生」です。
目次
- 捕食者が消えた森で何が起きたのか
- なぜオオヤマネコを選んだのか?
- 再導入の導入となるのは?
捕食者が消えた森で何が起きたのか

イギリスは、世界でも有数の“自然が失われた国”です。
過去1000年間で、森林は農地や都市に変わり、湿地は排水され、草原は舗装されました。
その結果、多くの哺乳類、鳥類、昆虫、植物が絶滅しました。
特に深刻なのは、頂点捕食者がいなくなったことです。
オオカミ、ヒグマ、オオヤマネコは中世以降、人間による狩猟と生息地破壊で姿を消しました。
捕食者を失った森では、シカの数が急増し、若い木や下草が食べ尽くされる「過剰採食」が広がりました。
たとえるなら、草食動物だけの“食べ放題レストラン”状態です。
食べ放題は彼らにとっては天国ですが、森にとっては地獄です。
木が育たなければ森は再生できず、そこに暮らす鳥や昆虫、小型哺乳類も減少します。
さらに草や低木がなくなった地面は雨で削られ、土壌浸食も進みます。
こうした連鎖的な変化(栄養カスケード)は、頂点捕食者という“生態系の司令塔”がいないことが原因です。
その役割を取り戻す存在として期待されているのが、オオヤマネコなのです。
なぜオオヤマネコを選んだのか?

オオヤマネコ(Lynx lynx)は、体長70〜130cm、体重18〜36kgほどで、ダルメシアン犬くらいの大きさです。
耳の先の黒い房毛と、美しい斑点模様が特徴的です。
この動物の再導入が注目される理由は、単に獲物を減らすだけではありません。
オオヤマネコは、シカやウサギを狩ることで草食動物の数を抑えますが、それ以上に大きいのは、研究者いわく「恐怖の風景(ランドスケープ・オブ・フィア)」を作り出すことです。
これは、獲物が常に“鬼ごっこ”の逃げ役のように動き続ける状況を指します。
捕食者の存在そのものが、草食動物を同じ場所に留まらせず、植物が食べ尽くされるのを防ぐのです。
さらに、オオヤマネコは獲物を食べ尽くさずに残す習性があるため、その残骸はキツネやワシ、昆虫など多くの動物の食料になります。
この“残り物”が生態系の循環を活発にし、森の多様性を支えます。
また、オオヤマネコは人間を避ける性質が強く、人に危害を加える事例はほとんどありません。
オオカミやクマに比べて生息に必要な面積も小さいため、再導入のハードルは比較的低いと考えられています。
再導入の導入となるのは?

今回の再導入は、イングランド北部ノーサンバーランド州のキールダーの森が中心です。
ここは東京23区の約4倍の広さを持つイングランド最大の森林で、シカの個体数も安定しており、オオヤマネコが暮らすのに適した条件が揃っています。
しかし、課題がないわけではありません。
もっとも大きいのは農家からの懸念です。
「羊が襲われるのではないか」という声は根強く、たとえ発生確率が低くても、予防策や補償制度を事前に整える必要があります。
また、イギリスでは大型肉食獣が何百年も存在しなかったため、人々の心理的な抵抗感も大きいのです。
ヨーロッパ大陸のようにオオカミやクマと共存してきた文化がないため、「森に捕食者がいる暮らし」を想像しにくいのです。
そのため、導入には科学的な説明だけでなく、地元住民や農家、林業関係者との丁寧な対話が不可欠です。
今回の計画では、環境教育や観光資源としての価値も含め、地域と利益を共有する形を目指しています。
オオヤマネコの再導入は、単なる動物の復活ではなく、失われた自然の機能を取り戻す試みです。
頂点捕食者の存在は、森の健康を守る“見えないメンテナンス”のようなものです。
科学的な計画と地域との信頼関係が築かれれば、オオヤマネコは再び英国の森を静かに歩き、そこから命の循環が広がっていくでしょう。
その姿は、未来の世代にとって「自然と人が共に暮らせる希望」の象徴となるはずです。
参考文献
Lynx UK reintroduction: The benefits and challenges of returning carnivores to the British Isles
https://www.nhm.ac.uk/discover/lynx-reintroduction-benefits-challenges-returning-carnivores-british-isles.html
ライター
千野 真吾: 生物学に興味のあるWebライター。普段は読書をするのが趣味で、休みの日には野鳥や動物の写真を撮っています。
編集者
ナゾロジー 編集部