うつ病治療に新しい光が見えてきました。
古くから麻酔ガスとして利用されてきた「笑気ガス(N₂O)」が、慢性的なストレスによって弱まった帯状皮質(前頭前野の一部)のLayer 5ニューロンを短時間で“再起動”し、うつ病の症状を大きく和らげる――そんな興味深い研究結果が発表されたのです。
アメリカのペンシルベニア大学(Penn)で行われたマウス実験により、ストレスによって低下したこの部位の活動が笑気ガス吸入によって急激に活性化することが突き止められました。
抗うつ薬の効果が出るまでに数週間かかる場合もある現在の治療と比べ、ガスの吸入で数時間から少なくとも24時間程度続く即効性が得られるかもしれません。
はたして、笑気ガスはうつ病治療の新たな切り札となるのでしょうか?
研究内容の詳細は『Nature Communications』にて発表されました。
目次
- 3割の患者が救われない… だからこそ笑気ガスに注目する理由
- うつ病治療に“電撃”の新星現る? 笑気ガスの意外なチカラ
- 鎮静ガスの殻を脱ぐ日──笑気ガスが未来の治療を変えるかもしれない
3割の患者が救われない… だからこそ笑気ガスに注目する理由

うつ病は、世界中で数多くの人の心を重くする疾患です。
ときには人生を彩る色が一気に褪せてしまうかのように、気力や意欲を奪い、何気ない日常を苦しく感じさせます。
さらに厄介なのは、多くの抗うつ薬が効き始めるまで数週間かかる場合があるうえ、患者のうち約3割は十分な効果を得られない「治療抵抗性うつ病」に悩まされていることです。
こうした背景のもと、近年注目されているのが「即効性をもたらす可能性を秘めた薬」です。
中でも静脈麻酔薬ケタミンが一足先に脚光を浴び、短時間で症状を改善する様子が報告されてきました。
しかし、ケタミンと同様に古くから麻酔に使われてきた笑気ガスには、従来「鎮痛・鎮静作用」以外の大きな特徴があるのではないかと、密かに期待の目が向けられていたのです。
笑気ガスが歴史の舞台に登場したのは18世紀。
もともとは歯科治療などで使われ、「ヒッピークラック」というあだ名で娯楽的に吸入されることすらありました。
笑気ガスという名称は、吸入すると人々が自然と笑い出す現象に由来しています。
18世紀後半、科学者たちはこの無色でほのかに甘い亜酸化窒素に触れ、その一風変わった作用に驚嘆し、冗談めかして「笑いを誘うガス」と呼ぶようになりました。
今日では「笑気ガス」として親しまれる一方、医学や食品業界でも広く用いられており、正確な化学的名称は亜酸化窒素(N₂O)です。
このガスが脳に及ぼす影響は、まるで奥深い神経回路の中で隠されたスイッチが一斉にオンになるかのようです。
笑気ガスは、脳内のNMDA受容体と呼ばれる部分に作用して、その働きを一時的にブロックします。
これにより、快感をもたらす神経伝達物質、例えばドーパミンの放出が促進され、心が軽やかになり、笑いが自然とこぼれる状態を作り出します。
また、笑気ガスは単に鎮静効果を示すだけでなく、脳の深部に位置するニューロン—例えば特定のLayer 5の細胞—を活性化することで、普段は静かだった神経細胞群に新たな活力を吹き込む作用も持っています。
まるで、暗闇に包まれていた部屋の照明が一瞬で点灯するかのように、脳内の活動が急速に再起動するその様子は、科学者たちにも大きな驚きを与えています。
このような神経作用は、笑気ガスが従来の麻酔効果を超えて、心の病と闘う新たな治療法として期待される背景の一端を担っているのです。
一方で近年の小規模な臨床研究では、治療抵抗性うつ病の患者に対して短時間で症状を緩和するかもしれないという報告もなされています。
ただし、なぜそんなに短い時間で脳に変化を起こせるのか、その“本当の仕組み”は詳しくわかっていませんでした。
脳の働きは、まるで無数の小部屋が入り組んだ巨大な館のようなものだと考えるとわかりやすいかもしれません。
うつ病が進むほど、一部の小部屋に鍵がかかったり照明が落ちたりして、全体が暗く沈んでしまいます。
従来の抗うつ薬は、いわば慎重に一つひとつの扉を開け直すようなもので、時間がかかりがちでした。
ところが、笑気ガスは“どこか決定的な部屋”への鍵を素早くこじ開ける力を持っているようなのです。
そこで今回研究者たちは、ストレス状態にあるマウス脳の活動を詳しく追跡しながら、笑気ガスが帯状皮質(前頭前野の一部)の特定のニューロンをどのように変化させるのかを細胞レベルで観察することにしました。
うつ病治療に“電撃”の新星現る? 笑気ガスの意外なチカラ

