SNSで「いいね!」を集めるのは、ただの自己顕示なのか?
それとも「承認欲求が強い」からでしょうか?
現代の私たちは、日常的に「承認欲求」という言葉を耳にします。
SNS上で自分の投稿に反応がほしい、フォロワーを増やしたい、誰かに認められたい――そんな思いは、ごく当たり前の感情に思えます。
ところが、この「承認欲求」という概念が本当に存在するのかと問われると、意外にも答えは複雑です。
実は、承認欲求という言葉が盛んに使われるようになったのはごく最近のことであり、その背後には人類史の闇とも言える「血塗られた歴史」が深く関係しているのです。
今回のコラムは、あえて「承認欲求は存在しない」というタイトルから、人類の狩猟採取時代にまでさかのぼり「仲間殺し」という驚くべき死因がいかに私たちの脳を変えてきたかを探っていきます。
実は、仲間に殺されるリスクを回避するために、私たちの脳は噂話や他者評価に過剰に敏感になり、それが現代のSNS環境と結びついて“承認欲求”や“異常な攻撃性”として表出しているのです。
なぜ人はSNSで自分のしたことを積極的にアピールし、誹謗中傷に熱中してしまうのか。
なぜSNS上での評価をこんなにも求めてしまうのか――その答えを知れば、あなたの「承認欲求」観が大きく変わるかもしれません。
目次
- 承認欲求は存在しない
- 仲間殺しが人類にもたらした進化
- 承認欲求は「脳の誤作動」であり、SNS上の異常な攻撃性も同じく誤作動
- 承認欲求を知らない神様の物語
承認欲求は存在しない
承認欲求はSNS普及後に認知されるようになった
あなたは日常のなかで、「承認欲求」という言葉を耳にしたことがあるでしょうか。
「SNSに疲れた」「いいね!が欲しい」「もっと自分をわかってほしい」など、私たちの周りには「承認欲求が強い人」という評価が溢れています。
もしかすると、「自分も承認欲求が強いかも……」と心当たりがある人もいるかもしれません。
ところが、この「承認欲求」という言葉が、実はごく最近になって日本や海外でも多用されるようになったものだと聞いたら、驚く方も多いのではないでしょうか。
もちろん「他者から認められたい」という概念自体は、古くから人間の営みのなかに存在します。
例えば、アルフレッド・アドラーの「劣等感と優越コンプレックス」や、マズローが唱えた「尊重(esteem)の欲求」など、学問の世界では何度も研究されてきました。
しかし、これらはもともと一部の専門家だけが使う高度な用語でした。
現代のように、一般人が日常会話やSNSで「承認欲求」というキーワードを当たり前のように使うのは、ここ数年~10年程度の新しい現象なのです。
しかしなぜこんなに急速に「承認欲求」という言葉が流行し、誰もが当たり前のように使う時代がやってきたのでしょうか?
今回のコラムのタイトルは「承認欲求は存在しない」という刺激的なものですが、決して単に「言葉だけ」を否定しようとしているわけではありません。
なぜ現代になって「承認欲求」という言葉がこれほど広まったのか――その背景には、実は人類が歩んできた“血塗られた歴史”が大きく関わっています。
人類の血塗られた歴史
話しを進める前に、私たち人類がたどってきた過去を振り返りたいと思います。
狩猟採取の時代、人類は小規模な集団(多くは数十~数百人)を単位として生活していましたが、近年の考古学や人類学の研究によって、そのような小さな規模の集団であっても、仲間同士での殺人率が非常に高かったことが、明らかになっています。
たとえばKeeley, L. H. (1996)らが発表した研究では、考古学的証拠から「先史時代の社会が決して平和ではなかった」ことを示し、狩猟採取民でも激しい争いや殺人が日常的に行われていた可能性を指摘しています。
またBowles, S. (2009)らが発表した研究ではさらに踏み込み、仲間殺しが人間の社会的行動や人間の進化そのものにも影響を与えた可能性について言及しています。
さらにいくつかの研究では仲間による殺人率は死因の15%にも上った可能性が示されています。
これらの研究が示唆するのは、人間の死亡要因において仲間による殺害が非常に大きいウェイトを占めており、それが進化の道筋にまで影響を与えていたことを示しています。
