私たち人間は非常に豊かな食文化を持ちますが、それは何世代にもわたる試行錯誤の結果、“食文化”として受け継いだものです。
もし誰からも何も教わらず、「自分の勘だけ」で食べ物を試す生活だったとしたら、現代の私たちはこれほど豊かな食事のレパートリーを維持することはできなかったでしょう。
しかし、こうした食文化を生み出し継承するのは人間だけなのでしょうか。
こうした疑問について、ドイツのマックス・プランク動物行動研究所(Max Planck Institute of Animal Behavior)とスイスのチューリッヒ大学(University of Zürich)を中心とする国際研究チームは、インドネシア・スマトラ島のスアク・バリンビン(Suaq Balimbing)という湿地林で12年間にわたりオラウータンの行動を記録して調査しました。
スマトラの熱帯林に棲む、およそ250種類もの食べ物を知っていると言われ、実に複雑で多様な食生活を送っています。
このオラウータンの多彩な食生活は、到底「自分一人だけの努力」で、身につけているとは考えられません。
そこで研究チームは、膨大な調査データを基に「もし幼いオラウータンが、母親のすぐそばで観察したり、一緒に食べたりする機会を大きく減らされたらどうなるか」をコンピュータ上で再現したのです。
その結果、オラウータンの食生活は、単なる本能や個人的な試行錯誤だけでは説明できず、何世代にもわたる「発見」と「まね」の積み重ねがあって初めて成立する、「文化的依存」の食生活である可能性が示されたのです。
この研究の詳細は、2025年11月付けで科学雑誌『Nature Human Behaviour』に掲載されています。
目次
- 森の「食の達人」はどうやって育つのか?
- 食の“文化”が生まれた必然:オラウータンだけが抱えた環境と進化の事情
森の「食の達人」はどうやって育つのか?
オラウータンの食卓は、見た目よりはるかに複雑です。
南国の果物をむしゃむしゃ食べているだけに見えますが、実際には熟し具合を確かめ、硬い殻を割り、えぐみの強い部分を避け、季節ごとに全く違う種類の植物を選び分けています。
研究者の観察によると、成体のスマトラオラウータンはおよそ250種類もの食べ物を“扱える”といいます。
この数は、まるで料理番組のレシピのように手順が多く、人間のコンビニで売られている商品数と比べても引けを取らないようです。
これほどの食生活を、幼いオラウータンはどのように身につけているのでしょうか。
オラウータンの子どもは、生後まもなく母親の体にしがみつき、そこから数年間ほとんど離れずに過ごします。
母親が木の実を食べ始めれば、すぐそばでじっと見つめ、手の動かし方や実の割り方を観察します。
母親が森の奥へ移動すれば、そのあとをぴったりついていき、新しい木や食べられる場所を覚えます。
まるでレシピ本を読むのではなく、料理人の手元を見ながら技を覚えるような、実践型の学び方です。
今回の研究チームは、この「見て覚える」力がどれほど重要なのかを確かめるため、12年以上にわたって記録してきた野生オラウータンの詳細な行動データを用いて、幼いオラウータンがどのように知識を増やしていくのかをコンピュータ上で再現するモデルを作り上げました。
そのうえで、母親や周囲の個体を手本にできる場合と、「食べ物のある場所には一緒に行くものの、近くでじっくり観察したりまねしたりはできない」というように、手本からの学びが大きく制限された場合の2つのシナリオを比較しました。
結果は非常にわかりやすいものでした。
社会的な学習があるシナリオでは、幼い個体は成長とともに食べられる植物の種類をどんどん増やし、成体が持つ幅広い食レパートリーに近づいていきます。
一方、近くで誰かの行動を観察してまねすることができない条件では、覚えられる種類が大きく限られ、独り立ちの頃に必要と考えられるレベルには届かないことが示されたのです。
つまり、オラウータンの食生活は、単なる本能や偶然の積み重ねではありません。
それは長い時間をかけて母から子へと受け継がれてきた、文化的な知識のバトンであり、森で生き抜くための大切な“家庭の味”だったというわけです。
しかしなぜオラウータンは “文化” と呼べるほど複雑な食生活を持つようになったのでしょうか。
例えば、同じくらい知能の高いチンパンジーでも、文化的継承が必要なほどの複雑で多様な食のレパートリーは持っていません。オラウータンにはなぜそれが必要だったのでしょうか。
食の“文化”が生まれた必然:オラウータンだけが抱えた環境と進化の事情
オラウータンの食生活が文化に強く依存している理由はなんなのでしょうか?
