アメリカの国立衛生研究所(NIH)で行われた研究によって、これまで無害な“皮膚の常在ウイルス”と考えられてきたヒトパピローマウイルス(β-HPV)が、免疫不全の条件下では皮膚がんの直接的な原因となりうることを明らかにしました。
研究では先天的に免疫力が低下した患者において、皮膚にいるヒトパピローマウイルスが細胞のDNAに入り込み、がんを維持するのに役立つタンパク質を作り続けていた事実が突き止められています。
これにより紫外線だけでは説明できない皮膚がんの発症メカニズムが明らかになりました。
研究内容の詳細は2025年7月31日に世界五大医学雑誌の1つとして知られる『The New England Journal of Medicine』にて発表されました。
目次
- 無害なウイルスが注目された理由
- 無害なウイルスが、皮膚がんを暴走させる仕組み
- 皮膚がんの診断と治療に新たな視点
無害なウイルスが注目された理由

皮膚がんの一種である「皮膚扁平上皮がん(cSCC)」は、世界で最も一般的な皮膚がんの一つです。
その主な原因は長年、紫外線(UV)による遺伝子損傷だと考えられてきました。
紫外線は皮膚の細胞に当たると、DNAの中に小さな傷を作ります。
この傷がたまると、細胞の設計図が少しずつ壊れ、正常な細胞ががん細胞へと変化していくのです。
特に長年にわたって強い紫外線を浴び続けると、遺伝子のエラーが増えて、皮膚扁平上皮がんの発症リスクが高まることがわかっています。
しかし、すべての皮膚がんが紫外線だけで説明できるわけではありません。
近年の研究によって、皮膚がんの発症には他にも見過ごされてきた要因が存在する可能性が浮上しています。
なかでも注目されているのが「ウイルス」の関与です。
最近では、ヒトパピローマウイルス(HPV)などのウイルスが子宮頸がんの原因となることは広く知られるようになりましたが、「皮膚がんを引き起こすウイルス」と聞くと、多くの人はあまりピンとこないかもしれません。
【コラム】ヒトパピローマウイルスとは何か?
ヒトパピローマウイルス(HPV)という名前を聞いたことがあっても、その正体を詳しく知っている人は案外少ないかもしれません。ヒトパピローマウイルスは“パピローマ”、つまり「いぼ」を意味するラテン語から名付けられたウイルスの仲間で、人類と何万年も共に暮らしてきた“超・古株”のウイルスです。驚くべきことに、ヒトの皮膚や粘膜には100種類を超える多様なヒトパピローマウイルスが生息しており、ほとんどの人が一生のうちに一度は何らかの型に感染します。実は、身近な「手足のいぼ」も、その多くがヒトパピローマウイルスによって引き起こされているのです。動物にも“パピローマウイルス”が存在し、ウサギや牛でも“いぼ”や“できもの”の原因となることが知られています。実際、ウサギの耳にできる大きな突起の正体もヒトパピローマウイルスの一種によるものです。一方で、人類が科学の力でこのウイルスの姿を初めて“直視”したのは意外と最近のことで、1970年代になってようやく電子顕微鏡で観察されました。その美しい幾何学的な形から「ウイルスの宝石」と呼ぶ研究者もいます。さらに、21世紀に入り、HPVが子宮頸がんを引き起こすことが判明すると、「がんの原因となるウイルス」という科学史上の大発見として大きな注目を集めました。しかしその全貌は、いまだに謎も多く、ウイルス学や医学の分野で今なお“最前線の研究対象”となっています。
実は、ヒトパピローマウイルスは皮膚にも存在することが以前から知られていましたが、長らく「皮膚がんを直接的に維持する力はない」と考えられてきました。
これは、ヒトパピローマウイルスには100種類以上の型があり、その性質が大きく異なるためです。
たとえば、子宮のような粘膜に感染する“α型”は、感染した細胞のDNAに自分の遺伝子を組み込み、がんを直接引き起こすことが知られています。
一方で、皮膚に多い“β型”は細胞のDNAに入り込まず、皮膚の常在菌のように「常在ウイルス」としておとなしく共存していると考えられてきました。
そのため従来の定説でも、皮膚に入るβ型はせいぜい紫外線によるDNA損傷を手助けする「共犯者」に過ぎず、自らががんを維持するエンジンになることはないと考えられていたのです。
しかし現実には、免疫力が低下した人々で皮膚がんが多発する現象が知られています。
例えば、臓器移植後に免疫抑制剤を服用している患者や、先天的な免疫不全症の患者では、皮膚に多数のイボや有棘細胞がんが繰り返し発生することがあります。
ヒトパピローマウイルスはこうした背景で増殖し、紫外線によるがん発生を手助けしているのではないかとも指摘されてきました。
それでも、「ヒトパピローマウイルス自体が皮膚がんの主因となっている」と断言できる直接的な証拠はありませんでした。
そこで米国NIH(国立衛生研究所)の研究チームは、ある特異な女性患者のケースを詳細に調べ、この謎に挑むことにしました。
この女性には遺伝性の免疫異常(ZAP70関連)があり、過去にクリプトコックス髄膜炎などの重い感染症を経験していました。
また口の中や手足に次々とイボ(疣贅〔ゆうぜい;イボ状の良性腫瘍〕)ができ、日光に当たる部分の皮膚には43箇所もの皮膚がん(扁平上皮がん)が発生していたのです。
通常、皮膚がんは手術で取り除けば治ることが多いのですが、この患者さんの場合は違いました。
顔にできた大きな皮膚がんは切除と移植を繰り返しても再発を重ね、最新の免疫療法(チェックポイント阻害剤)すら効果がなく、手に負えない状態だったのです。
彼女の身に何が起きていたのでしょうか?
