大気中の水素濃度が産業革命前から60%も上昇していたと判明

自然

私たちが地球温暖化対策として注目している「水素エネルギー」。

しかし、クリーンなイメージが強いこの水素が、実は大気中に漏れることで思わぬ影響を及ぼしているかもしれません。

アメリカのカリフォルニア大学アーバイン校(UCI)で行われた研究によって、グリーンランドの氷床に閉じ込められた過去1100年の空気を分析したところ、大気中の水素濃度が産業革命前に比べて約60%も増加していることが明らかになりました。

近年の研究では、水素の持つ意外なリスクも示されています。

水素は直接の温室効果ガスではないため、気候への影響は小さいと考えられてきましたが、実際はメタンの濃度を高めたり、成層圏の水蒸気を増やすなどして、間接的に温暖化に関わっていると考えられています。

果たして、水素を積極的に利用する未来社会は、本当に地球にとって安全と言えるのでしょうか?

研究内容の詳細は2025年8月24日に『Research Square』にて発表されました。

目次

  • 水素が微量でも無視できない理由
  • 大気中の水素濃度はなぜ60%も激増したのか?

水素が微量でも無視できない理由

大気中の水素濃度が産業革命前から60%も上昇していたと判明
大気中の水素濃度が産業革命前から60%も上昇していたと判明 / Credit:Canva

私たちが普段、空気について考える時、まず思い浮かべるのは酸素や二酸化炭素(CO₂)でしょう。

酸素は呼吸に欠かせない気体として、二酸化炭素は地球温暖化を引き起こす温室効果ガスとして、日常的によく知られています。

一方で、水素(H₂)はどうでしょうか?

水素という言葉自体は、水素燃料電池や水素水などで聞いたことがあるかもしれませんが、実は、空気の中にも微量ながら常に含まれています。

大気の主成分は窒素(約78%)と酸素(約21%)であり、これらに比べるとH₂は非常に少なく、その濃度は約0.5 ppm(500 ppb)ほどしかありません。

これは、空気中の分子が10億個あったとして、そのうち水素はわずか500個しか存在しないという極めて小さな割合です。

二酸化炭素濃度と比べるとおおよそ800分の1というレベルです。

そのため、水素は長い間、大気科学の世界ではあまり注目されることがありませんでした。

ところが最近、状況が大きく変わってきています。

地球温暖化への対策として、私たちは石油や石炭の代わりにクリーンなエネルギーを探していますが、その重要な候補の一つが「水素」なのです。

水素は燃やしても二酸化炭素を出さないクリーンな燃料として、世界中で今後の利用拡大が期待されています。

しかし、水素を大量に使えば、その一部が必ず大気中に漏れ出してしまうでしょう。

ここで一つの疑問が生まれます。

「水素はクリーンなエネルギーだから、漏れても問題はないのでは?」

たしかに水素は、CO₂やメタンのような温室効果ガスとは違い、直接地球を暖める効果はほぼありません。

しかし意外にも、水素は間接的な方法で地球の気候に影響を与えることが分かってきました。

水素が大気中に漏れると、OHラジカルという「空気の掃除屋」の働きに影響を与えます。

OHラジカルとは大気中の強力な酸化剤で、メタンのような温室効果ガスを分解して地球の空気を綺麗に保つ役割を担っています。

ところが水素はこのOHラジカルを奪い合う性質があるため、水素が増えるとメタンが分解されにくくなります。

その結果、強力な温室効果を持つメタンの濃度が高まり、地球温暖化を進めてしまう可能性があるのです。

また、水素がOHラジカルと反応すると水蒸気(H₂O)が生成されます。

この水蒸気は上空の成層圏に入り込んでしまうと、間接的に地球の気温を上げる働きをします。

さらに対流圏(私たちが住んでいる大気の層)のオゾンにも影響を及ぼし、大気の化学バランスを乱してしまうのです。

つまり、これまで「見えない脇役」だと思われていた水素が、実は地球の気候にとって重要な役割を果たしている可能性が高まっています。

ところが、現在の科学では、大気中の水素がどのように変動しているのか、まだ詳しくは分かっていません。

実際、大気中の水素濃度の本格的な観測が始まったのは、1994年と比較的最近のことなのです。

北半球では2016年頃まで約520 ppb、南半球では約540 ppb程度で安定していましたが、その後、530〜560 ppbへとやや増加しています。

しかし、この短期間の記録だけでは、人間の活動や自然の影響で水素がどのように増減するかを詳しく知ることは難しいのです。

そこで研究者たちは、あるユニークな方法で「昔の空気」を調べることを思いつきました。

それが「氷床コア」を使った研究です。

南極やグリーンランドの氷床には、何十万年も前から降った雪が少しずつ圧縮されてできた氷の層があります。

その氷の中には、当時の空気が泡となって閉じ込められているため、氷を掘り出してその泡を調べれば、過去の大気の状態がわかるのです。

しかし、水素を測定するには大きな問題がありました。

水素は分子が非常に小さいため、氷の中を簡単にすり抜けてしまい、せっかく採取しても測定前に抜け出てしまう可能性があったのです。

そんな困難な状況に果敢に挑んだのが、米カリフォルニア大学アーバイン校の研究チームでした。

彼らは2024年夏、グリーンランド中央部の厚い氷の層を331メートルまで掘り進み、約1100年分の古い氷を取り出すことに成功しました。

氷を取り出した直後から、わずか48時間以内にその場で氷を溶かして空気を採取・分析するという、非常に大胆で慎重な方法を使いました。

さらに精密な分析のために空気を瓶に封じ込めて持ち帰りましたが、この作業は極寒の中で行われたため、一部の瓶から漏れが確認されるという困難もありました。

それでも研究チームは工夫と努力を重ね、ついに過去1100年にわたる水素濃度の変化を記録することに成功しました。

大気中の水素濃度はなぜ60%も激増したのか?

