日本の名古屋大学で行われたショウジョウバエを用いた研究により、がん細胞は「死んだがん細胞」が免疫細胞に食べられることで数が減るのではなく、むしろ生き残ったがん細胞の増殖が促進されるという衝撃的な発見がなされました。
従来マクロファージに代表される貪食作用がある細胞は体内の不要な細胞や異物を取り込んで掃除を行い、組織の健康を維持していると考えられていましたが、今回の研究により、その善意の「掃除」ががん細胞にとっては「肥料」となり、増殖を助けてしまうという意外な側面が浮かび上がったのです。
さらに、この現象は炎症物質の連鎖反応によって、がん細胞自身が次々と炎症物質を出し合うことによって、より一層強力に増殖が促進されていました。
つまり、がん細胞は死んだ仲間が食べられることを逆手に取り、自らの成長を促すシステムを巧妙に作り出していたのです。
この驚くべき発見は、がん治療の常識を変えることになるのでしょうか?
研究内容の詳細は2025年6月26日に『Current Biology』にて発表されました。
目次
- がんを取り巻く免疫細胞は敵か味方か
- 免疫細胞が『掃除屋』から『がんの味方』へ
- 免疫の裏切りを利用する新しいがん治療への道筋
がんを取り巻く免疫細胞は敵か味方か

がんという病気は誰にとっても怖いものです。
身近な人ががんになった経験がある方なら、「早くがん細胞を消してしまいたい」と思ったことがあるでしょう。
体の中では、実際にそれを担ってくれる頼もしい細胞がいます。
それが免疫細胞の一種である『マクロファージ』です。
マクロファージは普段、体の中にある死んだ細胞や異物を丸ごと取り込んで分解する「貪食(どんしょく)」という能力を使い、組織を健康に保っています。
つまり体内の『掃除屋』として働いているわけです。
これまでの医学では、この掃除機能によってマクロファージは、がん細胞も同じように取り除き、がんの進行を抑えていると考えられてきました。
しかし最近になって、その認識を覆す新たな事実が浮かび上がっています。
なんと、この頼りになるはずの『掃除屋』が、がん細胞の味方をしてしまうケースがあるのです。
実際、がん組織の周りにはマクロファージが多く集まることが知られており、がんの進行が早いほど、その数は増える傾向にあります。
そして、このようながん組織に特別に集まってくるマクロファージは『腫瘍随伴マクロファージ(TAMs)』と呼ばれています。
これらTAMsは本来の『掃除屋』の役割とは逆に、がん細胞の増殖や転移を助け、がんを悪化させることが確認されています。
けれども、がん細胞がどうやってマクロファージを自分の味方にしてしまうのか、その詳しい仕組みについてはまだはっきりしていませんでした。
この謎を解き明かすために名古屋大学の研究グループは、モデル生物としてショウジョウバエを使った研究を開始しました。
【コラム】ハエを研究する理由
なぜヒトとは進化的に遠いハエが、医学や生命科学の最前線で重宝されるのでしょう?意外に思う人もいるかもしれませんが、ハエもヒトも酸素を吸って二酸化炭素を吐き、糖や脂肪を分解してエネルギーを作ります。筋肉を縮める仕組みも、脳で情報をやり取りする電気信号(ニューロンの活動)も、根本原理はヒトもハエも同じです。台所に置いた果物にハエが群がるのは、人間の食べ物から得られる糖分やアミノ酸こそが、ハエたちにとっても最高の燃料だからにほかなりません。細胞レベルで見ても共通点は驚くほど多く、DNAを読み取ってRNAを作り、タンパク質へと翻訳する「遺伝情報の流れ」は教科書図そのままに保存されています。またゲノムを比べると、ショウジョウバエにある遺伝子のおよそ7割がヒトの遺伝子と“一対一”で対応します。筋萎縮性側索硬化症(ALS)やアルツハイマー病、パーキンソン病など、人間の難病原因遺伝子の多くがハエにも見つかっており、変異を導入するとハエでも類似の神経変性や行動異常が起こります。