売春婦は世界最古の職業と言われているように、古代の社会においても売春は行われていました。
もちろん古代イスラエルにおいても売春婦はおり、人類史上最大のベストセラーである聖書の中でも売春婦について言及されている章は複数あります。
果たして当時はどのようなスタイルで売春が行われていたのでしょうか?
またこれらの行いは人々からはどのように捉えられていたのでしょうか?
この記事では聖書の時代の売春女性である神聖娼婦と遊女について紹介しつつ、これらの存在が聖書の上でどのように扱われていたのかについて取り上げていきます。
またその後のヨーロッパで売春女性が教会からどう捉えられていたのかについても取り上げます。
なおこの研究は、中野敬一(2014)『聖書における売春女性』女性学評論28巻p. 47-67に詳細が書かれています。
目次
- 古代イスラエルの人々から忌み嫌われていた神殿娼婦
- 批判されつつも、時には称賛されることもあった聖書内の遊女
- 矛盾を社会に押し付けて教会内を純潔に保ったキリスト教
古代イスラエルの人々から忌み嫌われていた神殿娼婦
古代の物語を紐解くと、私たちは神殿娼婦という異質な存在に出会います。
ヘブライ語で「ケデーシャー」と呼ばれる彼女たちは、古代オリエントの豊穣儀礼に根差した存在であり、バビロンの神殿などで重要な役割を担っていました。
神と「聖婚」を行う高位の女性、神殿参拝者に奉仕する者たち――その階層も多岐にわたります。
特に、バビロンではマルドゥク神(またはバアル神)に仕えるための特別な部屋があり、神と聖婚した最上層の女性たちは夜ごと横たわったと言われているのです。
一方そこまで階層の高くない女性は、神殿に対して寄付を行ったものに対して「神様の力を授ける」という名目で性的サービスを提供していました。
この話には、遥か昔の神秘的な空気が漂います。
ところが、イスラエルの人々はこのような風習を断固として拒絶しました。
その背景には単なる道徳観だけではなく、民族的アイデンティティを守るという切実な思いがありました。
神殿娼婦の存在は、ヤハウェという唯一神を崇める彼らにとって、異教的な慣習への誘惑を象徴するものでした。
旧約聖書には、神殿娼婦への厳しい態度が何度も描かれています。
『創世記』38章では、ユダがタマルを娼婦と誤解しながらも、「神殿娼婦」という言葉を利用して自身の行為を誤魔化そうとする場面があります。
彼は娼婦との関係を恥ずべきものと考えましたが、神殿娼婦ならば受け入れられるとでも思ったのでしょうか。
そのような観念が当時どこかにあったとしても、旧約聖書全体では神殿娼婦に対する明確な拒絶が繰り返されます。
なお神殿娼婦の陰には、神殿男娼という存在も見え隠れします。
神殿男娼して仕えているのは若くて美しい男性であり、彼らも神殿娼婦と同様に性的サービスを提供していました。
なお神殿男娼が性的サービスを提供する相手は基本的には女性ですが、中には男性に性的サービスを提供する場合もありました。
聖書の中には、神殿男娼がイスラエルの地にいたこと、彼らが異教の慣習に従っていたことが記されているのです。
この「忌むべきもの」とされた存在も、古代オリエントでは広く認められていたようですが、イスラエルの聖所では徹底的に排除されました。
そのため聖書の『申命記』23章では、イスラエルの女子が神殿娼婦となることや、男子が神殿男娼(カーデーシュ)となることを厳しく禁じています。
そればかりか、「遊女の稼ぎ」や「犬の稼ぎ」を神殿に持ち込むことは許さないと強く拒絶していました。
ここに出てくる「犬」という表現は神殿男娼を指したもので、彼らへの強い嫌悪感を反映しています。
また神殿娼婦と神殿男娼の稼ぎが並んで言及されているあたり、当時の人々にとって神殿男娼が神殿娼婦並みにありふれたものであったことが窺えます。
こうした禁止は単に個人の道徳性を問うものではなく、イスラエルの宗教的純潔を守るための手段でした。
さらに、『ホセア書』4章14節では、神殿娼婦やそれに類する儀礼の蔓延が北イスラエルの堕落を象徴するものとして描かれます。
ヤハウェ信仰(いわゆるユダヤ教)とバアル信仰が入り混じった儀礼の中で、祭司や民が淫行を行い、国家の霊的な腐敗を深めたというのです。
預言者は、こうした堕落が最終的に北イスラエルの滅亡を招いたとしています。彼の言葉を借りるなら、「悟りのない民は滅びる」のです。
古代イスラエルにおける神殿娼婦や男娼への視線は、単なる宗教的道徳を超えて、民族の生存をかけた文化的防衛としての側面を強く持っています。
異教の儀礼がイスラエルの民を蝕むことを防ぐために、彼らはヤハウェ信仰を中心とした規律を厳しく守り続けようとしたのです。
