日本の理化学研究所(RIKEN)で行われた最新の研究によって、たった1個の人間の細胞が自分の「利き手」(キラリティ)を持っていること、そしてこの「利き手」が左右の違い(左右非対称性)を決める新しい仕組みが明らかになりました。
私たち人間の体は、一見すると左右対称のように見えますが、心臓が左側に寄っているように内部は左右で異なる構造を持っています。
このような左右非対称性がどのように決まるのかは生物学の謎でしたが、今回の研究で、細胞の背中側にある「アクトミオシンリング」と呼ばれる輪のような構造が、細胞を時計回りに回転させる役割を持つことが実験と理論の両面から示されました。
このリングは左右対称に見えるのに、なぜ一方向だけの回転を引き起こせるのでしょうか?
研究内容の詳細は2025年7月8日に『eLife』にて発表されました。
目次
- 細胞にも右利きと左利きがあるという驚き
- 私たちの体の「左右の違い」は1個の細胞から始まっていた
- 「細胞の利き手」の意外な仕組み
細胞にも右利きと左利きがあるという驚き

私たちの体を鏡に映すと、たしかに「左右対称」に見えるかもしれません。でも、少し視点を変えてみると、不思議な左右の“違い”が見えてきます。
たとえば、心臓はほとんどの人で体の左側に寄っていて、肝臓は右側。顔もよくよく見ると、微妙に左右で形や表情が違っています。
この「左右非対称性(さゆうひたいしょうせい)」は、人間だけでなく、動物や植物にも当てはまります。
身近な例だと、カタツムリの殻。右巻き・左巻きの種類があり、どちらに巻くかは生まれつき決まっていて、一つの種の中でもほとんど例外がありません。
実は魚やカエルの内臓の並び方も、必ず決まった“向き”を持っています。左右非対称は、体の“設計図”にあらかじめ書き込まれているのです。
なぜ生き物はこんなふうに「左右」を分けているのでしょうか?
単なる偶然ではありません。たとえば私たちの心臓が体の中央ではなく左側にあるのは、血液の流れや内臓どうしの位置関係を効率よく保つためだと考えられています。カタツムリの巻き方も、殻の強度や繁殖戦略に影響していることが研究から分かってきました。
でも、「どうやって体の左右が決まるの?」という問いは、生物学の最大級の謎のひとつです。卵から一つの細胞として始まった命が、どうやって“右”と“左”を見分けて体を作っていくのか——。
このミステリーに挑む研究は、カタツムリ、ショウジョウバエ、カエル、マウスなど、さまざまな生物で進められてきました。
最近になって、この謎に迫るカギが「細胞そのもの」に隠されていることが分かってきました。
私たちの体は数十兆個の細胞からできていますが、実はその細胞一つひとつにも「利き手」がある――そんな驚きの発見が、さまざまな生物で報告されています。
この細胞レベルの“利き手”は、科学用語で「キラリティ」と呼ばれます。
右手と左手のように、見た目はそっくりでも決して重ね合わせることができない性質。
それが、細胞にも備わっているのです。
具体的には、例えば神経細胞をシャーレの中で育てると、そこから伸びる突起が右巻き、もしくは左巻きの「ぐるぐる回る」動きをすることがあります。
また、皮膚などにある「繊維芽細胞」では、細胞骨格がらせん状に配列されるパターンが観察されています。
どちらも、細胞が自分自身の「右・左」をもって動いている証拠です。
けれども、なぜ細胞はこうしたキラリティを持つのでしょう?
そのヒントは、さらに小さな“分子の世界”にあります。
タンパク質やDNAなど、細胞を作る材料の多くは、実は「右巻き」「左巻き」といったねじれた形(キラリティ)をしています。
この“分子レベルのねじれ”が、細胞の骨組み=細胞骨格の中で規則正しく並び、さらには細胞全体の「回転運動」にまで発展していく――そんな「ミクロからマクロへ」の階層的な情報伝達が、生命の左右非対称性の根源かもしれない、と考えられるようになってきたのです。
実際、細胞骨格をつくる「アクチン」や「微小管」という糸状のタンパク質、アクチンを動かす「ミオシン」、アクチンを伸ばす「フォルミン」などは、それぞれ独自の“向き”や“回転”をもっています。
これらの分子が特定のパターンで動くことで、細胞が“決まった方向”に回る性質――まさに「細胞の利き手」が現れるのです。
しかし、「分子のねじれ」がどうやって細胞全体の動きに変換されるのか。
そのプロセスは、長年「ブラックボックス」でした。
そこで今回の研究は、ヒトの腸の上皮細胞(Caco-2細胞)を使い、最先端の顕微鏡と理論シミュレーションを駆使して、この“ねじれから回転へ”のしくみを、ミクロからマクロまで可視化したものです。
分子レベルの小さなねじれが、どのように細胞全体の大きな回転に変換されるのでしょうか?