では「なぜそんなに人は人を殺していたのでしょうかか?」
主な要因には、縄張り争いや食料・資源の奪い合い、あるいは群れ内での序列・嫉妬などがあったと考えられます。
警察など犯罪者を捕らえる仕組みが存在しない社会では、殺人の動機を抑える足かせは現代社会に比べてずっと軽いものだったのでしょう。
この悲惨な歴史は農耕社会になっても引き継がれました。
普通ならば農耕によって食料が安定し、飢えの恐怖から解放されれば、人々はもう少し穏やかになるのではないか――と考えたくなるかもしれません。
しかし、考古学・人類学の知見は、むしろ農耕時代になって殺人率がさらに上昇した地域が少なくないことを示しています。
豊富な食料を蓄えるようになると、富や土地の所有をめぐる対立が生じ、組織化された暴力が増える方向に働いた可能性が指摘されているのです。
Wrangham, R., & Peterson, D. (1996)らの研究ではチンパンジーと人間社会の比較から、農耕の開始が集団の拡大と資源独占を促し、新たな形の暴力を助長するシナリオを論じています。
またPinker, S. (2011)らの研究でも、近代以降、長期的には暴力が減少しているという大局的見方を示しながらも、先史〜中世の段階では一部地域で非常に高い殺人率が継続していたことを多面的に分析しています。
研究によっては「条件によっては5人に1人が野生動物でも飢餓でもなく、仲間の手によって殺されていた」とする推定データも示されています。
もちろん地域や時代に差があるものの、人類史がいかに“血塗られた”ものであったかを想像するには十分な数字でしょう。
これらを総合すると、狩猟採取時代に高い殺人率を示した人類は、農耕時代の到来によっても必ずしも「殺し合い」をやめる方向には進まなかったことがわかります。
ここで、生物進化の一般的な原則を振り返ってみましょう。
一般的に生物は、その死因に適応して生き残るために進化します。
もしある生物種の最大の死因が「栄養不足」ならば、彼らは基礎代謝の低下や脂肪蓄積システムの効率化を進化させるかもしれません。
逆に主要な死因が「外敵に襲われること」ならば、分厚い皮膚、強固な骨格、または非常に速く走る脚などを獲得する方向に進化するでしょう。
つまり生物は、自分を多く殺すものから逃れるように形質を変化させ、生存率を高める傾向があるのです。
では、人類の場合はどうだったのでしょうか?
もしあ私たちの種族(人類)が、飢餓でもなく、猛獣でもなく、「仲間」によって殺されるリスクが高いという現実を突きつけられたら――いったいどんな進化を遂げるでしょうか?
次のページは、この問いかけに対する人類の答えとも言える進化の道筋を追いつつ、承認欲求の謎にも迫っていきたいと思います。
仲間殺しが人類にもたらした進化
もし「仲間殺し」が主要な死因の1つであれば、私たち人類はどんな進化を遂げるのか?
私たちの体を見てわかるように、人類は分厚い皮膚や素早い脚を手に入れていないのはわかります。
代わりに私たちは「噂話や悪口の共有」という特殊な方法を発達させました。
単なるゴシップ好きが進化の結果とは信じがたいかもしれません。
ところが、霊長類学や進化心理学の研究からは、人間のゴシップ行動がサルの“毛づくろいに相当する“社会的な絆づくりに大きく寄与していたという見解が示されています。
たとえばDunbar, R. (2004)らの研究では、ゴシップは単なる悪口や興味本位の噂ではなく、集団内で誰が信用できるのか、誰が危険人物なのかを素早く把握するための「情報交換システム」だったと論じており、人間の会話のうち大部分(研究によっては約6~7割にも及ぶ)が、噂話や評判・他人の話題に費やされる可能性があることを示唆しています。
人間の高度な言語能力は情報交換や概念の形成のために進化してきた高尚なツールだと思われてきましたが、この比率をみれば、決してそのような目的が主眼ではなかったことがわかります。
(※もちろん言語には知的ツールとしての側面もありますが、それ以外の用途のほうに大きく情報量を割いている状態にあります)
では何のために人類はゴシップや悪口にここまで力を注ぐのでしょうか?