無害なウイルスが、皮膚がんを暴走させる仕組み

なぜ女性患者は皮膚がんの再発を繰り返していたのか?
謎を解明するため研究者たちは患者の額の皮膚がん組織を遺伝子レベルで徹底的に解析しました。
その結果、驚くべき事実が判明します。
腫瘍細胞のDNAの中に、通常は無害とされるβ型のヒトパピローマウイルス(HPV)のDNAがしっかりと組み込まれていたのです。
しかもウイルスは腫瘍細胞の中でがんの進行に関わるウイルスタンパク質(E6/E7)を高いレベルで作り出し、まさにがんを増殖させるエンジンとして活発に動いていました。
さらに詳細な検査により、患者の細胞には紫外線によるDNA損傷を修復する能力が正常に備わっていることも確認されました。
当初想定されていた「紫外線が主因」という見方は弱まり、一般的な皮膚がんに比べてUVの痕跡が少ないことから、ウイルスが主要な役割を果たしていた可能性が高いと考えられるようになりました。
では、本来おとなしいウイルスがなぜここまで暴走できたのでしょうか?
免疫学的な解析の結果、彼女にはT細胞(免疫の司令塔)の働きを著しく低下させる遺伝子変異(ZAP70関連)があることも判明しました。
この変異の影響で、皮膚の細胞がヒトパピローマウイルスに感染してもT細胞が十分に活性化せず、ウイルスの増殖を許してしまっていたのです。
その結果、皮膚の中でヒトパピローマウイルスが暴走を始め、イボから皮膚がんまで次々と“ウイルス関連病変”が発生したと考えられます。
ある意味でこの患者さんの場合、ウイルスが腫瘍のエンジン、そして免疫不全がアクセルになってしまったのです。
ですが原因が分かれば、対策も見えてきます。
研究者たちは治療の照準を免疫異常そのものに合わせることにしました。
具体的には、患者に適したドナーを見つけ出し、同種造血幹細胞移植(HCT、一般に“骨髄移植”と呼ばれる治療)によって新しい健全な免疫システムを構築するという思い切った治療を実施しました。
生まれつき免疫不全の患者に移植治療を施すのはリスクが伴いますが、綿密な準備の末に移植は無事成功しました。
すると驚くべきことに、長年苦しんでいた皮膚のイボ(疣贅)から侵潤性の皮膚がんに至るまで、ヒトパピローマウイルスが関わっていた全ての病変がきれいさっぱり消えてしまったのです。
移植後3年以上が経過した現在も再発は認められず、患者さんは寛解を保っています。
免疫というブレーキを新しく利かせ直すことで、暴走するウイルスというエンジンを停止させ、がんまでも消失させることに成功したのです。
皮膚がんの診断と治療に新たな視点
本研究は、「皮膚がんの原因としてのウイルス」という長年の議論に重要な一例を提示する発見です。
従来は紫外線こそが皮膚がんの主犯と考えられてきましたが、初めて「皮膚常在ウイルスが免疫不全の下で皮膚がんを直接引き起こしうる」ことが示されました。
もちろん健康な人では依然として紫外線ダメージが主なリスクですが、本研究は、免疫という見えない盾が崩れた特殊な状況下ではウイルスががんの主役になり得ることを示しました。
極論すれば、皮膚がんにおけるヒトパピローマウイルスの役割は個人の免疫能力次第で「脇役」から「主役」へと変貌しうるというわけです。
この発見は、免疫機能に問題を抱える皮膚がん患者の病態理解と治療法に新たな道を示すものです。
もっとも今回の研究の被験者となったのは1人の患者のみであり、結果が多くの人々にも同様に当てはまるかは今後の検証が必要でしょう。
それでもありふれた皮膚のウイルスが細胞に侵入してがんの原因になり得るという知見は貴重なものです。
NIAIDのAndrea Lisco医師も「この発見は、免疫機能が低下した人々における皮膚がんの成り立ちと治療の考え方を一変させる可能性がある」と述べています。
原因不明の侵襲的な皮膚がんに苦しむ人々の中には、気付かれていない免疫異常やウイルスの関与が潜んでいるケースがあるかもしれません。
そうした患者には、従来のがんそのものを切除・攻撃する治療だけでなく、免疫システムを立て直す治療が効果を発揮する可能性があります。
実際、今回の患者さんも手術や薬剤による治療だけでは再発を防げませんでしたが、免疫そのものに対する治療によって長期寛解に至りました。
本症例の経過は、腫瘍の切除だけでは不十分な場合があり、免疫の異常を正すことでウイルスを抑え込み、再発を防げることを示唆します。
今後は、原因不明の免疫異常が疑われる皮膚がんでは、原因ウイルスの関与やT細胞機能を評価し、状況に応じて免疫機能の回復をめざす治療(例:薬物による免疫療法や、厳密な適応のもとでの造血幹細胞移植など)を“選択肢の一つとして”検討する流れが想定されます。
元論文
Resolution of Squamous-Cell Carcinoma by Restoring T-Cell Receptor Signaling
http://dx.doi.org/10.1056/NEJMoa2502114
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部