私たちが当たり前のように使っている「水」。
ところが、その一滴の中には水分子が数珠つなぎになって“ワイヤー”を作り上げるという、不思議な現象が隠れているかもしれないと聞いたら、どんなイメージが湧くでしょうか。
実は、水素結合によって分子同士が一直線に並び、あたかも電線のように電荷や情報を運ぶ「水のワイヤー」が、生命現象や化学反応を支える重要な存在だと長く考えられてきました。
しかし、その瞬間的かつ繊細な構造ゆえに、直接的な観測は困難を極め、実在を確かめる明確な手段は長らく“幻”とされてきたのです。
ところがアメリカのテンプル大学(Temple University)で行われた研究によって、水と氷の中に強く水素結合したワイヤーが存在する可能性が明らかになりました。
液体の水から氷に至るまで、一見同じに見える水の世界に奥深い秩序と連鎖が潜んでいる。
そんな神秘を解き明かす大きな一歩が、今回の研究で示されているのです。
科学界を驚かせる「水ワイヤー」とは、一体どのようなものなのでしょうか。
研究内容の詳細は『Physical Review X』にて発表されました。
目次
- “水のワイヤー”は本当にある?──長らく幻とされた理由
- 水ワイヤーはエネルギーや情報を運ぶ基礎になっている
- 水のワイヤーは生命・材料へのブレイクスルーにつながる
“水のワイヤー”は本当にある?──長らく幻とされた理由

私たちの身近にある水は、単に液体や氷として存在しているだけでなく、実は分子同士が幾重にも結びついて複雑なネットワークを形作っています。
その結び目となっているのが「水素結合」という力です。
この水素結合を介して水分子が一直線に並ぶと、“水のワイヤー”と呼ばれる鎖のような構造が生まれると考えられてきました。
ちょうど電線が電気を運ぶように、このワイヤーはプロトン(陽子)や電子などを効率的に伝える通路の役割を担うのではないかとも言われています。
なぜ「分子のワイヤー」がこれほど注目されるのかというと、生体や化学反応の場面でエネルギーや情報を運ぶうえで重要な仕組みとされているからです。
たとえば私たちの細胞内では、酵素や膜タンパク質によってプロトンを受け渡すプロセスが行われますが、その際に水のワイヤーが一時的に形成されると指摘されています。
分子同士が細長く連なることで、信号やエネルギーがスムーズに移動し、効率的な反応や情報伝達が実現しているのかもしれません。
とはいえ、この“分子レベルの電線”を直接見るのは容易ではありません。
液体の水では分子が絶えず動き回り、水素結合が切れたり再結合したりするため、特定のワイヤー構造が固定されにくいのです。
さらに氷の状態でも、わずかな乱れやプロトンの配列の違いによって、分子鎖の向きが崩れてしまいます。
しかも、従来の散乱実験やコアレベル分光では分子単体に焦点が当たりやすく、水素結合ネットワーク全体を正確に捉えるのは難しいとされていました。
そこで今回研究者たちは、多体理論を駆使した精密なシミュレーションと、短波長の真空紫外領域(8 eV付近)に近いエネルギーの光を用いた吸収分光法を併用し、水分子同士の電子と正孔(せいこう)のやりとりを詳細に調べることにしたのです。
実験データの一部は既存の成果も活用しつつ、新たな理論計算(GW-BSE法)を突き合わせることで、液体と氷でのワイヤー形成をより鮮明に描き出そうとしています。
水ワイヤーはエネルギーや情報を運ぶ基礎になっている

