フランスのリヨン高等師範学校(ENSリヨン)で行われた研究によって、熱力学第2法則を「95%もの高確率で破るように見える」驚異的な現象が実験的に確認されました。
研究では、髪の毛よりもはるかに小さい微小な板バネを使い、周囲のごくわずかな温度変動(熱ゆらぎ)を巧みに利用して、本来であれば外部からのエネルギー供給が不可欠な状況であっても、95%の確立で必要な自由エネルギー差を「タダ」で済ませることに成功しました。
これは、ナノスケールの世界で起こる確率論的熱力学という新しい理論に基づくもので、エネルギーの供給が必要となる状態遷移を「ゆらぎ」に頼って引き起こしたものです。
果たしてこの結果は、本当に熱力学第2法則を揺るがすものなのでしょうか?
研究内容の詳細は『Physical Review Letters』にて発表されました。
目次
- 熱力学第2法則は宇宙のルールとして完璧なのか?
- 「ほぼ毎回エネルギーがタダになる」――ナノマシンが見せた驚きの挙動
- 熱力学第2法則はなぜ最終的に勝つのか?「5%の罠」の正体
熱力学第2法則は宇宙のルールとして完璧なのか?

私たちが暮らす世界には、「エネルギーは勝手に都合よく集まらない」という絶対的なルールがあります。
例えば、一度散らばった熱が勝手に集まってエネルギーに戻ることはありませんし、熱が勝ってに冷たい方から熱い方へは流れることもありません。
自然界では「使えるエネルギーは放っておくと散逸し、減少する」という運命にあります。
この自然の法則は「熱力学第2法則」と呼ばれており、あらゆる物理現象に当てはまると考えられています。
実際、部屋の中に置いていたぬるいお茶がなにもしていないのに「勝手に周りから熱を集めて沸騰した」という経験をしたひとはいないでしょう。
また歴史的には「熱力学第2法則」は永久機関が決して作れない理由として存在し続けています。
永久機関が作れないのは熱力学第2法則のため
昔から、人間は「一度動き始めれば永遠に動き続ける機械」――つまり「永久機関」という夢の装置に憧れてきました。もしそんな機械が実現すれば、エネルギー問題は一気に解決され、環境問題にも劇的な変化が訪れることでしょう。しかし永久機関のエネルギーの流れを詳細に追うと、どの装置もどこかで「使ったエネルギーを再び完全に元通りに取り戻す」過程や「摩擦や抵抗によって散らばったエネルギーをもとに戻す」過程が混入していることがわかります。これは「散らばったエネルギーは勝手に戻らない」という宇宙の法則「熱力学第2法則」と真逆の過程です。散らばったエネルギーを戻すには本来なら追加でエネルギーを投入する必要があり、現実世界ではその役割をガソリンや電気などが担います。つまり永久機関が実現不可能なのは、単に人間の技術が不足しているからではありません。私たちが生きる宇宙そのものが持っている根本的な性質――すなわち「エネルギーは必ず散らばっていく」という絶対的なルールが、それを禁じているからなのです。夢のような永久機関は宇宙の仕組み自体が許さない――これこそが熱力学第2法則の本質であり、この法則がいかに私たちの生活や技術にとって根本的に重要であるかを示しています。
ところがナノやマイクロスケールそして量子の小さな世界では少し奇妙なことが起こります。
このような小さな世界に目を向けると、周囲の熱ゆらぎによってエネルギーがランダムに出入りし、第2法則に反するような「例外的」現象が一時的に起こりうることが知られています。
実はこの極小の世界では、常にランダムな揺れ(熱ゆらぎ)が起きていて時折、本来なら起こり得ない“ラッキー”な振る舞いが起きるためです。
そして2000年代以降に発展した確率論的熱力学やゆらぎの定理によって、このミクロ領域での「第2法則の一時的な破れ」は定量的に理解できるようになりました。
特に1997年に提唱されたジャルジンスキー等式などにより、「仕事量がゼロ以下となる確率には指数的な上限が課される」ことが示されています。
言い換えれば、小さな系では偶然によって一見第2法則を破るような「エネルギーをタダで得られる」可能性はあっても、それを永遠に続けることはできず、ラッキーの起こりやすさには厳密な理論的限界があるのです。
ただ理論的にはそうであっても、実験するまで確定しないのが物理学の世界です。
そこで今回研究チームは、この理論上の限界に迫るほど高い確率で「第2法則に反するように見える」事象を、実験的に再現できるか挑みました。
果たして、理論の限界を超えるような高確率で「第2法則を破ったように見える」現象を実現することは可能なのでしょうか?
