原子で動画を作る──そんなSFのような話が現実になりました。
中国科学技術大学(USTC)で行われた研究によって、数千個もの原子をレーザーの“光ピンセット”で自在に操り、ほんの一瞬で好きな形に並べ替える技術が開発されたのです。
また研究チームはその様子を示すため、原子をドット絵の“画素”に見立てて配置し、有名なシュレーディンガーの猫のシーンを“動画”として原子の配置変化で再現することにも成功しました。
なぜこの発明が「原子の世界の新しい時代」を切り開くと言われているのでしょうか?
研究内容の詳細は2025年8月8日に『Physical Review Letters』にて発表されました。
目次
- 原子の世界で「シュレーディンガーの猫」が上映される
- 数千個の原子を同時に操る技術とは?
- 量子コンピュータ時代の基盤技術へ
原子の世界で「シュレーディンガーの猫」が上映される

量子コンピュータは「量子ビット」をたくさん使って計算します。
量子ビットとして原子を使う方式は、同じ種類の原子なら性質がほぼ同一で扱いやすいという強みがあります。
原子は真空中でレーザーの力で「光のピンセット」に捕まえることができます。
このピンセットを格子状や好きな形に並べると「原子配列」という計算の土台ができます。
ところが原子は確率的に捕まるため、用意した全ての場所に原子が入るとは限りません。
実験では平均でおよそ65%の場所にしか原子が入らず、残りは空席になります。
空席があると予定した回路が組めず、計算の品質が落ちてしまいます。
そこで空席に向けて原子を移動させ「欠陥ゼロ」の配列を作る工程が不可欠になります。
従来は原子を一つずつ運ぶ方法が主流でした。
このやり方だと原子の数が増えるほど手順が増え、準備時間がどんどん長くなります。
人数の多いクラスで席替えを先生が一人ずつ誘導すると時間がかかるのと同じです。
一度にまとめて動かそうとする試みもありましたが、計算が遅くなったり途中で原子が抜け落ちたりしやすいという課題がありました。

つまり「大規模に速く、しかも欠陥ゼロで並べる」という三つの条件を同時に満たすのが難しかったのです。
本研究は発想を「直列」から「並列」に切り替えます。
イメージとしては、全員が同時に一歩ずつ進んで所定の席に近づく方式です。
研究チームは、光のパターンを賢く設計して原子全体を同時に誘導することで、かかる時間を原子数にほぼ依らない水準に抑えることを目指しました。
その結果として、短時間で大きな原子配列を欠陥ゼロに近い状態へ整える「基盤技術」を確立することがこの研究の目的です。
この技術が実現すれば、量子コンピュータに必要な大量の高品質量子ビットを素早く用意でき、量子誤り訂正などの実装にも弾みがつきます。
また、配列の形を柔軟に変えられるため、量子シミュレーションなど他の応用にも広く役立ちます。
数千個の原子を同時に操る技術とは?

まず、実験で使われた「光学トラップ」という装置について簡単に説明します。
光学トラップとは、強いレーザー光の焦点を使って、目に見えない小さな原子を“ピンセット”のように捕まえる仕組みです。
このレーザーピンセットを平面上に何千個も並べておくことで、それぞれのトラップの中に一つずつ原子を入れることができます。
ただし、原子は自分の意志で動くわけではなく、どのトラップに入るかは完全にランダムです。
たとえば100個のトラップを用意しても、運が良くても65個程度しか原子が入らないことが多いのです。
つまり、たくさんトラップを用意しても、そのままでは「ところどころ穴があいた」不完全な配列しかできません。
そこで、次に必要なのは「空いている場所に原子をきちんと並び直す」作業です。
ここで活躍するのが高感度カメラとコンピュータです。

まず、カメラで全てのトラップの様子を撮影し、どの場所に原子がいてどこが空席なのかを“地図”のように記録します。
この情報をもとに、「この原子はここへ、この原子はあちらへ」と、一番効率のよい移動計画を立てるのが重要なポイントです。
その際に使われたのが「ハンガリーアルゴリズム」という計算手法です。
これは、もともと世の中のさまざまな“割り当て”や“最短経路”を素早く計算するために考えられた数学の方法で、今回はそれを高速化して利用しています。
これによって、すべての原子ができるだけ短い距離を動き、しかも移動中に原子同士がぶつからないようにする最適なルートが決まります。

