夜の帳が降りるころ、城下町は、燭台の揺らめく光の中に沈んでいました。
城内の一角では、家老たちが深刻な面持ちで集まっています。
議題はただ一つ――「主君押込」。
すなわち、大名を強制的に閉じ込めることです。
言うまでもなく江戸時代の大名は強い権力を持っており、家臣を手討ちにすることさえ認められていました。
にもかかわらず、なぜこのようなことが起きたのでしょうか?
この記事では、主君押込の一連の流れを紹介していきます。
なおこの研究は、笠谷和比古(1986)『<論説>近世の大名諸家における主君「押込」の慣行』史林69巻1号p.1-52に詳細が書かれています。
目次
- 何重にもわたる根回しが必要であった主君押込
- 押込められたとしても復活のチャンスはあった
何重にもわたる根回しが必要であった主君押込

そもそも、大名たるもの、己の立場を弁えて然るべきです。
しかしながら、時代が時代、身分が身分、主君たちはしばしば「やりすぎてしまう」ことがありました。
新たな法を定め、専制を志向し、果ては領内の財政を危機に追いやるほどの浪費を行う大名は少なくなく、こうした主君に仕える家臣団が「これでは藩が傾く!」と青ざめるのも無理はないでしょう。
しかし主君押込の動機が主君本人の抱える問題にある場合ばかりというわけではありません。
中には主君の政治路線を巡り、反対派の家臣たちが失脚させるために行おうとすることもありました。
この主君の押込を決定するのは、もっぱら家老たちの役目です。
もちろん、「殿が少々調子に乗っているから押し込もう!」などと軽率に決めるわけではありません。
問題は慎重に討議され、綿密な計画が練られます。
また主君の押込は、ただ家老たちの独断で決行できるものではありません。
藩の存続を左右する大事である以上、主君の親戚たちの了承が不可欠でした。
さらに主君の親戚たちの了承を取り付けたとしても、計画はこれで終わりではありません。
主君押込を成功させるためには、最後にして最大の難関である幕府の同意を取り付ける必要があるのです。
江戸幕府は基本的に、大名家の内部問題には深入りしません。
しかし、主君の押込ともなれば話は別です。
主君押込に対し、幕府は慎重に対応していました。
事を荒立てれば、藩内が混乱し、場合によっては幕府の権威に傷がつくからです。
そこで、幕府の重役たちは密かに「内意」を発し、「黙認」という形を取ることが多かったのです。
こうして、各方面への根回しを終え、家老たちはようやく主君押込を決行することができるのです。
押込められたとしても復活のチャンスはあった

押込の執行は、一種の儀式でした。
家老・重臣たちは主君の面前にずらりと列座し、最年長の家老が厳かに宣言します。
「お身持ちよろしからず。お慎みあるべき。(殿の行動はよくありません。しばらく反省していただきます。)」
こうして、家老の指揮のもと主君から手際よく大小の刀を取り上げ、その身柄を座敷牢へと運びます。
ここまでの流れが極めてスムーズなのは、こうした出来事が珍しくも何ともないからです。
しかし主君押込は、主君を座敷牢に閉じ込めさえすればこれで終わりというわけではありません。
主君押込の恐ろしさは、それが一発勝負のゲームではないという点にあります。
江戸初期の頃は、押込はすなわち強制隠居であったものの、時代が下るにつれ、「再出勤」という概念が生まれました。
つまり、主君が改心すれば、復帰の道が開かれるのです。
「わたくし、誠に深く反省いたしました。」
そう主君が認め、家老たちが「殿は心を入れ替えたのだ」と判断すれば、監禁が解かれ、再び君位へと戻ることができるのです。
とはいえ、これは家臣たちにとって大きな賭けです。
もしも主君が復帰した途端、「おのれ裏切り者ども!」と報復を始めたらどうでしょうか?
実際、上山藩(現在の山形県上山市)では主君が復帰後に家臣たちへの復讐を試み、二年後に家老が粛清されるという出来事も起きています。
にもかかわらず家老たちが主君に復帰する機会を与えていたのは、主君押込はあくまで主君の不行跡に対する必然的な制裁であり、決して主君に対する反逆行為ではないという考えがあったからであると言われているのです。
しかし主君の再出勤が認められる場合ばかりではなく、中にはそのまま隠居させられる場合もあり、それが最も家老側にとって平和的な解決策と言われていました。
この場合は幕府に対して病気などの理由で隠居願いを出し、幕府はたとえ大名が若くて健康そのもののであったとしても、その理由を疑うことなく隠居願いを受理しました。
もちろん、主君押込が全て再出勤や隠居などといった形で収まるわけではなく、中には暗殺される場合や生涯座敷牢に監禁される場合もあったのです。
家臣が救出することは事実上不可能だった主君押込

このような手順で行われた主君押込ですが、手順の中に幕府の同意を取り付ける場面があることからわかるように、幕府公認で行われていました。
もちろん幕府は主君押込を実行した家老たちに対して厳しい処分を下す場合もあったものの、あくまで主君押込の妥当性や事後対応を問題視して処分を下したのであり、主君押込そのものを問題視していたわけではありません。
また当の主君側も主君押込という行為は家臣たちの正当な行為であると認識しており、それ故主君押込が起こった際に深く反省する主君も多かったのです。
また一旦主君押込で主君が閉じ込められてしまったら、家老たちの許し以外の方法で主君を救い出すことは事実上不可能でした。
たとえば加納藩(現在の岐阜県岐阜市)では、家臣の一部が閉じ込められた主君を救い出すために奔走し、その中には幕府に家老たちの不義を訴えたもののいました。
しかし幕府の裁きではこれらの奔走は全く評価されず、むしろお家騒動の原因になったと厳しく断罪され、訴えた家臣は死罪の判決が下ったのです。
このように主君押込は、ただ単に主君を排除するための単調な手段ではなく、忠誠心と家中の絆を再確認するための、時に哀愁漂う演劇として、江戸時代の中でその普遍性を確固たるものにしていったのです。
参考文献
Kyoto University Research Information Repository: <論説>近世の大名諸家における主君「押込」の慣行
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/238848
ライター
華盛頓: 華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。
編集者
ナゾロジー 編集部