ギリギリ可聴域でした。
スペイン科学研究高等評議会(CSIC)で行われた研究により、ヒト細胞の「共鳴周波数」を特定することに成功しました。
新たに特定された共鳴周波数は10〜30 kHzおよび150〜180 kHzに位置し、前者の「10〜30 kHz」は人間の可聴域「20Hz~20kHz(20~20000Hz)」と一部が重なっており、理論的には、人間の耳はこの周波数の音を「聞く」ことが可能となっています。
「生きた細胞に固有の振動周波数がある」という仮説は、1950年代にはじめて提唱され、20年前には理論モデルも発表されていましたが、直接計測されたのは今回がはじめてとなります。
体内のすべての細胞が小さな楽器のように独自の共鳴周波数を持つという可能性は、私たちの体がどのように機能し、治癒するかについて新たな視点となるでしょう。
研究者たちは「病気の細胞は正常の細胞とは異なる共鳴周波数を持つ可能性があり、共鳴周波数を調べることで、がん細胞などを特定したり、さらには特定の共鳴周波数を直射することで病気の細胞だけを破壊できるかもしれない」と述べています。
現在の医学の分野でも振動波の利用は積極的に推進されており、たとえば超音波によって細胞膜の構造が一時的に変化し、薬剤や遺伝子の細胞内輸送を促進する可能性が示されています。
また低出力パルス超音波(LIPUS)のように、比較的低いエネルギーの超音波を照射することで骨や筋肉の再生を促進する技術が開発されており、骨折治療や組織修復をサポートするという報告もあります。
さらに超音波が液体中で気泡(マイクロバブル)を形成し、それが振動・崩壊(キャビテーション)することで周囲の細胞・組織に物理的ストレスが加わり、膜や組織構造にさまざまな影響を与えることが知られています。
これらの既存の技術に細胞の共鳴周波数の利用が組み合わされば、音響治療は飛躍的に進歩すると期待されます。
今回のヒト細胞の共鳴周波数の発見は、将来の医療技術の基礎となり得る重要な発見と言えるでしょう。
しかし1細胞レベルの共鳴周波数を特定するには、極めて高い精度が求められます。
細胞の共鳴周波数について1950年代に言及されて以降、これまで生細胞で実証されてこなかったのも、計測する方法がなかったからと言えます。
研究者たちはいったいどのようにして生きている細胞の共鳴周波数を突き止めたのでしょうか?
今回はまず共鳴周波数の正体について解説しつつ、後半で研究成果の詳細を紹介したいと思います。
研究内容の詳細は『PRX Life』にて公開されています。
目次
- そもそも共鳴周波数とはいったい何なのか?
- ヒト細胞の共鳴周波数を特定する
そもそも共鳴周波数とはいったい何なのか?
多くの人にとって「共鳴周波数」という言葉は聞き慣れたものでしょう。
音叉の振動が離れた場所にある別の音叉を共鳴させたり、オペラ歌手の声がワイングラスを割るといった映像を見たことがある人もいるかもしれません。
しかしなぜ共鳴周波数が物体の振動を引き起こしたり、破壊したりするか、その根本的な仕組みまで理解している人はあまりいないのではないでしょうか?
そこで「ヒト細胞の共鳴周波数」について紹介する前に、共鳴周波数の正体を簡単に解説したいと思います。
まず鍵となる知識として「どんな物体にもバネやブランコのような性質がある」ということがあげられます。
子供が乗っているブランコを押すとき、滅茶苦茶なタイミングで押してもブランコはどんどん失速してしまいます。
しかしブランコの揺れにあわせてタイミングよく押すと、ほんの僅かな力でも(指先だけでも)ブランコの揺れをどんどん大きくすることができます。
硬い鉄球も、高価な壺も、巨大なレンガ造りの建物でも、全ての物体には「固有の振動のしかた」が存在します。
人間でたとえれば、どんな堅物な人でも、つい体が動いてしまう好みのリズムがあるようなものです。
より専門的には、物体の内部には、多かれ少なかれ分子や原子同士の結合や相互作用(弾性力)があり、振動によって質量が動かされるたびに(慣性力がはたらくたびに)エネルギーのやり取りが生じる状態が発生します。
この物体内部の粒子質量の揺れ動き(慣性力)が、物体に隠されたみえないバネやブランコの正体となります。
ある意味で、共鳴周波数の正体は物体内部の粒子の慣性力に起因するとも言えるでしょう。
そのようなリズムは、たとえ力が小さくても、物体そのものの性質に刻み込まれているため、物体を簡単に揺れ動かすことができます。
そしてブランコの例のように、外部からの振動周波数がちょうど物体固有の振動モードと合っていると、エネルギーが効率的に蓄積され、振幅が雪だるま式に増幅されます。
言い換えれば、波のピークを逃さずにつかんで、次のピークへとさらに高く押し上げているようなイメージです。
これがいわゆる共鳴周波数による「増幅効果」の正体です。
より厳密には「共鳴周波数ではエネルギーが効率よく蓄積されるため、内部の原子や分子が協調して大きく動き、周囲を巻き込む形で弾性エネルギーが増幅される」という状態が起こります。
一方、固体に含まれる原子や分子は、結合のちぎれに抵抗する力を持っているものの、その限界を超えるほどの変位が繰り返し起これば亀裂が走り、ついには破壊されてしまいます。
「オペラ歌手が高音でワイングラスを割る」というエピソードも、ワイングラスにも、独特の形状や厚みなどから生まれる「固有の揺れやすい周波数」があり、そこへちょうど同じ周波数の音の波が何度もグラスを揺らすと、振動の振幅が際限なく大きくなり、ガラスの限界点を超えた瞬間にヒビが入って割れてしまうのです。
他にも軍隊が規則正しく橋の上を行進していたときに、軍隊の足踏みのリズムが運悪く橋の共鳴周波数と一致してしまうと、軍隊の重量が橋が十分に耐えられるものであっても、振動によって橋が崩壊してしまうこともあります。
実際、19世紀のイギリス・マンチェスターにあるBroughton Suspension Bridge(1831年)で、行進中の部隊が橋を渡る際に共鳴が起こり、崩壊したとされる有名な事例があります。
この事故をきっかけに「橋の上では行軍パレードを行ってはならず、兵士たちの足並みを崩すべき」というのは軍事関係者の間では常識となりました。
以上の事実は、鉄球からワイングラス、巨大な橋まで全ての物体は共鳴周波数を持っていることを示しています。
では生物は……そして細胞にも共鳴周波数は存在するのでしょうか?
