量子力学には、粒子がどこに現れるかを予測するために使われる「ボルン則」という基本的な計算ルールがあります。
これは言ってみれば、量子世界における“絶対的なルールブック”のようなものです。
アメリカのイリノイ大学で行われた研究によって、地球の重力がこの量子力学の最も基本的なルールに本当に影響を及ぼすかを調べる画期的な手法が提案されました。
具体的には、高低差が約1キロメートルずつ異なる3か所に量量子もつれ状態で連携した原子時計を設置し、この微妙なルールの歪みを観測する斬新な実験方法を提案しています。
研究者らによると、既に現存する最先端技術を組み合わせれば十分実行可能であるとのことです。
もし本当に重力が量子のルールをゆがめるとしたら、私たちの宇宙や物理法則に対する理解は大きく塗り替えられることになるでしょう。
果たして地球の重力は、本当に量子の絶対ルールを変えてしまうのでしょうか?
研究内容の詳細は2025年7月21日に『PRX Quantum』にて発表されました。
目次
- 重力で量子力学の確立ルールは歪むのか?
- 量子もつれを内蔵した時計の挑戦
- 宇宙理解の大転換は起こるのか?
重力で量子力学の確立ルールは歪むのか?

アインシュタインの理論によると、重力が強い場所では時間の流れが遅くなります。
これは「重力による時間の遅れ」と呼ばれています。
SF映画『インターステラー』では、ブラックホールの近くで時間がゆっくり進む場面が出てきます。
実際に、高さの違う場所に置いた原子時計でも、この時間の遅れは観測されています。
ただし、地球上でのこの違いはとても小さいものです。
そのため、地球でこうした変化を調べるには、とても正確な光学式の原子時計や、精密な量子の測定技術が必要になります。
これまでにも重力が量子に与える影響を調べた研究はありましたが、それはあくまで古典的な重力、つまりニュートンの理論の範囲での話でした。
本当に「曲がった時空」による量子への影響は、これまで観測されたことがありませんでした。
一方で、量子の世界では結果を完全に予測することはできません。
できるのは、ある結果が出る「確率」を計算することです。
そのための基本ルールが「ボルン則」です。
ボルン則では、量子の波のような性質から、粒子が現れる確率を決めることができます。
しかし、一部の理論物理学者たちは、強い重力のある場所では、このルールが少し変わる可能性があると考えてきました。
たとえば、空間や時間が大きく曲がっていると、粒子の出現する確率にズレが生じるかもしれないというのです。
実際、過去の研究では、重力のある場所で量子の性質が変わるような現象が観測されたこともあります。
たとえば、重力によって中性子が特定の高さにとどまったり、干渉実験で干渉のパターンがわずかにずれたりすることがありました。
でも、これらはすべてニュートン的な重力の範囲で説明できるもので、本当の意味で「時空のゆがみ」が量子に影響を与える例ではありません。
ところが最近では、光学式原子時計の精度が飛躍的に向上してきました。
さらに、遠く離れた量子装置を結びつける「量子ネットワーク技術」も発展しています。
そのおかげで、今まで難しかったこの問題にも、挑戦できる土台が整いつつあります。
そこで研究者たちは、「地球の重力でボルン則が本当にゆがむのか?」という問いに挑むための実験プランを立てたのです。
いったいどうやったら地球の重力が量子力学のルールを歪ませていることを証明できるのでしょうか?
量子もつれを内蔵した時計の挑戦

どうやったら地球の重力が量子力学のルールを歪ませていることを証明できるのか?
研究チームは、原子時計を使って重力の影響を調べる新しい実験を提案しました。
この実験では、高さが約1キロメートルずつ違う3つの場所に光学式原子時計を設置します。
それらを量子の技術でつなげて、1つのまとまったシステムとして使います。
イメージとしては、1つの超高精度な原子時計が3つの場所に同時に存在しているような状態を作るのです。
この状態は、「量子もつれ」と呼ばれる性質によって実現されます。
離れた時計同士でこのような状態を作るには、量子テレポーテーション(粒子の状態を別の粒子へ瞬時に転送する技術)や、ベル対(2つの粒子が互いの状態を瞬時に影響し合うような特別な量子ペア)といった高度な量子技術を活用します。
ですが近年の急速な技術進歩により、これらは既に一部が実証済み、あるいは近い将来実現可能な技術であり、研究者らは組み合わせ次第で十分実行できると述べています。
こうして3つの時計が量子もつれで結ばれると、それぞれの高さの違いによって時間の進み方がわずかに変わります。
地面に近いほど重力が強くなるので、時間は少し遅く進みます。
その違いが量子の状態に「ズレ」として現れ、時間が経つにつれて3つの状態の間に「位相差」が生まれていきます。
この状態をまとめて測定すると、「干渉縞」と呼ばれるパターンが出てきます。
普通の状況では、干渉縞は3つのうち2つずつの組み合わせによって作られます。
つまり「1と2」「1と3」「2と3」という3組のペアがそれぞれ影響しあっているのです。
しかし今回の研究では、「3つすべてが同時に干渉しあう成分」が現れる可能性があると指摘されています。
これは、もし重力がボルン則に影響を与えているならば、従来の量子ルールだけでは説明できない干渉が起きることを意味します。
言いかえれば、干渉縞の中に「重力による歪み」が現れるかもしれないということです。
こうした効果はとても小さく、観測するのは簡単ではありません。
だからこそ、超高精度な光学式原子時計と、キロメートル級に離れた3つの拠点が必要になります。
研究チームが考えた実験では、こうした条件をすべて満たす工夫がされています。
彼らは、「この実験セットは今ある最先端の装置で実現できる範囲内にある」と述べています。
実際にアメリカでは、シカゴ大学や国立研究所などが連携する「Q-NEXT」という量子ネットワーク計画が進められています。
その中には、地下にある研究施設とシカゴ市内の高層ビルをつなげて、約1キロの高さの差を使った実験を行う案も含まれています。
こうして、かつては夢のようだった量子と重力の実験が、現実のものになろうとしているのです。
宇宙理解の大転換は起こるのか?

今回提案された実験がうまくいけば、量子の世界と重力の世界が実際にどのように関係しているのかを、初めて直接調べられるようになります。
特に、量子の確率を決める「ボルン則」が、曲がった時空の中でどう変化するのかを確かめるのはとても大切な挑戦です。
これまでボルン則は、重力の影響がない場所でしか詳しく調べられてきませんでした。
重力のあるところでこのルールがどうなるのかは、まだ誰も試していないのです。
もし重力の影響でボルン則が少しでも変わることがわかれば、今の物理学にはない全く新しい法則が見つかるかもしれません。
逆に、もし何の変化も起こらなければ、量子論が極限環境でも頑健であることを実証する重要な知見となるでしょう。
どちらの場合でも、この結果は量子力学と重力理論を統一する「量子重力理論」に向けて、とても重要な手がかりになります。
また、この研究は、量子インターネットのような未来の技術にも大きな影響を与える可能性があります。
研究者たちは「量子ネットワークは通信に役立つだけでなく、これまでの技術ではできなかった科学実験を可能にする」と説明しています。
つまり、世界中で開発が進む量子通信ネットワークが、宇宙の不思議を解き明かす道具にもなるかもしれないということです。
近い将来、地球の重力が量子のルールを書き換える瞬間を実際に見ることができる日が来るかもしれません。
参考文献
Quantum internet meets space-time in this new ingenious idea
https://www.eurekalert.org/news-releases/1090889
元論文
Probing Curved Spacetime with a Distributed Atomic Processor Clock
https://doi.org/10.1103/q188-b1cr
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部