研究者たちは、ゴシップを共有することで「あいつは仲間を裏切りそうだ」「あの人は集団に貢献してくれる」といった情報がグループ内を素早く回り、排除すべき相手を決めたり、協力すべき相手を判断したりするメリットがあったと述べています。
これは直接的な武器で戦うよりも、周囲の合意を得ながら安全に相手を追い詰める戦略といえます。
狩猟採集社会では、食料資源や縄張りをめぐって、誰が裏切り者か、誰が敵に通じているかが死活問題でした。
ですがそれを正面きって戦うのはコストがかかりすぎます。
それに警察など存在しない狩猟採取時代と言えども、根回しも何もせず気に入らない相手を感情の赴くまま殺したとあっては、自分が危険人物とみなされてしまいます。
そのためリスクの高い単独犯を避けるために噂を広め賛同を得て、集団で排除するプロセスが進化したと考えられます。
ゴシップを巧みに使い、「あいつは危険人物だ」と周囲に信じ込ませれば、安全に排除を進められます。
簡単に言えば、噂と悪口を使って水面下で動くわけです。
そうすると場合によっては自分が手を下さなくても、噂に踊らされた誰かが代わりに「排除」を実行してくれるかもしれません。
こうした社会的繋がりや排除の手法は、人類の行動進化に大きく寄与しました。
戦闘能力や敏捷性のみならず、いかに賛同者を得るか、情報操作を行うかが生存に不可欠だったのです。
一方、仲間殺しが主要な死因となっている世界では、噂話や悪口の対処を上手くできない個体の遺伝子は排除されていきました。
結果として人類の脳は「仲間に殺されないためには常に噂話や悪口に注意を払う」ように進化することになります。
Lieberman, M. D. (2013)はその著書において、人間の脳が他者との関係や社会的つながりを非常に重視するように作られている事実を数多く示しています。
この著書では、赤ちゃんが言葉を話せない段階から、他者とのコミュニケーションや関係づくりに深く取り組むことに着目し、これは単なる好奇心ではなく、「群れの中で保護され、生存する」ための本能だと述べています。
人間は生まれた直後から仲間殺しから逃れるための「訓練」をはじめていたというわけです。
また著書では脳の大部分が社会的なつながりに敏感に反応すること指摘。
従来は高等な思考を司る領域こそ人間の核心と見なされがちでしたが、実際には社会的認知のためのシステムが思った以上に広範囲を占めているのです。
人間の脳もまた仲間殺しから逃れるため社会的つながりに敏感になるようにプログラムされていたということでしょう。
さらにLiebermanは、社会から排除されること”は脳にとって身体的痛みと同様に深刻なストレスになると主張します。
SNSなどで誹謗を受けたり無視されたりしたときに、まるで身体的傷害”のような苦痛を感じるのは、脳が「仲間外れ」を生存の危機と見なしているからです。
「では、人間はお互いの痛みを理解し、優しくなったのか?」といえば、必ずしもそうではありません。
多くの事例で証明されるように、私たちは「排除する側」に回ることで、自分への攻撃を避けようとする傾向も強く示します。いわゆる「いじめられるより、いじめる側に回ったほうが安全」という理屈です。
脳の配線を大規模にリプログラムして仲間殺しをしない聖者の集まりのような種に進化するよりも、殺されない側につく能力を進化させたほうが「安上がりかつ合理的」だったからです。
現代においても仲間外れにされる恐怖から、人間の脳は「むしろ率先して誰かを叩く」「噂で糾弾する」ことに悦びを感じるのは、狩猟採集の時代に、殺人の標的にならないために「どっち側につくか」が生死を左右していた名残とも言えるでしょう。
さらに脳科学的にも興味深い証拠があります。
いくつかの研究では、ゴシップが単なる情報交換で終わらず、脳内の報酬系(ドーパミン回路など)を刺激することが明らかになっている点です。
Feinberg, M., Willer, R., & Schultz, M. (2014)らの研究では、ゴシップ(噂話)と“仲間はずし”が協力行動を高めるメカニズムを実験的に示し、悪い噂を共有することが集団全体の秩序を維持するための進化的手段になり得ると主張しています。
またゴシップや他人の秘密を話すとき、人間の脳は快感をもたらす物質を放出しやすいという報告があります。
仲間殺しの多かった時代において、危険人物を特定する情報を交換することが、脳にとって“ご褒美になっていた可能性があるわけです。
こうした仕組みを考えれば、「なぜ人は悪口や他人の噂に引き寄せられるのか」「他人のスキャンダルを共有するとなぜ楽しく感じてしまうのか」も説明がつきます。
仲間に殺されないために必須の情報をやり取りできれば、脳がプラスの報酬を与えてくれるというわけです。
