石器時代仕様の身体 vs 工業化した世界
車の騒音、ネオンの光、排気ガス、そしてスマホの通知音、それらは多くの人にとって当たり前の景色ですが、進化の歴史から見ると、これは人類にとって「つい最近でてきたばかりの非常に特殊な環境」です。
人間の身体は、およそ20万年以上にわたる狩猟採集生活を通してつくられてきました。
日中は風や土の匂いの中を歩き、夜は真っ暗な環境で休む、仲間の顔を見ながらコミュニケーションを取り、自然のリズムに合わせて生活する。
このような環境に合わせて体温調節や免疫の動き、ストレス反応の仕組みは少しずつ整えられてきたのです。
ところが、産業革命から現代に至るまでの数百年で、世界は急激に変わりました。
特に第二次世界大戦後には、化石燃料の利用、プラスチック製品の普及、高層ビルの建設、24時間動き続ける大都市が一気に広がりました。
研究チームは、この「急加速した世界」を“Anthropocene(人新世)”と呼ばれる新しい時代の象徴として位置付けています。
私たちは今、自然の環境よりも人工物に囲まれた空間で長い時間を過ごし、夜でも街灯や室内の光で昼のような明るさにさらされています。
このような人工的な環境は、人間の体にさまざまな「見えない負荷」を与えていると研究チームは示しています。
大気汚染は肺だけでなく、炎症反応を通じて全身の健康に影響を及ぼします。
夜の明るい光は、体内時計を調整するメラトニンというホルモンの分泌を妨げ、睡眠の質を低下させます。
農薬やプラスチック由来の化学物質は、微量でも長期的にはホルモンの働きを乱す可能性があります。
また、現代の生活は自然の中に多く存在する細菌や微生物と触れ合う機会が減るため、免疫の発達にも影響が出ることが指摘されています。
そこで研究チームは、これまで発表されてきた多くの研究を詳しく見比べ、工業化や都市化が人間の生殖・免疫・認知・体力・ストレス反応にどのように関わっているのかを分析しました。
その中でも特に顕著なのは、生殖機能への影響です。
世界中で出生率が低下している背景には、経済状況だけでなく、化学物質や大気汚染などの環境要因が、精子の数や質、ホルモンの働きに影響を及ぼしている可能性が示されています。
さらに、免疫機能と認知機能にも興味深い傾向があります。
都市部では緑地や自然に触れ合う機会が少ないため、感染症やアレルギー、炎症性の病気が増えやすいという報告があります。
騒音や人工の光は脳の働きにも影響し、注意力や記憶の維持が難しくなる場合があります。
体力面では、外で身体を動かす機会が減った結果、子どもから高齢者まで持久力や筋力が低下しやすいことも示されていました。
そして研究チームは、生殖や免疫などの機能を横断して悪影響を及ぼす要因として、ストレス反応の「過剰作動」にも大きな注意を向けています。
本来、ストレス反応は危険から身を守るために短時間だけ働く仕組みです。
しかし現代では、騒音、光、仕事の締め切り、SNSの通知、世界中のニュースなどが絶え間なく続く刺激となり、ストレス反応が一日中ONのままになりやすい状況が生まれています。
これによりホルモンバランスや睡眠が乱れ、免疫の働きが低下し、体調全体が不安定になりやすくなると考えられています。
研究チームは、テクノロジーの進歩によって生活の利便性が高まった一方で、人間の身体が本来想定している環境とのあいだに大きなズレが生じ、その結果として心身の負担が増えている可能性を指摘しています。
現代人の生きづらさの背景には、テクノロジーの進化と身体の進化の速度差が生んだ、大きなギャップが横たわっている可能性が高いのです。
心を病む人が多いのも、進化的なミスマッチ?
私たちの体には、危険から瞬時に身を守るための「ストレス反応」が備わっています。
森の中でライオンに遭遇したと想像すると分かりやすく、体は一瞬で心拍数を上げ、血圧を高め、筋肉に大量の血液を送り込みます。
これは、走って逃げるか、戦うかの判断を数秒以内に行うための非常に古い防御システムです。
このストレス反応は、単なる気持ちの問題ではなく、行動、ホルモン、生理状態、そして遺伝子の発現レベルに至るまで、多段階で調整されたシステムです。
このシステムが存在することで、人間は“瞬間的に生じた命の危険”に対してすばやく反応できるよう進化してきたと考えられています。
当然、このシステムは、本来「瞬間的な危機」に対処するためのものです。
ところが、車や工事の騒音が途切れず、SNSやメールの通知が絶え間なく続く現代社会ではこのストレス反応が一日に何度も起動してしまいます。
さらに、世界のニュースが常に流れ込み、遠くの紛争や災害の情報まで私たちの心を刺激します。
こうした小さな刺激の積み重ねは、身体にとって“常にライオンが出てくる世界”と変わりません。
ストレスホルモンが長く高い状態になると、体は休息のリズムを保てなくなり、睡眠が浅くなります。その結果、体内時計が乱れ、免疫の働きが弱まり、炎症が続きやすい状態になります。
こうした影響が蓄積すると、気分や意欲、集中力を支える神経の働きにも負荷がかかり、日常の小さな出来事でも疲れやすくなることが知られています。
今回の研究はうつ病を直接扱ったものではありませんが、慢性的なストレスがメンタルヘルスと深く関わることは、多くの独立した研究で示されています。
研究チームは、産業革命以降の期間は進化のスピードから見るとまだ非常に短く、「都市環境に完全に適応した遺伝的変化」が起きているとは考えにくいと述べています。
そのため、「自然選択に任せていればいつか慣れるだろう」と期待するのではなく、今生きている私たちの健康を守るために、環境のほうを整える必要があると指摘しています。
研究チームが強調しているのは、「環境側を人間に合わせてデザインし直すべきだ」という考え方です。
具体的には、緑地や自然に触れる機会を増やし、大気汚染や騒音、光害などを減らし、都市や職場の設計を身体に負荷の少ないものへと変えていくことが提案されています。
人間の体を“自然環境で動くことを前提に設計された機械”とするなら、現代社会はその前提から外れた入力──強い人工光、絶え間ない騒音、大気汚染、膨大な情報刺激など──を一度に流し込む環境になっています。
その結果、身体の中で“設計から外れた刺激に弱い部分”が複数のシステムに同時に負荷を受けやすくなり、睡眠、免疫、ストレス反応、生殖などがそろって不調の方向へ傾くという構造が生まれます。