私たちの体の「左右の違い」は1個の細胞から始まっていた

今回の研究では、ヒトの大腸がんから作られた「Caco-2細胞」という特殊な細胞を実験に用いました。
この細胞は実験室でよく使われるもので、人の腸の表面をつくる細胞に性質がよく似ています。
研究チームは、このCaco-2細胞を1つ1つバラバラの状態で育てて、顕微鏡でじっくりと観察してみました。
すると驚くことに、観察したほぼ全ての細胞で、細胞の中心にある「核」とその周りの「細胞質」が時計回り(右回り)に回っている様子が確認されました。
核とは細胞の中心部分にあって、遺伝情報(DNA)が入っているとても重要な場所です。
細胞質は核の周りを埋めているゼリーのようなもので、細胞の中でさまざまな活動が起こっています。
核と細胞質が一体となって、まるで小さなコマのようにぐるぐると右回りに回転していたのです。
この回転の速さを測ったところ、平均で1時間に約50度の速度であることが分かりました。
さらに興味深いことに、核が反時計回り(左回り)に回転している細胞はまったく見られませんでした。
こうした一方向だけに回転する現象は、この細胞が明確に「右回りの利き手」を持っていることを意味しています。
では、どうして細胞が右回りに回ってしまうのでしょうか?
研究チームは、この謎を解くために、細胞の内部を支える「細胞骨格」という構造に注目しました。
コラム:細胞骨格って、どんなもの?
「骨格」と聞くと、私たちの体の中にある固い骨や、カルシウムでできた“骨”を思い浮かべるかもしれません。でも、細胞の中に“骨”のような固いものが入っているわけではありません。細胞骨格(英語では「cytoskeleton:サイトスケルトン」)とは、実はとても細くてしなやかな“糸”や“ネット”が、細胞の中を縦横無尽に張りめぐらされている状態のことです。この細胞骨格は、いわば「細胞の中の“秘密の骨組み”」。柔らかいゼリーのような細胞質の中で、細胞の形をしっかり保ったり、動かしたり、力を伝えたりする役目を果たしています。たとえるなら、テントの中に張ったロープや、風船の中に隠れているゴムの骨組みのようなもの。実際の細胞骨格は、太さが数ナノ~数十ナノメートルという超極細の“糸”でできていて、いくつかの種類があります。これらの細胞骨格は、必要に応じて組み立てたり分解したりできる“動く骨組み”であり、私たちの体の骨のように硬くて動かないものではありません。つまり、細胞骨格とは、「細胞の中で形づくりと運動を支える、しなやかで生きた“骨組み”」なのです。
細胞骨格は、私たちの体で言えば骨や筋肉のような役割を持ち、細胞の形を支えたり動きを作ったりしています。
主に細胞骨格を作っているのは「アクチン繊維」と「微小管」と呼ばれる2種類の糸状の構造です。
これらが細胞の中でどんな配置をしているのかを調べたところ、面白いことが分かりました。
細胞の外側の方にあるアクチン繊維(ストレスファイバー)は、細胞の中心から見て時計回り方向にらせん状の模様を描いていました。
一方で、微小管は逆に反時計回りの模様を描いていました。
つまり、細胞の中には「時計回り」と「反時計回り」の2つの渦巻き模様が共存していたのです。
このことから、研究チームは「細胞骨格が、細胞の回転方向を決める鍵を握っているのではないか」と考えました。
そこで次に、細胞骨格が回転にどのように関わっているのかを確かめるため、ある実験を行いました。
細胞骨格の働きを部分的に止める薬を使い、それによって細胞の回転がどう変わるかを調べました。
まず微小管の働きを止める薬を使ったところ、細胞の回転はまったく止まりませんでした。
一方、アクチン繊維の働きを止める薬を使うと、回転は完全に止まってしまいました。
さらに、アクチン繊維を動かす役割を持つ「ミオシンII」というタンパク質の働きを止めても、細胞の回転は大きく低下しました。
この結果から、細胞の回転を生み出している重要な仕組みは、微小管ではなく、アクチンとミオシンIIからなる「アクトミオシン系」にあることが分かりました。
例えるなら、細胞を回すエンジンの正体はアクトミオシンという筋肉のような仕組みだったのです。
では、このアクトミオシンがどのように回転を生み出しているのでしょうか?