さらに最新の脳研究では、人間の脳の進化の原動力が他人との関係性を模索するために行われた可能性すら指摘しています。
私たちが“ぼんやりしているとき”に活性化するDMN(デフォルト・モード・ネットワーク)が、実は他者や自己を思考するときに大きく働くことを示しています。
つまり何もしていないときであっても、人間の脳は自分と他者の関係を無意識に考え続けているのです。
「人間は厳しい自然環境を生き抜くために知能を発達させた」とよく言われますが、実は“仲間から攻撃されないための方策”のほうが知能進化において重要だったのかもしれません。
「人間はパンツを履いたサル」という比喩は有名ですが、いま話してきた観点からこの比喩を更新するとすれば、人間は「噂をするサル」あるいは「仲間を殺しまくるサル」と言っても過言ではないでしょう。
それほどまでに人類の進化を牽引した要素が「仲間殺しからどう逃れるか」に集約されているというのは、一種の恐怖を感じる事実でもあります。
なお余談ですが聖書に出てくる「知恵の実を食べた人間は、すぐに兄弟殺し(カインがアベルを殺害)を行った」という物語も、人類が知恵を得たと同時に仲間を殺すようになる過程を暗示しているようにも見えます。
もしこのエピソードが作者の思い付きの産物ではなく、知恵が芽生えたゆえに、仲間との争いが熾烈化し、殺人が連鎖するという人類進化を暗示していたとするなら……(ありえないことですが)足元が冷える思いをします。
最後に、この仲間殺しへの適応がどれほど具体的に脳を変えたかを示す指標として、ダンバー数に触れておきます。
ダンバー数という概念は、霊長類学者のロビン・ダンバーが提唱したもので、人間が安定した社会関係を維持できる人数の上限がおよそ150~200人程度だという仮説です。
これは、脳のネオコルテックス(新皮質)の大きさが、群れのメンバーを記憶し把握すると同時に、複雑な人間関係を処理する能力と相関しているという考え方に基づいています。
簡単に言えばチンパンジーよりも人類の群れが大きいのは、新皮質がより大きいからとなります。
人類の新皮質は非常に巨大なため、かなり大きな群れをつくることができます。
しかしそれでも限界があります。
人類でも、友人同士の付き合いや、誰が信頼できて誰が危険かといった情報を共有する際、150~200人を超える規模になると、一人ひとりの状況を正確に追いかけるのは脳のキャパシティ的に難しくなってしまうことが知られています。
この数に決まった背景のもう1つには、人類の進化史のほぼ99%を占めるといわれる狩猟採取時代には、実際に集団規模が150~200人を大きく超えることはなかったのではないかという推測があります。
狩猟採取の生活では、あまりに大きな集団を維持するには食料を確保するのも移動するのも不利になるため、一つの群れが150~200人程度に落ち着いたと考えられるのです。
このように考えると、ダンバー数が示す“脳の限界”は、人類が長い歴史の中で培ってきた社会的な認知能力と深く結びついているといえます。
また、ダンバー自身は150~200人という目安の周囲に、さらに親密度ごとに分かれた複数の階層があると主張しています。
たとえば、親密に連絡を取り合うのは5人程度(家族・親友クラス)、少し距離があるが深い関係を継続できるのは15人程度、なんとか顔を覚え、時々連絡をとるのは50人程度、名前と顔が一致し、ある程度の情報を共有できるのは150人程度、その先の500人・1500人という段階には「知人」「名前だけ知っている」などの薄い層が続く……といった具合に、脳の処理能力によってレベル別にグループが区切られている、と言われます。
このダンバー数に関してはSNS上の関係も当てはまっており、人間がSNS上で活発な交流を維持できる範囲もまた150~200人に限られていることが報告されています。
もちろん数値の限界値には個人差があります。
しかしどんなにコミュ力に自信がある人でも「親密に連絡を取り合う1万人の親友」や「性格を完全に把握できる10万人の友達」を持つことはできません。
たとえ時間が無限にあったとしても、脳の能力的に不可能なのです。
さて、ここまでは人間の脳が“噂話”や“他者評価”を最優先する仕組みを持つに至った背景を見てきました。
仲間殺しから逃れるため、そして周囲と“噂”を介して連携するため――その進化が脳のデフォルト機能を形作っているのです。
ところが現代、私たちの目の前に出現したSNSは、数百万~数億人レベルの繋がりを一気に実現させてしまいました。
150~200人の群れを前提に設計された私たちの脳が、この“巨大な社会ネットワーク”と出会うと、何が起こるのか?