大気中の水素濃度が産業革命前から60%も上昇していたと判明
大気中の水素濃度が産業革命前から60%も上昇していたと判明 / Credit:A Greenland ice core record of H2 reveals enhanced sensitivity to climate

今回の氷床コアの分析によって、まず明らかになったのは「大気中の水素濃度は、過去1100年で大きく変動していた」という驚くべき事実です。

私たちが生きる現代の空気には、産業革命前と比べて約60%も多くの水素が含まれていることが分かりました。

具体的には、産業革命が起こる以前(1500年頃まで)の水素の平均濃度は約332 ppbでしたが、その後、1750年~1800年頃の「小氷期」と呼ばれる寒冷な時代には、約279 ppbという低い水準にまで下がりました。

しかし、その後再び急激に増加し、1990年には530 ppbほどに達していたのです。

つまり、この1100年間の水素濃度のグラフには、人間が起こした産業革命の影響と、自然が起こした気候の変動が、まるで歴史の記録のようにはっきりと刻まれていたのです。

では、なぜ産業革命以降に水素濃度は急激に増えたのでしょうか?

その主な可能性は2つ考えられます。

1つ目は「人間が石炭や石油といった化石燃料を大量に燃やしたこと」です。

実は化石燃料を燃やすと、二酸化炭素(CO₂)以外にも少量の水素が一緒に放出されます。

そして2つ目の理由は「メタンという温室効果ガスが増え、それが大気中で化学反応を起こして水素を作り出した」ということです。

メタンは農業活動や化石燃料の採掘・利用に伴って増加することが知られていますが、大気中で徐々に化学反応を起こして水素に変化します。

OHラジカルがメタンにくっつくことで、さまざまな途中段階の物質に変わっていきます。その途中段階の物質の一つに、「ホルムアルデヒド(HCHO)」という化学物質があります。このホルムアルデヒドが太陽の光を浴びることで、光化学反応という特別な化学反応が起こります。この反応の結果、最終的に水素(H₂)が生まれるのです。そして先に述べたように水素にはメタンを増やしてしまう効果もあります。そのため「メタン増→HCHO→H₂増」と「H₂増→メタン増」というサイクルが生じてしまう可能性もあります。なお既存の研究報告などでは水素の温暖化に寄与する割合は「おおむね0.5〜2%の幅」と考えられています。ただ短期間で60%もの増加をみせたという結果からは今後、水素の与える影響が大きく伸びる可能性も考えられます。

つまり、この2つの人間の活動が相まって、ここ数世紀の間に大気中の水素がどんどん増えていったのです。

次に興味深いのが「小氷期」と呼ばれる寒冷な時代の水素濃度の減少です。

小氷期とは地球が一時的に寒冷化した時代で、1500年から1800年頃にかけて、世界各地で冬の寒さが特に厳しくなったとされる時期です。

この寒冷な時代には、森林火災や人々が薪を燃やす量が減ったため、大気中の水素濃度も減少すると予想されます。

ところが、今回の調査で見つかった水素濃度の減少幅は、火災の減少だけでは説明できないほど大きなものでした。

研究チームがモデルを使って慎重に計算した結果、火災の減少だけで説明できる水素の減少量は、観測された量の半分(約25 ppb)にしかなりませんでした。

つまり、実際に観測された約53 ppbの減少のうち、残りの半分以上は別の原因によるものと考えられるのです。

では、その「別の原因」とは何でしょう?

一つの有力な仮説として挙げられるのが、土壌が水素を吸収する力が強まった可能性です。

土壌には水素を吸収する性質があり、この力が寒冷化によって強まったのではないかと研究チームは考えました。

もちろん、この研究にも限界があります。

今回の氷床コアは、グリーンランドという地球上の限られた場所から得られたデータです。

このため、全世界の空気の状態を完全に代表しているとは言えません。

さらに、水素という分子は非常に小さく、氷に閉じ込めて正確に測定することがとても難しいため、特に小氷期の水素濃度の大きな変化は、さらなる調査と検証が必要になるでしょう。

私たちが発見した新たな事実も、今後さらに確かなものにするためには、世界中の別の場所でも同じような研究を繰り返し、データを集める必要があります。

それでも、今回の研究が持つ意義は非常に大きいのです。

これまで私たち人間が直接見ることができなかった「過去1100年にわたる大気中の水素の歴史」を、初めて具体的な記録として提示することに成功しました。

この結果は、私たちがこれまで考えてこなかった水素と気候の関係を深く理解するための重要な基礎となります。

科学者たちは、これから気候変動や人間活動による水素濃度への影響を、さらに詳しく研究しようとしています。

私たちが水素エネルギー社会へ進む未来を安心して迎えるためには、水素が地球の気候に与える影響を十分に理解し、その上で適切な対策を立てることがとても大切になるのです。

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元論文

A Greenland ice core record of H2 reveals enhanced sensitivity to climate
https://doi.org/10.21203/rs.3.rs-7320711/v1

ライター

川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。

編集者

ナゾロジー 編集部

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