研究チームは、この仕組みをもっと詳しく調べるために、アクチンの働きを調節するタンパク質「フォルミン」にも注目しました。
フォルミンはアクチン繊維を伸ばす際に、ねじりながら組み立てる性質があり、細胞の回転を生み出す仕組みに関係していると考えられていました。
研究チームは、「もしフォルミンの働きを止めたら細胞の回転が止まるのでは?」と予想して実験を行いました。
ところが意外にも、フォルミンを止めても細胞の回転は止まるどころか、むしろわずかに速くなってしまいました。
このとき細胞内部のアクチン繊維の配置を詳しく観察すると、細胞の外側にあった渦巻き状のアクチンが完全に消え、代わりに細胞の中心近くに同心円状のリング構造(輪っか)が強く現れていました。
つまり、渦巻き状の構造がなくなっても、細胞の回転が続くということは、このリング状のアクチンこそが回転を起こしている可能性を強く示しています。
このリング構造は、「アクトミオシンリング」と名付けられました。
さらに詳しく観察すると、このリングは細胞の背中側(細胞の上面側)に形成されており、細胞の内部で核の周りを時計回りにぐるぐると回っていることが確認されました。
さらに、このリングの内側付近が最も速く回転していることも分かりました。
これらの結果から、細胞が回る仕組みを生み出しているのは、細胞の背中側にできるアクトミオシンリングであることが強く示されたのです。
しかし、ここで新たな謎が生まれます。
円形の「アクトミオシンリング」という輪っかが、どうして特定の方向、つまり時計回りだけに細胞全体を回転させることができるのでしょうか。
普通に考えれば、左右どちらにも回りそうなものです。
この不思議な現象を解き明かすために、研究チームは「理論」という武器を使って挑みました。
この理論のヒントは、最近の物理学で注目されている「アクティブマター」という考え方にあります。
アクティブマターとは、自分で動く力を持つ小さな粒子が集まって、思いもよらないパターンや動きを生み出す現象のことです。
たとえば鳥の大群や魚の群れが一斉に向きを変えるとき、あるいは細胞が自発的に移動したり形を変えたりするときにも、アクティブマターの考え方が使われます。
今回の研究では、特に「アクティブカイラル流体(流体=液体や気体のように流れるもの)」という理論モデルを用いました。
これは、細胞の中のアクトミオシンリングのように、ただ流れるだけでなく“ねじる力(トルク)”も持つ特殊な“動く流れ”を数式で表す考え方です。
イメージとしては、単に水が流れるのではなく、輪ゴムのように自分でグルグルねじれて流れる“渦”が生まれるようなものです。
この理論を細胞の実験結果に合わせてシミュレーションしてみると、なんと、実際の細胞と同じようにアクトミオシンリングの位置――つまり細胞の背中側(上側)にリングがある場合だけ、時計回りの回転が生まれることが分かりました。
さらに、リングが細胞の下側(腹側)にあるように人工的に位置を変えると、細胞の回転は完全に止まってしまう、という予測も立てられました。
この理論の正しさを確かめるため、研究チームは実際に細胞で追加の実験を行いました。
薬を使って、もともと背側(上側)にあったアクトミオシンリングを下側(腹側)へ“引っ越し”させてみたのです。
すると、理論通り、細胞の回転はピタリと止まりました。
つまり、細胞が右回りに回転するためには、“同心円状のアクトミオシンリングが背側にあること”が絶対に必要だと証明されたのです。
ここで注目すべきは、アクトミオシンリング自体は「非キラル構造」、つまり見た目には左右対称で、一方向への“クセ”を持っていません。
それなのに、実際の細胞では“時計回り”という一方向だけの動きが生まれる――これは従来の常識を覆す発見でした。
分子レベルのちょっとした「ねじれ」が、細胞全体の大きな“動き”に伝わり、しかもそれが顕微鏡でもはっきり観察できる「現象」として現れるのです。
この一連の研究によって、これまで謎だった「細胞がどうやって自分の“利き手”を決め、左右の違いを作り出しているのか」という問いに、大きな一歩が踏み出されました。
ミクロな分子の“ねじれ”が、細胞スケールの“ダンス”を生み、その積み重ねが生物の体の“左右”という壮大な物語につながっていく――そんな生命の不思議とロマンを感じさせる成果となったのです。
「細胞の利き手」の意外な仕組み