いよいよ承認欲求の正体が暴かれます。
承認欲求は「脳の誤作動」であり、SNS上の異常な攻撃性も同じく誤作動
人類の原始的な脳はSNSを想定していない
前のページで述べたように、人類の脳は“ダンバー数”と呼ばれる150~200人程度の小規模集団を前提に最適化されてきました。
そこでは噂話やゴシップを駆使しながら「誰が危険か」「誰を排除するか」を見極め、殺されるリスクを減らすために自分の存在意義を示し、仲間から外されないようにしていたわけです。
ところが現代、私たちの生活圏に登場したSNSは、数千万、あるいは数億人が同時に利用する世界規模の超大規模ネットワークです。
例えば、X(旧Twitter)の国内ユーザー数は6700万人を超えると推計されます。
Instagram、TikTok、YouTubeなども膨大な登録者数を抱え、SNSを通じて瞬時に膨大な人数と繋がることが可能になりました。
問題は、人間の原始的な脳が、SNSに映し出される無数の人々を“自分と同じ群れの仲間”と誤認し脳がある種の混乱状態になってしまうことです。
ダンバー数をはるかに上回るSNS空間を、脳が「膨張した狩猟採集集団」として扱おうとするため、誤作動が起こります。
たとえば「自分は殺される側に回りたくない」という無意識がいい例でしょう。
SNS上で否定的なコメントや攻撃的投稿を目にすると、「次は自分がターゲットになるかもしれない」という漠然とした恐怖が脳にこみ上げます。
その不安を打ち消すため、人々はSNS上に「美味しい食事をした」「素敵な場所に行った」「友達との楽しい時間」など、自分の魅力・価値を示す投稿を行い続けます。
美味しい食事や素敵な場所を紹介したいと思う心理が無いとは言いません。
しかしこれらの投稿の本質は、極言すれば自慢あるいはアピールであり、現在の私たちはこれを承認欲求のために行っていると表現します。
しかしこれまでの話を総合すれば、このような承認欲求は、自らの価値をアピールを通して殺されないために自分を証明する古代的処世術が、SNSという新しい舞台で行われていると解釈できます。
つまり、現代の人類が「承認欲求」と呼んでいる現象は、脳が想定以上に大きな集団(SNS)に接した結果、自分の存在意義を常に示さなければ排除される(=殺される)と無意識下で考えてしまうことに起因します。
言葉を変えれば「承認欲求」は古くから議論されてきた「社会的欲求」の現代版ラベリングに過ぎないのです。
狩猟採集時代には自分が役立ち・優位性・有用性を訴え、仲間内での地位を確保するのにそこまで苦労はしませんでした。
150~200人程度の集団では誰もが顔見知りであり、毎日のように自己アピールをしなくても自分の価値を周知させ、脳を安心させることができます。
しかしSNSの世界には場合によっては数億人もの集団であり、自己アピールを無限に続けなければ、脳は安心することはできません。
もし巨大な災害や戦争などで人類の集団規模がふたたび150~200人ほどにまで縮小すれば、今ほどの「承認欲求ブーム」は起こらないでしょう。
世界全体が狩猟採集時代さながらの小集団に戻れば、一人ひとりの行動は必然的に互いにリアルタイムで共有され、SNSで必死に自己開示する必要がなくなるかもしれません。
炎上は「攻撃する側に回りたい」という本能のせい
SNSにおける炎上や誹謗中傷、集団攻撃などの現象も、同じ構造で説明がつきます。
人類の原始的脳は「殺されるより殺す側に回るほうが安全」という思考回路を優先しがちです。
そのため無意識的にSNSを徘徊して「殺される側となり得そうなターゲット」を探すようになってしまいます。
自分の代わりに生贄になってくれる誰かがいれば、脳は偽りの安心感を得ることができるからです。
「自分はそんな酷い人間ではない」と思うでしょう。
しかし炎上という現象を分析すれば、それが真実味を帯びてきます。
SNSではしばしば炎上と呼ばれる現象が起こると、炎上している人物について全く関心がなかった人でも、異常な攻撃性を示すようになります。
これも脳の奥底には「自分は攻撃する側に回ることで安全を得ている」という原始的な安心感がうまれるからです。
巨大なSNSの中ではいつ自分が攻撃のターゲットとされるかわかず原始的な脳は混乱して不安になります。
炎上は自分の代りに集団から排除される人間を手っ取り早く発見し、自分を安全な殺す側に置いてくれる……と脳は錯覚します。
