我々が盆踊りと聞いて思い浮かべるものといえば、夏の夜、提灯の下で浴衣姿の人々が踊りに興じる風景でしょう。
しかし、1870年、前橋藩(現在の群馬県前橋市)では、この風流な行事が禁止されて、その後も次々と他の地方で禁止令が出されるようになったのです。
それも、ただの「自粛要請」などではなく、「踊れば罰金」という、まことに厳格な禁止令であったとのこと。
どうして明治時代初期、盆踊りは禁止されたのでしょうか?
この記事では明治時代の盆踊りで何が行われ、盆踊りがどのような名目で禁止されたのかについて紹介していきます。
なおこの研究は、伊東佳那子・來田享子(2021)『明治時代に布達された盆踊り禁止令の記載内容に関する研究』中京大学体育学論叢61巻1号 p. 1-14に詳細が書かれています。
目次
- 盆踊りが禁止された明治時代
- 乱交が行われていた明治の盆踊り
- 政治的意味を持っていた可能性も指摘されている盆踊り禁止令
盆踊りが禁止された明治時代

盆踊り禁止令の文面を読んでみると、「越後辺ヨリ下賤ノ者入込候故歟悪風ヲ佩ヒ」とあります。
どうやら、盆踊りは「下賤の者」が持ち込んだ風習であり、彼らの影響で地元の人々が夜な夜な浮かれ騒ぐようになってしまった、というのが取り締まりの理由とのこと。
それでは盆踊り禁止令とはどのようなものなのでしょうか?
禁止令の具体的な条項を見てみると、
一、踊った者は身分に応じて罰金を支払うこと。
一、使用人が踊った場合、その主人が罰金を支払うこと。
一、盆踊りを主催した村や町の役人も罰金を支払うこと。
一、社寺の境内で踊った場合、その社寺まで罰金を支払うこと。
……実に手広く罰金を徴収する仕組みです。
まるで踊る者を捕らえては金を巻き上げる盆踊りハンターのような様相を呈していることが窺えます。
乱交が行われていた明治の盆踊り

明治時代の盆踊り禁止令を見ていくと、どうも「ただ踊ること」だけが問題視されたわけではないとのことです。
禁止理由は主に2つありました。
1つは、若者や子供が踊りに夢中になりすぎて仕事をしなくなるという社会的問題。
もう1つは、盆踊りが地域の風紀を乱すという道徳的問題です。
では、具体的にどのような行為が禁じられたのでしょうか。
一、男女が集まること
一、裸体や奇妙な格好をすること
一、楽器を打ち鳴らすこと
一、町中を踊り歩くこと
……なんというか、現在の盆踊りとはずいぶん様子が違うように思われます。
「裸体や奇妙な格好」とは何を指すのかと考えれば、江戸時代には仮装の習慣があり、男が女装し、女が男装することもあったとのこと。
これが奇妙であるかどうかは見る人次第ですが、少なくとも当時の役人たちは「とんでもない風紀の乱れだ!」と憤慨した模様です。
この「男女が集まり、楽器を鳴らし、踊り騒ぐ」という要素を持つ催しを禁止した例として、秋田県、和歌山県、栃木県、小倉県(現・福岡県)、岐阜県、愛媛県などの禁止令が残っています。
これらの地域では、盆踊りの場が「男女混合」することで「すこぶるわいせつ」であるとされたのです。
実際、盆踊りがどのような場であったのかを知るには、田山花袋(たやまかたい)の『田舎教師』の一節を見てみるのがいいでしょう。
「盆踊りのある処は村の真中の広場であった。人が遠近からぞろぞろと集まってくる。樽拍子の音が揃うと、白い手袋を被った男と女が手をつないで輪をつくって、調子よく踊り始める。……男は皆一人ずつ相手をつれて歩いている。猥褻(わいせつ)なことを平気で話している。世の羈絆(きはん、足手まといとなる身辺の物事)を忘れて、この一夜を自由に遊ぶという心持ちが四辺に充ち渡った。」
なんとも楽しげな光景ではないでしょうか。
また盆踊りは単に男女が出会う場というだけではなく、そこで乱交をすることもありました。
踊りの最中に相手が了承した場合、そのまま夜の闇に身を隠して性交をしました。
盆踊りにおいてしばしば踊っている人が傘をかぶっているのは、乱交するときに相手が誰なのかをわからないようにするためと言われています。
さらに盆踊りの際は相手が既婚者であったとしても、性交をすることが認められていたことが多かったのです。
ところが、こうした開放的な場が「不埓(ふとどき)なこと」とされ、取り締まりの対象となったのです。
政治的意味を持っていた可能性も指摘されている盆踊り禁止令

また盆踊りが単なる風紀の問題ではなく、もっと深い政治的意味を持っていた可能性も指摘されています。
たとえば、1889年に「大日本帝国憲法」が発布される直前の時期には、全国的に盆踊りの禁止令が発せられました。
これは、盆踊りが「単なる娯楽」ではなく、「非日常的な社会編成」を生み出すものであり、治安当局にとって警戒すべき事態だったからだといいます。
つまり、夜の広場に人々が集まり、日頃の身分や社会的役割を超えて自由に交流する――これは当時の政府にとって「政治的集会」にも匹敵する危険なものとみなされたのではないでしょうか。
このようにして、盆踊りは禁止され取り締まられたものの、それでも人々は踊り続けました。
明治政府がいくらお触れを出そうとも、人々は夜になればこっそりと踊りの輪を作ったのです。
結局、盆踊りは完全には消えることなく、今日まで続いています。
考えてみれば、盆踊りとは、「踊るな」と言われても踊ってしまう人々の情熱の表れなのかもしれません。
明治時代の役人たちがどんなに厳しい禁止令を出そうと、盆踊りの魂までは奪うことができなかったのです。
そう、踊る阿呆に、見る阿呆――ならば、踊らにゃ損、損、というわけです。
参考文献
明治時代に布達された盆踊り禁止令の記載内容に関する研究
https://chukyo-u.repo.nii.ac.jp/records/18328
ライター
華盛頓: 華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。
編集者
ナゾロジー 編集部