今回の実験は、まずマウスに「慢性的なストレス環境」を与えるところからスタートします。
たとえば水にストレスホルモン(コルチコステロン)を溶かし、毎日それを飲ませる。
あるいは、力の強いマウスがいるケージの近くに長時間置いて、“外的脅威”を定期的に感じさせる。
そんな状況に晒され続けたマウスは、日を追うごとに意欲を失い、落ち込んだような行動が増えていきます。
これは人間のうつ病に似た状態を再現する方法として広く用いられています。
ストレスまみれのマウスが“元気をなくしている”ことを確認すると、今度は脳の中を覗き見るために「2光子カルシウムイメージング」と呼ばれる最先端の顕微鏡技術を使います。
イメージとしては、脳の特定の領域に細胞の活動を光で捉えるセンサーを埋め込み、そこをハイスピードカメラで撮影しているようなものです。
脳の深いところで神経細胞がどのくらい活発に働いているか、リアルタイムで“生放送”できるわけです。
観察対象となったのは、帯状皮質(Cg1)と呼ばれる前頭前野の一部。
ヒトの思考や感情をコントロールする領域に近い機能を持つと考えられ、いくつかの層(Layer)から構成されています。
なかでも研究チームが着目したのは、深い階層であるLayer 5の錐体(すいたい)ニューロンという細胞群でした。
ストレスを受け続けたマウスでは、まるでブレーカーが落ちた部屋のようにLayer 5の活動がガクッと下がってしまうことがわかっています。
ここで登場するのが「笑気ガス(N₂O)」。
研究チームは意欲を失ったマウスに笑気ガスを吸わせ、そのときのLayer 5がどんな変化を見せるのかを綿密に観察しました。
するとどうでしょう。
暗く沈んでいたこの深い層の細胞たちが、一気に活動を取り戻す様子が確認できたのです。
しかも、ガスを吸っている最中だけでなく、吸引が終わったあともしばらく持続しました。
研究チームはマウスの行動テスト(尾を持ち上げられたときにどれだけ動こうとするか、甘い水をどのくらい好むか、など)を行い、笑気ガス吸入後にうつ病様行動が大幅に改善されることも確認しています。
さらに注目すべきは、NMDA受容体を強力にブロックする薬剤や遺伝子操作を施しても、笑気ガスによるLayer 5活性化がほとんど損なわれなかった点です。
つまり、笑気ガス自体にはNMDA受容体拮抗作用があるものの、少なくともこの深い層の活性化を引き起こす主因は別のルート(SK2チャネル阻害)にある可能性が示唆されました。
より詳しく調べてみると、脳細胞の興奮を調整する『SK2チャネル』が笑気ガスによってブロックされ、結果として神経細胞が興奮しやすいモードになったのではないかという結論に至ったのです。
これらの結果は「笑気ガスが脳深部の錐体細胞をスイッチONにし、それがうつ症状を短時間で和らげる」という仮説を複数の実験で裏付けるていることになります。
この発見が革新的なのは、笑気ガスが“単なる麻酔ガス”から“脳回路を瞬時に活性化し得る新たな治療オプション”へと役割を広げるかもしれない点です。
従来の抗うつ薬は徐々に神経伝達物質を増やして脳内バランスを変えていきますが、笑気ガスでは短時間で鍵をこじ開け、活動レベルを底上げするというダイナミックな効果が明らかになりつつあります。
鎮静ガスの殻を脱ぐ日──笑気ガスが未来の治療を変えるかもしれない

今回の研究が示した最大の意義は、笑気ガスが「脳を沈静するだけのガス」ではなく、「帯状皮質の深い層を中心とした脳回路を短時間で再活性化する薬剤」として再注目される可能性を高めたことです。
これまでの抗うつ薬は、脳内の神経伝達物質をじわじわと増やして調整するため、作用が現れるまでに数週間かかるのが一般的でした。
一方で笑気ガスは、NMDA受容体拮抗作用を持つだけでなく、SK2チャネルなど“別の分子スイッチ”にも働きかけることで、ストレスでブレーカーが落ちたように沈んでいた錐体ニューロンを急激に目覚めさせると考えられます。
これは、単に“効き方が速い”だけでなく、うつ状態の脳が本来持っていた活力をダイレクトに呼び起こすプロセスかもしれません。
特に、ガス吸入をやめたあとも数時間から少なくとも24時間ほど効果が続くという点は、従来の抗うつ薬にはないユニークな特徴だと言えそうです。
もちろん、実際の臨床現場で同様の即効性や持続効果が得られるかを証明するには、さらに大規模な試験や安全性の検証が必要となります。
笑気ガスは酸素欠乏のリスクや、長期使用によるビタミンB12欠乏などの問題も指摘されており、医療機関で適切な管理下で用いることが必須です。
今後もし笑気ガスがこうした課題をクリアし、治療抵抗性うつ病の患者さんを中心に実績を積むことができれば、既存の抗うつ薬とはまったく異なるアプローチとして大きな反響を呼ぶでしょう。
とりわけ“一刻でも早い効果”を求めるケースでは、短い吸入で脳の深層回路を瞬時に再起動させられる可能性がある点は非常に魅力的です。
今後は、笑気ガスの作用機序をより深く解明するとともに、安全に使える投与プロトコルや患者ごとの適切な用量設定などを進めることで、うつ病治療の新時代が切り拓かれていくかもしれません。
元論文
Nitrous oxide activates layer 5 prefrontal neurons via SK2 channel inhibition for antidepressant effect
https://doi.org/10.1038/s41467-025-57951-y
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部