炎上している相手を攻撃している間だけは、安全を買えると脳が誤解し、ときには報酬物質を脳に分泌してくれます。
もちろん、炎上している人物や団体を叩くとき、SNSユーザーは「正義感」や「倫理観」を理由にするかもしれません。
しかし多くの場合、次に殺されるのは自分かもしれないという無意識かつ本能的な恐怖をかき消すために攻撃する側に回る心理が潜在的に働きます。
これこそが、SNS炎上で“関係ない人”が大量に参戦し、過熱する要因でもあるわけです。
脳の誤作動に振り回されないために
こうしてみると、「承認欲求」も「SNS炎上」も、その根底には人類が仲間殺しの危険を回避するために練り上げた処世術があるように思えます。
たしかに近代以降、法律や社会制度が整い、昔のように簡単に人を殺すことは大幅に減りました。
しかし脳の本能は何十万年という狩猟採集の時代からアップデートされておらず、SNSという新環境で大きく誤作動しているわけです。
SNSを「自分の小集団」と錯覚し、必死に自己アピールし(承認欲求)、同時に他者を攻撃し(殺す側に回る)報酬物質を分泌してしまう――この一連の流れが、私たちが言う「承認欲求」や「SNSの異常な攻撃性」という現象を生み出しているのです。
SNSがもたらす情報革命は、確かに多くの利点と社会的進歩を約束します。
しかし、脳の想定を超えた巨大なネットワークが、承認欲求をさらに増幅し、攻撃性を剝き出しにする可能性をはらんでいることを私たちは自覚する必要があります。
最終的に私たちが目指すのは、脳が本来もつ原始的な防衛反応を理解し、それをうまく飼い慣らす術を身につける――それこそが、現代社会を生きる上で求められる新たな知恵なのかもしれません。
また社会的ポジションと脳の混乱は、人間のSNS上での行動を解釈するためのマスターキーになる可能性があると言えます。
さて次のページでは今回の話を1つのSF風の物語にまとめてみました。
時間があったなら、ぜひ楽しんでください。
承認欲求を知らない神様の物語
はるか太古。
神様は大宇宙の片隅にある、地球によく似た惑星を造り出した。
空には二つの小さな月があり、豊かな海と陸地がその星を潤す。
神様は愛情を込めて、そこにさまざまな生物を生み出した。
年月が流れ、進化の果てに知的生命体が誕生する。
彼らは自らを「ベータ」と呼んだ。毛皮をまとい、四肢で大地を駆け、やがて道具をつくり、集団で狩りをするようになった。
ベータたちは初め原始的な狩猟採集生活を営んでいた。
肉食動物のような鋭い牙こそ持たないが、互いを攻撃することは日常茶飯事。
彼らの大きな死因の一つが「仲間の攻撃による殺害」だった。
人間の歴史で言われるように、死亡理由の15%が仲間同士の衝突に起因していたのである。
「我が子を奪われた復讐だ」
「おまえの獲物を横取りしているのを見た」
「違う、これは俺たちの狩り場だ!」
ちょっとした揉め事から、たやすく血を見る事態へと発展する。
そこでベータたちは集団を小規模に保とうとした。1グループにつき150〜200匹ほどで構成し、地形に合わせて狩りや採集を行う。
人間が“ダンバー数”と呼ぶものに近い。彼らの脳も、この集団数に合わせて情報をやり取りするように進化を遂げていた。
神様はそんなベータたちを見つめ、思案する。
「どうすれば彼らは殺し合いをやめるのだろうか。そうだ、十分な食料があれば、争いの原因も減るはず」
そう考えた神様は、豊潤な大地を作り出し、ベータたちが農耕を行えるように導いた。作物の種を授け、季節に応じて大地に恵みをもたらす。
ベータたちは戸惑いながらも、新しい生活に慣れ始めた。
森林を切り開いて畑を作り、川から水を引き、収穫物を蓄える。食料が安定すれば、腹を空かせて他者を襲うことも減るだろうと神様は期待した。
しかし、その望みは見事に裏切られる。
農耕生活が始まるとむしろ、彼らの内部での殺人率は20%に増加してしまった。
「土を耕すだけでは、彼らの攻撃性は変わらないのか…」
神様は嘆いた。食料が安定することで逆に人口が増え、集団間の利害対立が複雑化し、土地の占有や富の奪い合いが激化してしまったのだ。
そこで神様は、彼らの技術力を高めようと試みる。
畑が豊作になるよう気候や農作物の性質を調整し、結果的に余裕が生まれたベータたちは道具や建築技術を進歩させた。
こうして集団は都市へと発展し、交易が行われ、初歩的な法体系が生まれ始める。