「ほぼ毎回エネルギーがタダになる」――ナノマシンが見せた驚きの挙動

果たして、理論上の限界まで「第2法則を破ったように見える」現象を実験的に起こせるのでしょうか?
研究者たちは、この疑問を確かめるために非常に小さな装置を作りました。
それは「マイクロカンチレバー」と呼ばれる、髪の毛よりも細い板ばねのようなものです。
この板ばねはごく小さく軽いため、常に空気分子の衝突を受けていて、静かに見えても実際にはわずかに揺れ動いています。
イメージとしては、水に浮かぶ木の葉が絶えず波に揺られている状態に近いでしょう。
研究者たちは、この小さな板ばねのすぐ近くに電極を配置し、そこに電圧をかけることで、板ばねの動きを細かく制御できる仕組みを作りました。
具体的には、電極にかける電圧を変えることによって、板ばねを2種類の「振動状態」へと切り替えられるようにしたのです。
ひとつは、板ばねがほぼ真っ直ぐの位置で細かく安定して振動する状態、もうひとつは、少しだけ上に傾いた位置で振動するやや不安定な状態です。
通常、こうした状態の切り替えをする場合、熱力学の第2法則によって必ず一定の「労力(エネルギー)」が必要になると決まっています。
たとえば、物体を下から上に持ち上げるには外部からの力が必要になるのと同じように、本来板ばねをある安定な状態から別の不安定な状態に動かすにはエネルギーを与えなくてはならないはずです。
そこで研究チームは板ばねの自然な熱の「ゆらぎ」がこの上下動作を担うことで、板バネの状態変化に必要な電力消費を異常に少なくできる状況を模索しました。
つまり、偶然の力を使って板バネを低エネルギー状態から高エネルギー状態のような状況にする戦略です。
すると研究チームがこの実験を数千回繰り返してみたところ、なんと95パーセントという驚くほど高い確率で、本来は外からのエネルギーが必要なはずの状態変化を「ほぼ自然に起こった」ように見せることに成功しました。
「エネルギーが必要なのにそれを95%で回避する」という結果は、まるで熱力学第2法則に反しているように見えるでしょう。
これは自動車のエンジンやコップのお茶の温度など古典的な熱力学の常識と、小さな世界での熱力学を表現する「確率的熱力学」の見方を区別するための重要な結果と言えます。
小さな世界の確率的熱力学では次から次へと外れ値を作り出すことで、変化に必要なエネルギーを「ゆらぎ」から抽出できるのです。
同様の結果は別の研究でも得られており、その研究では電子が65%の時間で熱力学第2法則に違反するように誘導できることが示されました。
あえて極端な例で例えるならば、ゲームセンターで100円を入れてゲームをする必要があるのに、95%は100円を入れずにゲームをすることができる状況とも言えるでしょう。
しかし美味しい状況には大きな代償がありました。
熱力学第2法則はなぜ最終的に勝つのか?「5%の罠」の正体

驚くべき結果ではありますが、熱力学第2法則そのものが覆されたわけではありません。
鍵は残り5パーセントにありました。
大部分の試行ではほとんどエネルギーを使わずに済みましたが、わずかに起きる試行では通常以上に大きなエネルギーコスト(仕事量が自由エネルギー差を上回る場合)が発生したのです。
そのおかげで全体平均を取ると、最終的には研究者側が電力コストという仕事を支払う状況になりました。
言い換えれば、まれに訪れる「大外れ」が、頻繁に起こる「小当たり」や「棚ぼた」を帳消しにしているのです。
研究者たちも「実験では約95パーセントの試行でエネルギーの“もうけ”が得られましたが、平均すると私たちが系にエネルギーを与えています。要するに、魔法のようにエネルギーを生み出したわけではありません」と述べています。
再び(無理矢理)ゲームセンターの例でたとえるならば「95%の確立でタダでプレーできていたものの、5%の確立でお得分を帳消しにするような金額をお財布から抜き取られてしまう」となるでしょう。
なぜ『大外れ』が起きるのか?
