ペットボトルが薬になります。
イギリスのエディンバラ大学(UoE)で行われた研究によって、遺伝子改変された大腸菌がプラスチックごみを、わずか24時間で身近な鎮痛薬アセトアミノフェン(パラセタモール:日本ではカロナールとして有名)に変えられることが示されました。
研究チームは大腸菌の細胞内で「ロッセン転位」と呼ばれる特殊な化学反応を初めて実現し、これまで単に焼却や埋立て処分されることが多かったPET製ペットボトルを有用な薬品に効率よく変換しました。
廃棄物の削減と化石燃料依存の医薬品製造という二つの課題を同時に解決できる、この革新的な技術はいったいどのように実現されたのでしょうか?
研究内容の詳細は『Nature Chemistry』にて発表されました。
目次
- なぜペットボトルが薬になる必要があるのか?
- ペットボトルが薬になる?SFを現実に変えた最新技術
- 薬箱になるゴミ箱——プラスチック問題と医療を変える技術の未来
なぜペットボトルが薬になる必要があるのか?

ペットボトルの飲み物を飲み終わったあと、あなたはそのボトルがどこに行くか考えたことがありますか?
世界では毎年およそ5,600万トンものペットボトルが生産されますが、その約8割(4,480万トン)は一度使われただけでゴミとして捨てられてしまいます。
ほとんどのボトルはリサイクルされずに、焼却や埋立て処分されてしまい、環境汚染や地球温暖化を加速させる大きな原因になっています。
こうした大量のプラスチックごみ問題を解決するために、最近「アップサイクル」というアイデアが注目されています。
アップサイクルとは、捨てられるはずだったゴミに手を加え、元の価値を超える新たな製品として生まれ変わらせることを指します。
今回の研究は、ペットボトルなどのプラスチックごみを、薬などの生活に役立つ製品へとアップサイクルする画期的な方法を開発することを目的としました。
一方で、私たちの生活に欠かせない薬の製造方法にも環境問題があります。
頭痛薬や風邪薬に広く使われているアセトアミノフェン(別名パラセタモール)は、いまだに石油などの化石燃料を原料にして作られています。
この薬を作るためには、石油由来の原料を使って、ニトロ化や還元、アセチル化など複雑な化学反応を何段階も繰り返さなくてはなりません。
それらの過程では、多くのエネルギーを使う上に、大量のCO₂が排出されてしまいます。
つまり、薬を飲んで健康になろうとする裏側で、地球の健康を害する状況が続いているのです。
こうした問題を知ったイギリスのエディンバラ大学のスティーブン・ウォレス教授らの研究チームは、「プラスチックごみ問題」と「薬の製造で起きる環境問題」という2つの大きな課題を、一気に解決できないかと考えました。
その方法として彼らが注目したのが、「生物の力」を借りることでした。
生物はもともと細胞内で様々な化学反応を起こすことができますが、最近では遺伝子操作などを用いて、細胞内の化学反応を自由にコントロールする「代謝工学」という技術が進んでいます。
研究チームはこの技術を応用して、「プラスチックごみを薬の原料として役立つものに変える」という、これまで誰も挑戦したことのない全く新しい方法を開発したのです。
一体どのようにして、この夢のような技術を実現したのでしょうか?
ペットボトルが薬になる?SFを現実に変えた最新技術