その背景には、単なる宗教的な清廉さを超えた、民族的なアイデンティティを守るための熱意があったと言えるでしょう。
批判されつつも、時には称賛されることもあった聖書内の遊女
このように古代イスラエルの人々は神聖娼婦に対しては厳しい視線を向けていましたが、それ以外にも売春を行っていた存在がありました。
それが遊女であり、彼女たちは街の娼館などで性的サービスを提供していました。
彼女たちもしばしば聖書の物語に登場しますが、描かれ方は複雑です。
遊女への警告は特に『箴言(しんげん)』や『シラ書』などの教訓的な書物に頻出します。
「遊女は深い墓穴」「遊女を友とする者は財産を失う」など、彼女たちは財産や名誉を食い尽くす存在として恐れられていました。
さらに、宗教的な規範の中では、彼女たちとの関わりが厳しく制限されていたのです。
『レビ記』では、祭司が遊女と結婚することや、祭司の娘が遊女となることを禁じ、違反者には焼き殺すという過酷な刑罰が科せられています。
神に仕える者にふさわしい「聖なる」生活を守るため、遊女の存在は徹底的に排除されていたのです。
一方で、遊女は比喩的にも用いられました。イスラエルの堕落や異教の国々への依存を非難する際、預言者たちは遊女というイメージを用いています。
『イザヤ書』では、かつて正義に満ちていた町が遊女に成り果てた様子を描き、『エレミヤ書』では、どこにでも身を横たえる遊女としてイスラエルを戒めています。
このように、遊女は道徳的・宗教的堕落の象徴として頻繁に用いられる存在でした。
それでも異教の神に仕えていた神殿娼婦や神殿男娼ほどは忌み嫌われておらず、先述したユダのように遊女と関係を持つことよりも神殿娼婦と関係を持つことの方がマシであるという考えを持つものは少なかったです。
しかし、遊女が常に批判の対象であったわけではありません。
『ヨシュア記』に登場する遊女ラハブは、その最たる例です。
彼女はユダヤ人の指導者が派遣した斥候を匿い、彼らを無事に逃がすことでイスラエルの勝利に貢献しました。
結果として、エリコの町が滅びる中でラハブとその家族は助けられ、長くイスラエルに住むことを許されたのです。
ラハブは遊女でありながら高く評価された特異な存在となっています。
このように、遊女は古代イスラエル社会において複雑な立場に置かれていました。
宗教的には厳しく非難される一方で、特定の状況下では重要な役割を果たし、時に称賛を得ることもありました。
彼女たちの存在は、堕落の象徴でありながら、希望や救済の予想外の一端を担う存在でもあったのです。
この二面性こそ、聖書が遊女を描く際の興味深い点といえるでしょう。
矛盾を社会に押し付けて教会内を純潔に保ったキリスト教
余談ですが、キリスト教の歴史において、売春女性は矛盾に満ちた立場に置かれ続けました。
救済と非難、排除と必要性――彼女たちは聖書の教えや教会の方針の間で揺れ動く存在であったのです。
キリスト教の創始者のイエスは売春女性たちを拒むどころか、救いの道へ招き入れる姿勢を示していました。
たとえばイエスに付き従ってきたマグダラのマリアは性的不品行を罪を犯しており、そのようなこともあって591年にグレゴリウス1世が「マグダラのマリアは娼婦であった」という解釈を出してから、2016年にバチカンが公式に否定するまでの間、娼婦であったと語り継がれていたのです。
マグダラのマリアが実際に娼婦であったのかについては議論が分かれているものの、イエスはそう解釈されかねない人物でも差別することなく側に置いており、非常に寛容な姿勢を見せていたのです。
しかしキリスト教が規模を大きくし、教会が制度として形を整えるにつれ、その寛容な姿勢は修正されていきます。
使徒パウロは「みだらな行い」を厳しく排除し、結果として売春女性は教会に居場所を失いました。
それでも教会は売春自体は必要悪という黙認しており、中世に至るまで教会が売春行為を非難することはありませんでした。
そのようなこともあって外の社会での彼女たちへの扱いは比較的やかでしたが、教会の純潔を保つため、内には決して入れられなかったのです。
売春女性の存在は、社会の暗部を映し出す鏡のようなものでした。
彼女たちは非難され、差別されながらも、結局のところ、その社会の秩序を維持するために必要とされる存在だったのです。
この二重性は歴史の中で繰り返し見られ、いまなお私たちに問いかけてきます。
人間社会はどこまで清廉でいられるのか――その答えを、誰もが探し続けているのかもしれません。
参考文献
神戸女学院大学機関リポジトリ
https://kobe-c.repo.nii.ac.jp/records/5335
ライター
華盛頓: 華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。
編集者
ナゾロジー 編集部