現代のように高度な医療も発達していない中世の時代。
ヨーロッパでは、外見が崩れてしまうような恐ろしい病気が人々の間で蔓延していました。
原因もわからないし、病気を治す薬もない…
そんな中で人々が頼ったのは、神秘的な力を持つと信じられる国の王様でした。
人々は王の手で触れられることで病気はたちまちに治ると固く信じたのです。
この王による触手療法は「ロイヤルタッチ(Royal touch)」と呼ばれました。
ロイヤルタッチの慣習は何百年にもわたって続けられましたが、実はその裏には人助けとは別のある目的があったのです。
目次
- ロイヤルタッチはどんな慣習?
- ロイヤルタッチを行う「裏の目的」とは?
- 王じゃなくて「馬」でもいける?
ロイヤルタッチはどんな慣習?
中世ヨーロッパでは、先ほども言ったように、皮膚が赤く腫れ上がったり、こぶができたり、崩れてしまうような病気が治癒もできないまま蔓延していました。
その中でもイギリスとフランスで最も恐れられたのが「頸部リンパ節結核」という病気でした。
これは頸部リンパ節が結核菌に感染して発症する病気であり、皮膚に大きくて醜い腫れ物ができるのが特徴です。
こちらが頸部リンパ節結核にかかった患者の画像。

この病気で死ぬことは滅多にありませんでしたが、外見は大きく損なわれてしまいました。
そして頸部リンパ節結核は中世の人々の間でこう呼ばれます。
「王の病(the king’s evil)」
なぜ「王の病」と呼ばれたかというと、治療する手段が王の手に触れてもらうしかなかったからです。
頸部リンパ節結核にかかった患者に国王が触れる触手療法「ロイヤルタッチ」は、11世紀のイギリスとフランスで始まりました。
最初にロイヤルタッチを行ったのは、イングランドのエドワード懺悔王(1004〜1066年頃)とフランスのフィリップ1世(1052〜1108)とされています。
彼らは共に、神から授かった国王の癒しの力を示すためにロイヤルタッチを始めました。
ロイヤルタッチを行うときは必ず、大衆を集めてその面前でするのが決まりです。
その手順はおおよそ次の通りでした。
まず、宴会場の王座に座っている王の元へ、病人が運ばれてきます。
病人は王の前でひざまずき、王に顔や頬を一度だけ触れられます。
すると側に控えている司祭が「陛下のお力で病人の病は癒やされた」といった紋切り型の言葉を述べて終了です。
これを順繰りに何人もの病人に行いました。

他に治療手段もない中世において、ロイヤルタッチは非常な人気を博しました。
また市民たちに人気だったのには、もう一つ理由があります。
それは聖ミカエル像が彫られた特別な金貨がもらえたことです。
この慣習が始まったのは15世紀の半ば頃ですが、ロイヤルタッチを受けた市民や農民たちは、帰り際にこの金貨をもらうことができました。
金貨には聖なる力が宿っていると信じられていたため、彼らはそれを首からぶら下げて、病気で苦しいときは金貨を患部に擦り付けたりしたのです。
無料の触手療法に加えて金貨までもらえるのですから、中世の人々がロイヤルタッチを求めてやまなかったのも当然でしょう。
加えて、農奴制が深く根付いた社会にあって、多くの人々は教育を受ける機会もなかったため、王の神秘的な力を盲信して強力なプラセボ効果が起きたと考えられます。
そう考えると、ロイヤルタッチも決して意味のない治療ではなかったのかもしれません。
「病は気から」というように、強く信じ込むことで本当に病気が治ってしまうケースも往々にしてあるからです。
こうしてロイヤルタッチにより救われた人も少なくありませんでしたが、実は国王たちにはロイヤルタッチを行う裏の目的があったのです。
ロイヤルタッチを行う「裏の目的」とは?
ロイヤルタッチが定着する中で、手で触れると病を癒す力は「神の意志によって真の王にだけ遺伝する」と喧伝されるようになりました。
つまり、ロイヤルタッチは国王の血を引き継ぐ一族にだけ継承されるものであり、他の者にはロイヤルタッチはできないことを意味します。
そしてこれが人々に国王を支持させ、王政を維持するのに大いに役立ったのです。
国王や側近たちは、市民たちからの支持率が下がってくると、ロイヤルタッチの回数を増やして人気を取り戻そうとしました。
わかりやすいのが、イングランド王のチャールズ二世(1630〜1685)の例です。