神様は「法があれば殺人は減るだろう」と期待する。
しかし現実は甘くなかった。
都市部では集団がさらに巨大化し、富や権力をめぐる闘争はいっそう苛烈になった。
法が整備されたとしても、権力者や富裕層同士の対立は絶えず、近代に入った人間社会と同様に、殺人の比率は劇的には減らなかったのである。
(※参考までに、現実の地球でいえば、近代国家の成立後も全世界的な他殺率は数%程度と言われる地域が多数あり、国や時代によってはさらに高い殺人率を示す所もあった。人間同士の戦争や内紛も含めれば、その総計は計り知れない。)
神様が見守る中、ベータの社会でも“農耕”と“技術発展”が、必ずしも彼らの攻撃性を抑止する方向には働かなかった。
神様は再び頭を抱える。
「どうすれば、この争いを減らし、ベータたちが互いを理解し合えるのか。狩猟採集も農耕も、技術発展も、互いに攻撃し合う本能を止められなかった。ならば——彼らにもっと情報を交換する術を与えてみよう。」
狩猟採集から農耕、農耕から近代化への流れを一通り眺めた末に、神様は情報革命を起こすことを決意する。
コミュニケーションの手段を劇的に変え、ベータたちがお互いを知り合い、絆を強め、不要な疑心暗鬼や争いを減らせるように——そんな期待を胸に抱いたのだった。
「ベータたちよ、互いに語り合え。遠くの者とでも、言葉や情報を交わし合え。そうすれば殺人の割合も下がるだろう……」
「彼らに互いの考えや感情を、もっと簡単に、もっと広く交換できる手段を与えれば、争いは減るに違いない」
そう考えた神様は、ベータたちの社会にSNSという新技術をもたらす。
ネットワークを通じて、遠く離れた仲間同士が即座に言葉や映像を送り合える――かつての小集団では考えられないほど豊かなやり取りが可能になった。
SNSが浸透すると、ベータたちは国や地域の垣根を越えて、技術や文化、思想を共有し合った。神様はそれを見て胸を高鳴らせる。
「どうだろう、情報不足や偏見による争いが少しでも減るなら、この革命は成功だ」
ベータたちは好奇心に満ち、これまで会ったことのない他者とフレンドリストを作り、コミュニティを広げていく。
たしかに一部では誤解や対立が解消される例も見られた。紛争地域と平和な地域がSNSを介して互いの思いを共有し、衝突が回避される小さな奇跡も起こり始めた。
だが、ある日――神様は、SNSを使うベータたちの中で、どうにも妙な行動が目立ち始めたことに気づいた。
神様が様子を探ると、ベータたちのタイムラインには無数の写真や動画、自分の身の回りの報告が溢れている。
「今日はこんな服を着ている」
「私の作った料理を見て!」
「俺は日々はこんなに充実している!」
そして、その投稿に対して「いいね!」という反応が飛び交い、ベータたちはそれを大変喜んでいた。まるで「いいね」を集めること自体が目的であるかのよう。
「なぜこんなに、自分をアピールするのだろう?」
神様は首をかしげる。“承認欲求”という言葉は、いまだ神様の辞書にはない。
だが、明らかにベータたちがSNSで過剰な自己開示をし、他者からの反応を欲しがるという新たな行動パターンを見せ始めていた。
さらに、神様はベータたちのSNSを観察するうちに、さらなる事態に気づく。異常な攻撃性がSNS上で噴出していたのだ。
ベータたちはコミュニティ内で小さな事件やミスを見つけると、こぞってその相手を糾弾し、激しい言葉で批判する。
事実無根の噂や誹謗中傷が一瞬のうちに拡散され、さらなる怒りを呼び起こす。
その様子は森林を焼き尽くす「炎上」のようだった。
「あいつは最低の裏切り者だ。許していいのか?」
「こいつをみんなで追い詰めよう!」
当初、神様は「ベータたちの攻撃本能がSNSでも現れることはあるだろう」と予想していた。
狩猟採集の時代から続く彼らの激しい気質は簡単には変わらない。
だが、見ず知らずの相手にまで過剰な攻撃が繰り広げられるとは想定外だった。
「農耕でも法でもダメだった。SNSでもダメなのか……」
神様は落胆しながらも、なぜベータたちが自己開示と他者攻撃の両方に執着し始めたのかを探ろうとする。
攻撃本能が高いことは分かっていた。
彼らはもともと仲間殺しを繰り返していた種族だ。
しかし、その一方で「なぜSNSが承認欲求の塊を生み出すのか」は神様にとって謎だった。
自己開示と会ったこともない相手への攻撃は、いったいどこから来るのか……?
