たとえば自分で自分の脇腹を触っても、くすぐったくはありません。
けれど他人に同じ場所を触られると、くすぐったく感じます。
これは脳が「自分の動きで起きる感覚」を前もって予測し、その刺激を弱めて処理しているからです。
ところが精神病性障害(統合失調症など)をもつ人の中には、この“自分と他人の感覚の違い”をうまく区別できない人がいます。
これが、自分の声が他人の声に聞こえたり、誰かに体を操られているように感じたりして幻覚を起こすのです。
スウェーデンのリンシェーピン大学(Linköping University)の研究チームは、この「自己と他者の境界」がどの段階で崩れるのかを、脳だけでなく脊髄(せきずい)レベルまで調べました。
その結果、精神病性障害の人では「自分で触った感覚」と「他人に触られた感覚」の違いが、脊髄の段階からすでに曖昧になる傾向が示されました。
この研究の詳細は、2025年7月付けで科学雑誌『Molecular Psychiatry』に掲載されています。
目次
- 自分と他人を見分ける“体のセンサー”
- 自分の感覚を区別する能力が脊髄レベルで異なっていた
自分と他人を見分ける“体のセンサー”
研究チームはまず、「人の身体は、自分で起こした刺激と外から受けた刺激をどの段階で区別しているのか」を探りました。
実験に参加したのは、幻覚や妄想といった精神病症状をもつ精神病性障害の患者35名と、健康な人35名の合計70名です。
参加者は、左腕の前腕部をゆっくりとなでる2つのタスクを行いました。
1つは自分の右手で前腕をなでる「セルフタッチ」。もう1つは、研究者が同じ場所をなでる「他者タッチ」です。
このとき、研究チームは機能的MRI(fMRI)を用いて脳活動を記録しました。
どの脳の領域がどのように反応するのかを比較することで、「自分の動作による感覚」と「外から受ける感覚」を脳がどう区別しているのかを調べたのです。
さらに別の実験では、腕にごく軽い電気刺激を与え、その反応を脊髄(せきずい)での電位として計測しました。
これにより、脳に信号が届く前の段階――つまり身体の根幹である脊髄のレベルで、自分の動作と外からの刺激をどのように処理しているのかを探ったのです。
こうした実験の背景には、次のような現象があります。
健康な人では、自分の動きで起こる感覚を脳が事前に予測し、「これは自分で触ったものだ」と理解します。
そのため、実際に触れたときの刺激は小さく感じられる傾向があります。
たとえば自分でくすぐってもくすぐったくないのは、この予測で刺激が弱められるためです。
では、精神病性障害の人ではどうなっているのでしょうか?
研究チームはその答えを、脳と脊髄の両方のデータから確かめようとしました。
さらに、身体の外側だけでなく内側の感覚(内受容感覚)にも注目しました。
参加者には、自分の心拍を感じ取ってボタンで合図する課題と、録音された心音に合わせてボタンを押す課題を行ってもらいました。
同時に心電図と脳波を記録し、脳が心臓の鼓動にどう反応しているかを示す心拍誘発電位(Heartbeat-Evoked Potential:HEP)を算出しました。
最後に、こうして得られた複数の感覚処理の指標を、患者の症状の強さと照らし合わせることで、自己と他者の区別に関わる神経の働きがどのように変化しているのかを分析しました。
自分の感覚を区別する能力が脊髄レベルで異なっていた
まず脳画像では、健康な人に比べて患者は自分で触れたときの右上側頭回(Superior Temporal Gyrus)の反応が強い傾向を示しました。
本来は自分由来の感覚で反応が弱まる場面ですが、患者ではその抑えが弱い傾向が見られた形です。
さらに脊髄レベルでも違いが確認されました。
健康な人では「自分で触る」と「他人に触られる」で信号の到達タイミングに差が出ますが、患者ではこの差が小さくなる傾向がありました。
つまり「自分で触っている」という区別が、脳に届く前の脊髄の段階から弱まりやすいことが示唆されます。
内受容感覚の検査でも、患者は自分の心拍を感じ取る正確さが低い傾向にあり、心拍誘発電位(HEP)も小さくなっていました。
外側からの触覚だけでなく、体の内側からの信号でも「自分のものとして処理する力」が弱まる傾向があったのです。
これらの指標の一部は、全体の症状の強さと関連する傾向があり、また、こうした感覚処理のずれは、感情の鈍さや意欲の低下といった「陰性症状」と呼ばれる特徴の強さとも関係している傾向がありました。
研究チームは、この現象を「予測のずれ」で説明しています。
健康な脳は次に起こる自分由来の感覚を予測し、合っていれば反応を弱めます。
しかし精神病性障害の患者では予測がうまく働かず、自己由来の刺激が“予想外の外部刺激”のように感じられてしまう可能性があります。
その結果、自分の声が他人の声に聞こえる、誰かに体を操られているように感じるといった誤認が生じやすくなり、これが幻聴や幻覚などの症状が、統合失調症などの患者で見られる原因になっていると考えられます。
今回の成果は、「自己」と「他者」を分ける境界が脳だけでなく脊髄という根源的なレベルから形づくられていることを示しました。
この視点は、幻聴や妄想を単なる心の問題ではなく、感覚処理のずれとして捉え直す手がかりになります。
研究チームは今後、このような感覚のズレを整えるトレーニングや神経フィードバックが、症状の改善につながる可能性を探るとしています。
元論文
Altered processing of self-produced sensations in psychosis at cortical and spinal levels
https://doi.org/10.1038/s41380-025-03130-w
ライター
相川 葵: 工学出身のライター。歴史やSF作品と絡めた科学の話が好き。イメージしやすい科学の解説をしていくことを目指す。
編集者
ナゾロジー 編集部

