私たちは「忘れる」ことを失敗や老化の象徴のように思いがちです。
しかし実は、もともと「忘却」は脳のエラーや衰えではなく、脳が積極的に行っている高度な“整理整頓”作業であることが、オーストラリアのフリンダース大学(Flinders University)の最新研究によって明らかになりました。
線虫の実験から、脳内の神経伝達物質「ドーパミン」が「不要な記憶を消去するカギ」を握っていることを示したのです。
本研究は、2025年8月19日付の『Journal of Neurochemistry』誌に掲載されました。
目次
- 「忘れる」ことの意味とは?ハエから線虫の研究へ
- ドーパミンを作れない線虫は「忘れることができない」と判明
「忘れる」ことの意味とは?ハエから線虫の研究へ
私たちの脳は、毎日膨大な情報を受け取っています。
だからこそ「忘れること」は、脳が“本当に必要な情報だけ”を選び残すために必要です。
しかし、こうした「忘却」という現象が「どのような仕組みで起きているのか」については、長年ほとんど分かっていませんでした。
「不要な記憶が消される」プロセスも謎にに包まれていたのです。
ところが近年、ショウジョウバエ(Drosophila melanogaster)の研究で「忘れることは受動的というよりも、神経回路の働きによる能動的なプロセスである」ことが示されました。
特にハエの脳では「ドーパミン」という神経伝達物質が忘却に関与していました。
ドーパミンといえば、快感・喜び・意欲・運動・学習に関わっていることで有名です。
では、この仕組みは本当に他の生き物やヒトにも共通するものなのでしょうか?
そこでフリンダース大学の研究チームは、「線虫(Caenorhabditis elegans)」という極めてシンプルな動物モデルに注目しました。
線虫は体長1ミリ程度、わずか300個の神経細胞しか持たないにもかかわらず、ヒトと約8割もの遺伝子を共有しています。
分子レベルでも多くの共通点があるため、脳の基本原理を調べるのに適した生き物です。
実験では、線虫に「特定の匂い」と「エサ」を組み合わせて覚えさせ、どれだけ長くその匂いを“エサの手がかり”として記憶し続けるかを測定しました。
同時に、ドーパミンを作れない変異体や、特定のドーパミン受容体が壊れた変異体など、様々な遺伝子改変株を使い、ドーパミンと忘却の関係を徹底的に調べ上げました。
ドーパミンを作れない線虫は「忘れることができない」と判明
実験の結果は驚くべきものでした。
まず、ドーパミンをまったく作れない変異体(cat-2変異体)の線虫は、普通の線虫よりも「匂いとエサの記憶」をはるかに長く持ち続けることが判明。
通常は数時間で消えるはずの記憶が、何時間も消えないまま保持されていました。
つまり、「ドーパミンが足りないと、記憶がなかなか消えなくなる」のです。
言い換えれば、ドーパミンが“忘れる”プロセスを積極的に促進していることが明らかになりました。
さらに、ドーパミンが働く「受容体(アンテナ)」の役割も重要であることがはっきり示されました。
実験では、ヒトのD2型受容体に似たDOP-2とDOP-3という2つの受容体が、協調して忘却を調節していると分かりました。
線虫において、この2つの受容体の両方を失うと、やはり「記憶が消えにくい」=“忘れられない”状態が生じたのです。
また、ドーパミンを「特定の神経細胞だけ」で補ってみても、記憶は元通りには消えてくれませんでした。
「脳全体のドーパミンネットワーク」が連携してはじめて、正常な忘却プロセスが実現することも分かったのです。
これらの結果から、「忘れる」時には、脳全体で”能動的に情報を削除するプログラム”が働いていると言えます。
そして、そのプログラムの“削除ボタン”が、まさに「ドーパミン」なのです。
この研究について、責任著者のChew博士はこう語っています。
「もし全てを覚えていたら、脳は情報で圧倒されてしまいます。
忘却は、私たちが集中力や柔軟性を保つために不可欠なのです」
この仕組みはハエや線虫、そして人間にも共通する“生物の根源的な脳の働き”である可能性が高いと考えられています。
ヒトのパーキンソン病や加齢に伴う記憶障害、さらには“嫌な思い出が消えない”といった現象も、「ドーパミンによる忘却システムの異常」と深く関係しているかもしれません。
今後は、ドーパミンが脳内でどのようにして「不要な記憶」を“見分けて消去”しているのか、その分子メカニズムや神経回路をさらに詳しく解明することが期待されています。
参考文献
The finely-tuned act of forgetting: Dopamine may also play key role in memory loss
https://medicalxpress.com/news/2025-09-finely-tuned-dopamine-play-key.html
元論文
Dopaminergic Modulation of Short-Term Associative Memory in Caenorhabditis elegans
https://doi.org/10.1111/jnc.70200
ライター
矢黒尚人: ロボットやドローンといった未来技術に強い関心あり。材料工学の観点から新しい可能性を探ることが好きです。趣味は筋トレで、日々のトレーニングを通じて心身のバランスを整えています。
編集者
ナゾロジー 編集部