神様はベータの歴史を振り返り、その答えらしきものに思い至る。
「……そうか。もともと彼らは150〜200人ほどの集団しか維持できない脳で進化してきた。大きな社会に属していても、頭の中では常に“小さな群れ”を想定しているのだ……。」
ベータたちは長い狩猟採集の歴史の中で、仲間に殺される恐怖を常に抱えていた。
死因の15%が仲間の攻撃――そんな世界で生き抜くには、「仲間から排除されない」ことが何より大切だったのだ。
仲間内で悪い噂を立てられないように、他者より優位に立ちたい
自分は有用な個体、群れにとって必要な個体だと周囲に示したい
逆に“危険なやつ”を噂で共有し、排除する(=攻撃で先手を打つ)
この「噂(ゴシップ)に快感と報酬を得る」仕組みは、狩猟採集のころからDNAに刻み込まれていたのである。
「その脳のまま、SNSという広大な空間に放り込まれれば、いったいどうなるか……」
神様はようやく理解する。
SNSでは、数百人どころか何千・何万人の“仲間候補”が目に飛び込んでくる。
脳はそれを“とんでもなく巨大な群れ”と錯覚し、“評価されないと危険だ”“排除されるかもしれない”という恐れを加速させる。
結果、彼らは「自分はこんなに優れている」「こんなに素敵なんだ」という投稿を絶やさずに行い、常に承認(いいね)を欲しがる。
一方で、少しでも不満を抱いた相手には“あいつを排除しろ”と攻撃を集中させる。昔から脳に刷り込まれた「噂を広め、賛同を得て、排除する」手法が、SNSで倍増してしまうのだ。
「仲間内で評価されることで殺されない」という狩猟採集時代に進化したベータたちの原始的な脳が、SNSの場で混乱してしまい、結果として際限のない承認欲求が大量発生した。これがベータたちの奇妙な行動の正体だった。
神様は嘆きとも諦めともつかない表情を浮かべる。
「農耕でも、法整備でも、技術発展でもダメだった。SNSでも……彼らは承認を求め、また仲間を攻撃する。けれど、SNSならば正しく使えば情報や思いを分かち合える可能性もある。果たしてベータたちは、進化の呪縛を乗り越えられるのだろうか……?」
その問いに答えられるのは、神様ではない。
SNSが生まれたことで、ベータたちは自らの生存戦略――排除と承認――を、かつてない規模で行う環境を手に入れた。
そしてその環境は、彼らが本来数百人の“小さな群れ”を想定していた脳を、計り知れない混乱へと誘うことにもなる。
彼らが互いを理解し合い、攻撃本能を抑えて協力していくか、それともさらなる分断と苛烈な排除へと向かうのか。
未来はまだ見えない。
だがひとつ確かなのは、神様の期待した「SNSによる争いの減少」は簡単には訪れず、むしろ新しい形での混乱を呼び起こしているということだ。
“人はなぜSNSで自己開示し、反応(承認)を欲しがるのか?”――その答えは、ベータたちの過去に刻まれた生存戦略にある。
果たしてこの知見を、彼らは自らの手でどう活かすのか。
神様は星空に輝く二つの小さな月を見上げ、静かに思いを巡らせる。
承認と攻撃に満ちた奇妙な群れ、それがベータたちのSNS時代の行方であった――
元論文
War Before Civilization: The Myth of the Peaceful Savage
https://www.amazon.com/War-Before-Civilization-Peaceful-Savage/dp/0195091124
Did Warfare Among Ancestral Hunter-Gatherers Affect the Evolution of Human Social Behaviors?
https://doi.org/10.1126/science.1168112
Demonic Males: Apes and the Origins of Human Violence
https://www.amazon.co.jp/-/en/Dale-Peterson/dp/0395877431
The Better Angels of Our Nature: Why Violence Has Declined
https://www.amazon.com/Better-Angels-Our-Nature-Violence/dp/0143122010
Social: Why Our Brains Are Wired to Connect
https://www.amazon.com/Social-Why-Brains-Wired-Connect/dp/0307889092
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部