一体どのようにして、この夢のような技術を実現したのでしょうか?
研究ではまず、小さな生物である「大腸菌(E. coli)」の遺伝子を操作し、ある特定の物質を自力では作れない状態にしました。
その特定の物質とは、「パラアミノ安息香酸(PABA)」というビタミンの一種です。
実は大腸菌にとって、このPABAはとても重要な栄養であり、これがないと増えることができず、生き延びることもできません。
通常の大腸菌はPABAを自分で作れるのですが、あえてその能力を遺伝子操作で奪い取りました。
こうすることで、この特殊な大腸菌は、外からPABAを与えられない限り生存できない、という状況を作り出したのです。
ここまでが準備段階です。
次に研究チームは、ペットボトルに使われるプラスチック(PET樹脂)を化学処理して、「PABAの元になる特別な分子」を作り出しました。
ただし、このままではその分子は大腸菌の栄養として利用できません。
そこで登場したのが、細胞内で起こすことが難しいとされていた「ロッセン転位」という特殊な化学反応でした。
ロッセン転位とは、ある物質の構造を少しだけ変化させて、全く別の有用な分子に変える反応です。
これまでは、この反応を細胞の中で穏やかな条件下で起こすことはできないと考えられていました。
しかし今回、研究者たちは、リン酸塩という細胞内に自然に存在する安全な物質を利用することで、生きた大腸菌の細胞内でもロッセン転位を起こすことに成功したのです。
研究者たちは、この特殊な大腸菌にプラスチック由来の「PABAの元になる分子」を与えてみました。
すると、大腸菌の中で見事にロッセン転位が起き、プラスチック由来の分子がPABAに生まれ変わりました。
つまり、本来は使えなかったプラスチックの成分が、大腸菌にとって命をつなぐ大切な栄養に変化したのです。
そして研究はさらに次の段階へ進みました。
最終目標は「アセトアミノフェン(鎮痛薬)」を作り出すことです。
実はPABAはそのままでは鎮痛薬になりませんが、もう少しだけ化学的に変化させることで「アセトアミノフェン」に変換することができます。
研究チームはここで、大腸菌にさらなる遺伝子操作を加えました。
それはPABAからアセトアミノフェンを作るのに必要な酵素を、大腸菌自身に作らせるというものです。
その結果、プラスチック由来の成分を与えるだけで、大腸菌が自分の体内でPABAを経由して最終的にアセトアミノフェンを生み出すという、驚くべき反応が実現しました。
しかも、この方法で与えたプラスチックの分子のうち92%が、わずか24時間で鎮痛薬に変換されました。
この結果は、不要になったペットボトルが1日で薬に変わるという、まさに画期的な成功だったのです。
薬箱になるゴミ箱——プラスチック問題と医療を変える技術の未来

今回の研究によって、「プラスチックごみを薬に変える」という夢のような技術が現実的に可能であることが示されました。
廃棄されたペットボトルが、特殊な遺伝子改変を受けた大腸菌を介して、わずか24時間で鎮痛薬に生まれ変わったという事実は、環境問題と医薬品製造という2つの大きな課題を一度に解決できる可能性を示しています。
これまで、ペットボトルのようなプラスチックごみは、単純にリサイクルして再びプラスチック製品に戻すか、焼却や埋め立て処分されるだけでした。
しかし、この研究の成果は、「プラスチックごみが病気の治療にも役立つ貴重な資源になり得る」という画期的な視点をもたらしました。
さらに注目すべきは、この新しい技術が、従来の化学分野と最新のバイオテクノロジー分野を融合させたことで実現した点です。
もともとロッセン転位は有機化学の分野では古くから知られていましたが、それを細胞内の穏やかな環境で起こすのは困難だとされていました。
研究者たちはリン酸塩という細胞にとって安全で自然に存在する物質を使って、生命体に新しい化学反応を教え込むことに成功したのです。
言い換えると、この研究は「自然界には存在しない反応を細胞の中で自在に起こす」という、生物学の新しい可能性を切り拓きました。
今後、この方法を応用すれば、プラスチックごみから鎮痛薬以外にも抗生物質や抗がん剤などのさまざまな医薬品を生産できるようになるかもしれません。
あるいは、医薬品にとどまらず、農薬や洗剤といった日常生活に欠かせない化学品まで作れる可能性もあります。
つまり、この方法はプラスチック問題だけでなく、社会にとって幅広いインパクトを与える力を秘めているのです。
もちろん、この技術を工業規模で実用化するには、まだ多くの課題が残されています。
たとえば、今回使われたプラスチックの化学的な前処理方法は実験室レベルでは有効でしたが、大量のプラスチックを扱う工業生産にそのまま適用するのは難しく、より効率的で安全なプロセスへの改善が必要です。
また、遺伝子改変された大腸菌の安全性や規制面での検討も不可欠になります。
幸い近年は、「PETase」など自然界に存在するプラスチック分解酵素の発見や改良が進んでいるため、将来的にはプラスチックを完全に生物だけで分解して薬まで作り出す仕組みを構築できる可能性もあります。
しかし、単一の生物に全てを任せるのは現実的ではなく、おそらく複数の微生物を組み合わせて、それぞれの得意な機能を分業させるシステムが現実的になるでしょう。
こうした新しい発想や技術革新によって、「ゴミ箱に捨てられるはずだったプラスチックが、薬箱を満たす日常品に変わる」未来も決して夢ではなくなりました。
今回の成果は、「環境保護」と「人類の健康」という二つの大切な価値を同時に満たす「究極のアップサイクル」を実現する第一歩と言えるでしょう。
元論文
A biocompatible Lossen rearrangement in Escherichia coli
https://doi.org/10.1038/s41557-025-01845-5
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部