研究が示したのは、彼らの棲む森そのものが、文化を必要とするほど“ややこしい”条件をもっているという点でした。
まず、オラウータンが暮らすスマトラやボルネオの熱帯雨林では、植物が一斉に実る「マスト・フルーティング」と呼ばれる現象が周期的に起こります。
豊作の年は森が果実であふれますが、外れ年は驚くほど食べ物が少なくなります。
この不安定さの中で暮らすためには、果実に依存するだけでは明らかに生存が難しくなるのです。
そこでオラウータンは、果実のない時期にも食べられる植物を次々に使いこなす必要が生じました。
樹皮、種子、若葉、えぐみのある果実…人間なら「下ごしらえが必要」と言いたくなるような食べ物ばかりです。
しかも種類が多く、それぞれに違う扱い方があります。
殻の割り方、渋みの抜き方、熟し具合の見極め方など、覚えるべき手順は決して単純ではありません。
さらに、幼いオラウータンの行動範囲は大人より狭く、見つけられる植物の種類にも限りがあります。
もし自力で手当たり次第に試して覚えようとしたら、出会える食べ物の数もタイミングも限られ、成体が持つレパートリーに届かないまま成長してしまいます。
論文が示したモデルでも、幼体は多くの食物と出会う機会こそあるものの、社会的な学習なしでは学習のスピードが追いつかず、独り立ちまでに必要な幅広いメニューに到達できないことが示されました。
シミュレーションでは、幼体には何十万回もの食物との出会いのチャンスが与えられていましたが、それでも「出会いだけ」では、母親からの文化的な助けを埋め合わせることはできなかったのです。
こうした複雑さに加え、オラウータンの生活はほとんど母子のペアだけで行われます。
チンパンジーのように大きな群れが周囲にいるわけではなく、情報源はほぼ母親のみです。
環境の不安定さ、食べ物の難しさ、単独生活という三つの条件が重なり、文化を介して知識を受け取らなければ生き残れない構造が、結果的にオラウータンの進化に組み込まれたと考えられます。
同じように知能の高いチンパンジーも文化的な行動を持ちますが、この点で事情は少し異なります。
彼らが暮らすアフリカの熱帯林は、オラウータンの生息地ほど極端な果実の大不作と大豊作が繰り返される環境ではないと考えられています。
チンパンジーの文化が生存にどこまで必須なのかはまだ研究途上ですが、今回の研究は少なくとも、オラウータンでは環境と生活様式の条件が重なった結果、食生活がとくに文化に強く依存するようになったようです。
つまり、オラウータンの複雑な食生活は、知能の高さゆえに進化したのではなく、むしろ環境と生活様式の組み合わせによって“複雑ではないと生き残れなかった”という必然の産物だったと言えます。
文化は効率のための便利な道具となり、危険を避け、生存を安定させるための防御策として働いてきたのです。
この研究は、オラウータンにとって文化がどれほど重要であるかを改めて示しただけでなく、動物における「文化」の意味そのものを考え直す手がかりにもなります。
地域ごとの食の違いがどのように生まれるのか、母親以外の個体との関係からどんな影響があるのか、そして森林破壊によって文化そのものが失われる可能性があるのかなど、今後の探究すべき課題は多く残されています。
森で静かに受け継がれてきた“食の文化”は、オラウータンが長い時間をかけて獲得してきた生存戦略の結晶です。これは文化とはどのように発生するのかを考える上でも興味深い事例でしょう。
参考文献
Orangutans can’t master their complex diets without cultural knowledge
https://www.mpg.de/25748327/orangutans-can-t-master-their-complex-diets-without-cultural-knowledge
元論文
Culture is critical in driving orangutan diet development past individual potentials
https://doi.org/10.1038/s41562-025-02350-y
ライター
相川 葵: 工学出身のライター。歴史やSF作品と絡めた科学の話が好き。イメージしやすい科学の解説をしていくことを目指す。
編集者
ナゾロジー 編集部