そもそも、なぜこんな現象が起きるのでしょうか?それは実験の仕組みにあります。研究者たちは微小な「板バネ」を使って、2種類のエネルギーの谷(安定な位置)を作りました。一つは「エネルギーが低くて安定した谷」、もう一つは「エネルギーが高くてやや不安定な谷」です。普通なら、低い谷から高い谷へ板バネを動かすには外部からのエネルギー投入(つまりお金)が必要です。ところが研究チームは巧妙なトリックを使いました。板バネが自然な熱ゆらぎで「低い谷」に偶然いるタイミングを狙い、その瞬間に「高い谷」の方だけを急に引き上げるような操作をしました。ほとんどの場合、板バネは低い谷にいるため、外からエネルギーを加えることなく谷の位置が変わることで目的が達成できます。これが95%の「小当たり」や「棚ぼた」が生まれる理由です。しかし、時折起きる不運なケースでは、板バネは偶然にも高い谷にいた状態で急激な操作が行われます。板バネは突然、高いところに取り残されてしまい、必死に低い谷に向かって転がり落ちなければなりません。このとき大量のエネルギーが放出され、結局外部からエネルギーを支払う羽目になります。これが「大外れ」の仕組みなのです。今回の研究では95%で得をするというシステムを作ったものの、そのシステムゆえに5%でしっぺ返しを起こすことになるのです。そしてこの逃れられない「大外れ」こそが熱力学第2法則が用意した「帳尻を合わせる仕組み」です。つまり、この「大外れ」は単なる不運ではなく、自然の法則が私たちに課した「必要な代償」なのです。
さらに、この装置を真の意味で「お得な熱機関」として働かせるには、有利な試行だけを選んでエネルギーを回収する仕組み、いわばマクスウェルの悪魔のような選別装置が欠かせません。
しかしその選別には新たな情報取得とエネルギー支出が必須であり、結局はどこかで“支払い”が生じます。
したがって今回の実験は第二法則の抜け穴を突いたように見えても根本の収支は破綻していなかったのです。
今回の成果が照らし出すのは、確率論的熱力学における「単発事象」と「平均値」のギャップです。
熱力学第2法則はあくまで平均的な振る舞いに対して成り立つため、ミクロな単発イベントの世界ではその枠内で意外なことが起こり得る――本研究はその事実を改めて印象づけました。
また、熱ゆらぎを極限まで巧みに利用すれば、ここまで高確率に“お得”な変換を達成できるという点は非常に興味深い知見です。
総合的にはエネルギー収支の辻褄があっても、95%でタダという仕組みは工業的にも利用価値は高いはずです。
またこの知見は、生物が微視的スケールでエネルギーをやりくりする方法にも新たなヒントを与えるかもしれません。
実際、生体分子モーターなどの細胞内ナノマシンは熱ゆらぎを利用して動作していると考えられ、ランダムな揺らぎを巧みに整流することで高いエネルギー変換効率を実現している可能性があります。
今回の研究は、生命現象を含む微視的エネルギー変換の原理を深く理解するための一助となるでしょう。
さらに、この概念を人工のナノ・マイクロ機械に応用すれば、きわめて少ないエネルギーで動作する新しい「確率的熱機関」の設計につながるかもしれません。
たとえば、熱ゆらぎが豊富な環境で外部エネルギーをほぼ使わずに特定の仕事を遂行するデバイスが将来登場する可能性があります。
熱力学第2法則という不変の掟に対し、確率を武器にどこまで挑めるのか――その問いに向き合う研究は、これからも私たちに新しい驚きと理解をもたらしてくれるでしょう。
元論文
Probabilistic Work Extraction on a Classical Oscillator Beyond the Second Law
https://doi.org/10.1103/PhysRevLett.133.057101
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部