結論から言えば、理論的には、細胞にも共鳴周波数は存在します。
ただ金属や硬質ガラスのように内部摩擦が少ない物質とは違い、細胞のように軟らかい(柔軟な)素材はエネルギーを散逸させやすいため、共鳴周波数を特定するのはかなり困難です。
また細胞1つ1つの重さは非常に軽く、人間の平均的な細胞の重さは数ナノグラムしかないため、振動を計測したり動きを観察するのは困難です。
それが生きている細胞となれば、さらに困難を極めることでしょう。
研究者たちはどのようにして、この問題を突破したのでしょうか?
ヒト細胞の共鳴周波数を特定する
生きているヒト細胞の共鳴周波数をどうやって測るのか?
理論的には2つの方法が存在します。
1つはワイングラスや音叉、そして崩壊する橋のように、外部から振動を与えて、細胞の揺れやすい振動パターンを探すという方法です。
しかし生きている細胞の場合、実験に使用する振動によって細胞の生命活動に影響が及んで細胞が変質してしまい、測定結果が「本当にもともとの細胞の共鳴周波数かどうか」の区別がつかなくなってしまう可能性があります。
そこで今回の研究ではもう1つの方法として、細胞の振動をダイレクトに計測する方法が考案されました。
外から振動を与えて細胞の揺れやすさを確認するのではなく、生きている細胞そのものの自然な振動パターンを計測できれば、そこから共鳴周波数を導くことが可能だからです。
調査に当たってはまず、生体環境に近い状態でヒト細胞を保持したまま、高い周波数まで測定できる手法を模索しました。
そこで選ばれたのが、下の図のような微小なカンチレバー型センサーを用いて細胞の熱的ゆらぎ(熱運動)を直接読み取る方法です。
カンチレバーとは、一端が固定され、もう一端が自由に動ける極小サイズの「板バネ」のようなもので、そこに細胞を接着し、カンチレバー自身の微小な振動をレーザーで検出することで、細胞の“自然な揺れ”を拾い上げることが可能になります。
実際の実験では、まずファイブロネクチンなどの接着因子を用いてカンチレバー表面に生きているヒト乳房細胞を固定しました。
そして培養液中で細胞が生きた状態のまま、1 kHzから1 MHzにおよぶ幅広い周波数領域でカンチレバーの振動スペクトルを高精度に計測します。
微小なカンチレバーは周波数帯ごとに特有の振動モード(曲げやねじれ)を持ちますが、細胞が接着しているときだけ異常なピークやスペクトル変化が表れるため、そこから細胞固有の振動モード――すなわち、共鳴周波数を逆算することができるのです。
この方法を繰り返し検証した結果、ヒト乳腺細胞においては10〜30 kHz近辺と150〜180 kHz近辺で振幅の大きなピークが見られ、理論モデルによるシミュレーションとも一致したことが明らかになりました。
注目すべきは、10〜30 kHz付近という周波数帯が、人間の可聴域(おおむね20 Hz~20 kHz)と重複していることです。
また細胞の質量は比較的安定しており、約4.08 ngから±5%の範囲で変動しました。
こうした成果から研究者たちは、細胞の共鳴周波数を「健康な細胞と病変細胞を区別する指紋」として活用できる可能性を示唆しています。
たとえば、がん細胞だけが示す特異的な共鳴周波数を狙い撃ちできれば、周囲の正常細胞を傷つけずに病巣だけを破壊できるかもしれません。
これは超音波治療や音響治療の分野を大きく前進させるアイデアとなり得るでしょう。
加えて、骨折治療や組織再生における超音波利用の精度をさらに高めることも視野に入ります。
さらに、より高い周波数でも測定できる微小な装置(マイクロメカニカル共振器)の開発が進めば、観察できる細胞の「振動モード(揺れ方)」が増えて、今よりずっと詳細な「細胞振動分光法」を確立できるでしょう。
振動の細かい情報を正確にとらえられるようになれば、がん細胞の破壊だけでなく、細胞がいまどんな状態なのかをリアルタイムで見極め病気の早期発見や新しい治療方法の開発に大きく貢献する可能性があります。
研究チームは今後、異なる種類の細胞や病巣細胞に対しても同様の測定を行い、その指紋とも言うべき周波数マップを体系的に構築していく予定だと述べています。
元論文
Measuring Vibrational Modes in Living Human Cells
https://doi.org/10.1103/PRXLife.2.013003?_gl=1*ij52yi*_gcl_au*MTQ1MjgyNDczMS4xNzMyNjY0MTEx*_ga*NDc0MDg5NTkwLjE3MjAzOTI3NTM.*_ga_ZS5V2B2DR1*MTczNTE3ODczNS41OS4wLjE3MzUxNzg3NjEuMzQuMC44OTM3NjAwMw..
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部