彼の治世になるとイングランドでの君主政治はかなり不安定になっており、父のチャールズ一世は内戦中の1649年に処刑されました。
さらにチャールズ二世も1651年に、オリバー・クロムウェルとの戦いに敗れて、ヨーロッパに亡命しています。
その後、イングランドでは共和制が9年間続きましたが、クロムウェルが亡くなったことで体制が崩壊し、1660年にチャールズ二世が復帰して、王政復古を宣言しました。
そして彼は人気取りのため、積極的にロイヤルタッチを始め、病気の市民たちを触りに触りまくったのです。
記録によりますと、チャールズ二世は25年間の治世の中で、およそ9万2500人もの患者にロイヤルタッチを施しました。
これは平均すると1年間で3700人に触れた計算になります。
しかし一方で、ロイヤルタッチにはある問題がありました。
それは遠方に住む農民にとっては王に会いに行くのが難しかったことです。
そこで人々はとんでもない方法で、ロイヤルタッチの代わりとなるものを編み出します。
王じゃなくて「馬」でもいける?
お金もない、新幹線や飛行機もない時代に、遠方の田舎からロンドンやパリに行くのは至難の技でした。
しかし田舎にも頸部リンパ節結核を患っている患者はごまんといます。
そこである突飛な方法でのロイヤルタッチが行われたのです。
それは17世紀後半、スコットランドのアナンデール地域でのこと。
そこに患部を舐めることで頸部リンパ節結核を治してしまう「馬」がいると話題になったのです。
スコットランドの活動家であったアレキサンダー・シールズは日記にこう記しています。
「目撃した人から聞いたのだが、アナンデールの麓(ふもと)かどこかに特別な馬がいて、その馬が患部を舐めると王の病が治ってしまうそうだ。
その馬にあやかろうとして、方々から人々がやってくるとのことだ」
これはおそらく、僻地(へきち)に住んでいてロンドンまで行けない農民たちが苦肉の策として考えついたロイヤルタッチの代案だったと思われます。
しかし、遠方まで行くお金もない病人たちにとっては、この馬は心強い存在だったでしょう。

またフランスでも風変わりなロイヤルタッチの慣習が生まれていました。
現役の王様は職務のために忙しかったり、ロイヤルタッチの儀式もそんなに頻繁にはしないため、受けたいときに受けることが困難でした。
そこでフランス人たちは「生きた王がダメなら、死んだ王でもいけるんじゃないか?」と考えたのです。
彼らは亡き王の体に触れさえすれば、その神秘的な力で病を癒してくれると主張し始めました。
ロイヤルタッチの対象に選ばれたのは、ルイ9世(1214〜1270)の亡骸です。
ルイ9世は亡くなった後にカトリック教会から聖人とされた王であり、それゆえに神秘的な力が宿っていると信じられました。
そうしてルイ9世の亡骸が聖遺物として収められている礼拝堂にヨーロッパ中から人々が押し寄せて、白骨化した腕に触れるようになったのです。

馬にせよ、ルイ9世の亡骸にせよ、その癒しの効果がどれほどのものだったかはわかりません。
しかしロイヤルタッチの慣習は人々の間で高い人気を誇り、イギリスやフランスを中心に700年以上も続けられました。
ただ中世の神秘時代から近代的な啓蒙時代へと脱却するにつれて、こうした科学的な証拠のない治療は次第に批判されるようになります。
中でもフランスの啓蒙家であったヴォルテール(1694〜1778)などは、ロイヤルタッチの痛いところを巧みに突きました。
彼は「ルイ14世の愛人は毎夜、王の手で散々愛撫されたにも関わらず、頸部リンパ節結核を発症したではないか」と批判したのです。
というわけで、ロイヤルタッチの慣習は徐々に廃れていき、歴史の闇へと消えていきました。
参考文献
Touching for ‘the King’s evil’: a short history
https://history.rcp.ac.uk/blog/touching-kings-evil-short-history
元論文
The origins and medieval history of the royal touch, 1000–1485
https://doi.org/10.1017/9781782045106.002
ライター
大石航樹: 愛媛県生まれ。大学で福岡に移り、大学院ではフランス哲学を学びました。 他に、生物学や歴史学が好きで、本サイトでは主に、動植物や歴史・考古学系の記事を担当しています。 趣味は映画鑑賞で、月に30〜40本観ることも。
編集者
ナゾロジー 編集部