研究チームが挑んだのは、「エネルギーの高い紫外線(正確には真空紫外域に近い)を使って水の光吸収スペクトルを測定し、そこから水分子のワイヤー構造を見つけ出す」という方法です。
波長が極めて短い光を使うことで、水分子間のチャージトランスファー(電子と正孔の交換)を鋭敏に捉えることができます。
正孔は電子が抜けたあとに残る“穴”のようなもので、粒子と同じように振る舞いますが、水分子が一直線に並ぶと、これらの電荷が分子間を集団的にリレーしていくわけです。
また、GW-BSE法という先端理論を組み合わせることも大きなポイントでした。
多くの電子が互いに影響を及ぼし合う“多体効果”を正確に扱うことで、計算機上で水分子がどのように動き、どのように励起し合うかを詳細に再現できます。
そして、実際の光吸収スペクトル(新旧の実験データ)と理論計算を照らし合わせることで、液体から低温の氷に至るまでのあらゆる状態で、分子のワイヤー形成がどんなふうに進んでいるのかを読み解くことに成功したのです。
その結果、約8 eVという高いエネルギー領域で特に大きな吸収ピークが観測され、これは分子同士がチャージトランスファーによって集団的に励起している証拠だとわかりました。
氷の相になると、分子が秩序正しく並ぶために、この集団励起がいっそう強まります。
さらに低温下(80K程度)で安定する「氷XI(アイス・イレブン)」では、プロトンが整然と配列することで水分子の電気双極子が揃い、ワイヤーが長く連なるほど電子と正孔のリレーが促進され、いっそう強い吸収ピークが現れるのです。
なぜこれが革新的なのか。
それは水分子同士の関係を、単に“分子単位”ではなく、“ネットワーク”として一斉にとらえるのは従来難しかったからです。
しかし今回、紫外線での光吸収スペクトルからワイヤー構造が読み解けるようになり、水分子の連鎖を集団的な動きとして把握できる新たな視点が得られました。
これは生体や工学の分野で水が担う機能を再発見する上で、大きな一歩といえるでしょう。
水のワイヤーは生命・材料へのブレイクスルーにつながる

こうして示されたのは、水分子が単独で励起を受け渡すのでなく、ワイヤー全体で電荷の移動を“連携プレー”のように行っている可能性です。
分子が一直線に揃うほど電気双極子も整列しやすく、電子と正孔が結合した“エキシトン”の効果が強まります。
その結果、集団的な励起が顕著になり、観測される吸収ピークが大きくなるわけです。
一方、液体でも8 eV付近の吸収が確認されることから、動的に分子が動き回る中で、瞬間的にワイヤーが形成されているシーンが存在しているのかもしれません。
生体内でも、タンパク質の隙間や膜付近で、プロトン伝導を助ける一時的な「水の電線」が立ち上がっている可能性があります。
こうした視点から細胞レベルの化学反応やエネルギー伝達を見直すと、今まで以上に水の重要性が際立つはずです。
今後は、この水のワイヤーがどのくらいの長さで、どれほどの頻度で生まれるのか、温度や圧力、さらには生体環境などでどう変わるのかなど、解明すべき課題が数多く残されています。
しかし、光吸収分光と多体理論の組み合わせによってワイヤーの存在を直接示す道が開かれた以上、そうした疑問へのアプローチも一気に進む可能性があります。
人工材料の分野でも、水を通じて電荷や情報を効率良く運ぶ仕組みを応用できるかもしれません。
私たちが何気なく使っている水という物質には、まだまだ未知の力が秘められているのです。
こうして見ると、身近な水の中に存在するとされる“電線網”が、実は生命や材料科学の未来に大きなインパクトを与えうることがわかります。
今回の発見は、科学のさまざまな分野を繋ぎ、さらなるブレイクスルーを導く重要な鍵となりそうです。
元論文
Optical Absorption Spectroscopy Probes Water Wire and Its Ordering in a Hydrogen-Bond Network
https://doi.org/10.1103/PhysRevX.15.011048?_gl=1*1k8gugx*_ga*NDc0MDg5NTkwLjE3MjAzOTI3NTM.*_ga_ZS5V2B2DR1*MTc0MTc3NjM1MC45Ny4xLjE3NDE3NzY5NzEuMC4wLjEzOTMzMTIxNjM.
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部