今回の研究によって、細胞が回転する仕組みについて、これまでとはまったく違う新しい視点が得られました。
これまで、細胞が「利き手(キラリティ)」を持つ仕組みを説明するときには、細胞の中で観察される「渦巻き模様」のような構造や、特定のタンパク質(例えばフォルミンなど)が重要だと考えられてきました。
しかし、この研究で使ったCaco-2細胞という細胞では、こうした渦巻き状の模様がなくなっても、細胞が回転を続けることが明らかになったのです。
しかも、細胞の中心付近に新しく見つかった「同心円状のアクトミオシンリング」が、細胞の回転を起こす駆動力(エンジン)のような役割を果たしていることが分かりました。
つまり、細胞の回転の原動力は、これまで考えられてきた渦巻き状の構造や特定のタンパク質とは異なり、まったく新しいところにあったということです。
なぜこの発見が非常に興味深いのでしょうか?
それは、一見して「左右対称」な円形の構造が、実は「一方向だけの回転」を生み出すという意外な結果だからです。
普通ならば、左右対称な構造はどちらか一方の回転方向に偏る理由がありません。
しかし、この研究の実験と理論の両面から、細胞の背側(細胞の上面側)にある同心円状のリング構造(アクトミオシンリング)が、細胞内で時計回りに回転するための駆動源になっていることが明確に示されたのです。
これは、細胞が自分自身の「左右(回転の向き)」を決定する全く新しい仕組みを発見したことになります。
一方、この研究はまだ完全な答えを出したわけではありません。
なぜなら、この実験で使った細胞は「Caco-2」という特定の1種類の細胞に限られているからです。
このCaco-2細胞で見られた新しい仕組みが、他の種類の細胞にも当てはまるのか、あるいは細胞の種類ごとに異なる仕組みがあるのかはまだ分かっていません。
そのため、この仕組みが生き物の体の中でどれほど広く一般的に使われているのかを確かめるためには、これから他の細胞でも詳しく調べていく必要があります。
また、今回使ったCaco-2細胞にはもう一つ重要な特徴があります。
それは、この細胞が集まって「上皮組織」という膜のような構造を作ることができるという性質です。
上皮組織というのは私たちの体を外界から守っている皮膚や腸の内側を覆う膜のような組織で、多くの細胞が協力してできています。
もしCaco-2細胞が単独で持つこの「回転する仕組み」が、細胞が集まった多細胞の組織になったときにも見られるのだとしたら、組織や器官の左右非対称性がどのようにして生まれるのかを調べるための非常に良いモデルになる可能性があります。
つまり、1つの細胞のキラリティ(利き手)が、多くの細胞が集まった組織のレベルでのキラリティにどのようにつながっているのかを知る上で、このCaco-2細胞はとても役に立つ存在になるかもしれないのです。
この問題を解明するためには、今後の研究で細胞が集団になったときにどのような動きを示すのか、単一の細胞のキラリティがどのように組織全体のキラリティにつながっていくのかを詳しく調べていく必要があります。
今回の研究で明らかになった細胞の回転運動を生み出すアクトミオシンリングの仕組みは、生き物の体全体に見られる「左右非対称性」の謎を解くための重要な一歩になるかもしれません。
研究チームはこれからも、「分子のねじれ」→「1つの細胞の回転」→「細胞集団(組織)」→「生物個体」という、より広い階層へとつながる左右非対称性の仕組みを、一つ一つ明らかにしていこうとしています。
このような研究が進めば、人間を含めた多くの生物が、なぜ左右が異なる構造を持つようになったのかという、生命の深い謎の理解が進むことが期待されます。
参考文献
細胞の“利き手”を決定する新原理を発見-生物の左右非対称性を解明する手掛かりに-
https://www.riken.jp/press/2025/20250826_5/index.html
元論文
Epithelial cell chirality emerges through the dynamic concentric pattern of actomyosin cytoskeleton
https://doi.org/10.7554/eLife.102296
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部