もしも皆さんが、昨日のランチのメニューどころか、10年前のある日の天気や服装、隣にいた人の表情まで鮮明に思い出せるとしたらどうでしょうか。
それだけでも十分驚きですが、さらに「これから起きる未来の出来事」を、まるで体験済みの記憶のように鮮明に“予見”できるとしたら?
現在、フランスで暮らす17歳の少女「TL」(研究者による仮の呼称)は、まさにそんな特異な記憶力を持っています。
仏パリ・シテ大学(Université Paris Cité)によると、少女の症例は「ハイパームネジア(Hypermnesia)」呼ばれる極めて稀な超記憶力に属するとされています。
そして今回の研究では、TLが「記憶を整理する独自の心の部屋」と「未来をも鮮明に思い描ける能力」を兼ね備えていることが明らかになりました。
研究の詳細は2025年8月1日付で科学雑誌『Neurocase』に掲載されています。
目次
- 少女が過去を整理する「記憶の部屋」
- 未来の出来事まで鮮明に予見できる?
少女が過去を整理する「記憶の部屋」
TLは自分の記憶を「心の中の空間」に整理して保管しているといいます。
それは彼女が「白い部屋」と呼ぶ、天井の低い大きな四角い空間です。
この部屋にはファイルや棚が整然と並び、家族との思い出、休暇の出来事、友人との交流、さらには子どもの頃に集めたぬいぐるみまで、感情を伴った思い出がテーマごとに仕分けされています。
彼女は頭の中でその部屋を歩き回り、必要に応じて記憶を取り出します。
例えばぬいぐるみのひとつを思い浮かべると、それを「誰から」「いつ」もらったのかという詳細なエピソードまで一緒に呼び覚ますことができるのです。
この「白い部屋」の記憶は、ただの事実の羅列ではありません。
そこには当時の感情や景色の色合い、天候や服装といった五感の記録までもが封じ込められています。
彼女はそれらをまるで現在進行形のように再体験することができ、ときには当時の自分の視点から、ときには外部から眺める観察者の視点からも同じ出来事を見直すことができます。

一方で、学校で学んだ知識や事実は「黒の記憶」として別の領域に分類されます。
こちらは感情や具体的な映像を伴わず、教科書的な情報の集積にすぎません。
つまり彼女の心の中では、「感情を伴う鮮烈な記憶」と「意味だけの知識」がはっきりと区別され、異なる部屋に整理されているのです。
さらにTLは、記憶の中でも特に重い感情を伴うものを、専用の「感情の部屋」に隔離する工夫もしていました。
祖父の死の記憶は「感情の部屋」の中の箱にしまわれ、他に、怒りを鎮めるためには「流氷の部屋」を、問題に向き合うためには「問題の部屋」を利用するといいます。
また父親が軍に入ったときには、心の中に「兵士の部屋」が生まれたと語りました。
このようにTLの記憶世界は、単なる出来事の保管庫ではなく、感情や自己理解のための「心的建築物」として機能しているのです。
未来の出来事まで鮮明に予見できる?
研究者たちはTLの能力を客観的に測定するために、標準化されたテストを実施しました。
そのひとつ「エピソード自伝的記憶テスト(TEMPau)」では、人生のさまざまな時期の出来事をどれだけ具体的に思い出せるかを評価します。
彼女の年齢に合わせて幼少期と青年期に限定して行われましたが、得点は平均をはるかに大きく上回り、極めて豊かな記憶描写を示しました。
さらに「時間拡張自伝的記憶課題(TEEAM)」では、過去や未来の出来事を短いエピソードとして思い出したり想像したりする力を調べました。
TLはここでも驚異的な成績を収めました。
特に注目されたのは、彼女が未来の出来事を「まるで体験済みであるかのように」語れる点です。
例えば彼女は、まだ起きていない未来の出来事について、時間的・空間的・感覚的にきわめて詳細な描写を加えました。
そこには「予体験」と呼ばれる独特の感覚が伴っており、まるで過去を思い出すのと同じように未来を“先取り”して体験しているようだったのです。
(※ 彼女は未来を当てれるわけではありません。私たちも未来の出来事を想像することがありますが、TLの場合は、その出来事が鮮明な感情や知覚を伴って現れるため、さも現実に起こったかのように体験してしまうのです)

もっとも、時間的にかなり離れた遠い未来に関しては一般の人々と同じように鮮明さが低下する傾向が見られました。
時間的距離が大きいほど、イメージがぼやけてしまうのです。
それでもなお、彼女の「心的時間旅行」の能力は突出しており、研究者たちを大いに驚かせました。
この症例は、私たちが未来を想像するときに用いる脳の仕組みが、過去を意識的に思い出すときと共通している可能性を示唆しています。
そしてTLの場合、そのプロセスが並外れて鮮明かつ意識的に制御されているのです。
TLの症例は、記憶が単なる情報の集積ではなく、感情や自己意識、未来の予見にまで結びつく複雑なシステムであることを浮き彫りにしました。
これまでのハイパームネジアは、多くの場合「記憶の洪水」に苦しむものと考えられてきましたが、TLはむしろそれを整理し、ある程度コントロールできている点でユニークです。
彼女の「心の部屋」や「未来の予体験」は、記憶と感情、想像力の結びつきを理解する上で新たな手がかりとなるでしょう。
参考文献
Mental Time Travel: A New Case of Autobiographical Hypermnesia
https://parisbraininstitute.org/news/mental-time-travel-new-case-autobiographical-hypermnesia
Teenager with hyperthymesia exhibits extraordinary mental time travel abilities
https://www.psypost.org/teenager-with-hyperthymesia-exhibits-extraordinary-mental-time-travel-abilities/
元論文
Autobiographical hypermnesia as a particular form of mental time travel
https://doi.org/10.1080/13554794.2025.2537950
ライター
千野 真吾: 生物学に興味のあるWebライター。普段は読書をするのが趣味で、休みの日には野鳥や動物の写真を撮っています。
編集者
ナゾロジー 編集部