ただし、原子はとても小さく、急に動かすとピンセットから飛び出してしまう危険があります。
そのため、一気に目的地まで連れていくのではなく、20回ほどに分けて“少しずつ”“なめらかに”動かします。
例えるなら、重たい机をいきなり持ち上げるのではなく、床の上を何度も押して少しずつ滑らせていくイメージです。
この細かいステップを実現するために、研究チームは「ホログラム」と呼ばれる“光の設計図”を毎回AIで計算し、その設計図を空間光変調器(SLM)という特殊な装置に高速で表示します。
SLMはレーザーの形や向きを自在に変えられるスクリーンのようなもので、1秒間に1000回というスピードでホログラムを書き換えます。
そのたびにピンセットの位置も微妙に変わるため、原子たちはぶつかることなく、みんなで一斉に少しずつゴールへと進みます。
まるでパラパラ漫画のコマを素早くめくると絵がなめらかに動くように、原子の動きもスムーズです。
この「原子の大移動」は、なんと全体で約60ミリ秒(0.06秒)という驚くほど短い時間で終わります。
しかも、これまでの方法と違い、並べる原子の数が1000個でも1万個でも、かかる時間はほとんど増えません。
これは世界的にも画期的なことです。

こうした技術を使い、研究チームは最大45×45=2025個の場所のうち2024個という、ほぼ穴のない原子配列を作ることに成功しました。
さらに、723個の原子で大学名「USTC」の文字を描いたり、自由な形やパターンも再現できることを実際に示しています。
また、最大549個の原子を使って「シュレディンガーの猫」のイラストを“動画”のように再現することもできました。
この猫動画は、原子の配置が次々と切り替わる様子を33倍にスロー再生したもので、本当は私たちの目では追いつけないほど速い変化が起きているのです。
さらにこの技術は、平面だけでなく立体的な配列にも応用されています。
研究チームは原子を3層に積み上げて、まるでレゴブロックのような直方体の立体構造を作りました。
このとき、層をまたいで原子を移動させると損失が増えるため、基本的には各層ごとに原子を動かす工夫をしています。
例えば、19×19の正方形を3段重ねた配列では、1083個中1077個という高精度な3D配列ができました。
また、最近話題になっている「ツイスト・グラフェン(ねじれたグラフェン)」という新しい物質構造も再現されています。
これは、3層の原子のシートをそれぞれ少しずつ回転させて重ねることで、縞模様(モアレ模様)が現れる仕組みです。
研究チームは、このパターンを752個の原子で見事に作り上げており(756個中4個だけ欠け)、どんな複雑な形でも思い通りに作れる技術だということを証明しています。
量子コンピュータ時代の基盤技術へ

今回の成果は、量子コンピュータの実現に向けた基盤技術として非常に重要です。
なぜなら、量子コンピュータを動かすには大量の原子(量子ビット)が必要ですが、それらを高い品質で素早く用意する手段がこれまで限られていたからです。
開発されたAI駆動のホログラフィック移動法を使えば、必要な数千個規模の原子を一瞬で所定の配置に揃えることができます。
あえて言うならば、量子コンピュータの「基板」に原子という名の部品を高速プリントする技術が確立されたようなものです。
従来はバラバラにしか置けなかった原子が、思い通りの配置に瞬時に整列する様子は、まるで魔法使いが杖を振って粒子の軍勢に号令をかけているかのようです。
これにより、量子ビットの数を飛躍的に増やしつつエラーを補正する「量子誤り訂正」の実現にも弾みがつくでしょう。
実験では原子約2000個でしたが、著者らは現在の装置を強化すれば数万個規模まで同様に配置できる可能性があると述べています。
将来的には、原子一つ一つを自在に操るこの技術によって、これまで不可能だった大規模な量子計算や量子シミュレーションが可能になるかもしれません。
論文では、この手法は量子誤り訂正を支える有用な道具箱になりうると記されています。
極論すれば、本研究は「原子の世界を自由にデザインする能力」を手に入れたとも言えます。
猫の動画や量子レゴはその華やかなデモンストレーションに過ぎませんが、裏にある技術革新は今後の科学と技術に深い影響を与えるでしょう。
数千個の原子たちが織りなす光の舞台――その先に、私たちが夢見る量子コンピュータの未来が見えてきます。
元論文
AI-Enabled Parallel Assembly of Thousands of Defect-Free Neutral Atom Arrays
https://doi.org/10.1103/2ym8-vs82
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部