つまり「病気の設計図」が共通しているからこそ、ハエで症状が再現でき、治療薬の候補分子をスクリーニングする足がかりになるわけです。今回取り上げたマクロファージのような「掃除屋」は、ハエでは血球(ヘモサイト)と呼ばれる細胞が担います。(※本記事ではプレスリリースと論文に習いマクロファージと表記します。)ハエの血球も死んだ細胞を食べ、細菌を飲み込み、炎症性サイトカインに似たタンパク質を分泌して組織修復を促します。つまり「死んだ細胞をどう処理し、傷をどう治すか」という免疫の基本路線は、昆虫と哺乳類でほぼ共通なのです。そのためハエで“掃除屋ががん細胞に利する疑い”を調べることは、臨床試験に先立つ強力なヒントとなるのです。実際、ハエを研究することで得られた知見は計り知れません。体内時計、発生遺伝子、カルシウムシグナル、嗅覚受容体――これらはすべてショウジョウバエで解明され、のちにヒトでも同じ原理が働くと裏付けられたテーマです。ショウジョウバエは卵から成虫までおおよそ10日~2週間。成虫一匹の飼育コストはマウスの千分の一以下で、数千匹を同時に飼っても実験室の片隅で済みます。短い世代時間と低コストのおかげで、数百~数千系統の遺伝子改変ハエを一斉に作り、病気モデルや薬剤効果を“網羅的”にテストできます。そういう意味では実験動物としてのハエは決してマウスやサルの下位互換ではないのです。
ショウジョウバエは遺伝子の多くが人間と共通していて、ヒトの免疫システムやがんの仕組みを調べる上でも役立つ生物です。
ヒトでは簡単には調べられない細胞レベルの変化を、ショウジョウバエなら詳しく観察することができます。
研究グループは、ショウジョウバエに人間のがんに似た悪性腫瘍を発生させることで、体内で何が起きているのかを詳しく調べることにしました。
特に、がん細胞とマクロファージがどのように相互作用しているのかを遺伝子レベルで詳細に調べ、この奇妙な協力関係が具体的にどんな仕組みで成り立っているのかを明らかにしようと試みたのです。
マクロファージが本当に『掃除屋』から『肥料』に変わってしまうなら、その仕組みは一体どのようなものなのでしょうか?
免疫細胞が『掃除屋』から『がんの味方』へ

マクロファージが本当に『掃除屋』から『肥料』に変わってしまうなら、その仕組みは一体どのようなものでしょうか?
この謎の答えを得るために、名古屋大学の研究者たちはショウジョウバエを使うことにしました。
ショウジョウバエを使えば、生きたままの腫瘍細胞とマクロファージの動きをリアルタイムで観察することが可能になります。
実験ではまず、ショウジョウバエの眼の組織に遺伝子操作によって人工的に悪性腫瘍(がん細胞)が作られました。
そしてその腫瘍の成長を追跡したところ、腫瘍の一部の細胞が死に、その死んだ細胞を目がけてマクロファージが集まり始めることが観察されました。
通常、マクロファージはこうした細胞の死骸を取り込んで掃除しますが、今回注目すべきなのは、マクロファージががん細胞を取り込んだあとに何をしているかということでした。
詳しく観察すると、マクロファージは死んだがん細胞を取り込んだあと、『Upd3』という特別な炎症性サイトカインを放出していることが明らかになりました。
このUpd3は、人間の炎症反応で中心的な役割を果たす『インターロイキン6(IL-6)』という物質に非常に似ています。
マクロファージから放出されたUpd3は、その周囲にいる生きたがん細胞に働きかけ、がん細胞の増殖を促す仕組みを作ってしまっていました。
研究者たちはさらに、Upd3ががん細胞にどのような影響を与えるのかを調べるために、遺伝子の働きを調整できる特殊な実験を行いました。
具体的には、マクロファージがUpd3を作れないように遺伝子を操作したり、マクロファージががん細胞を取り込む能力そのものを低下させたりしました。
すると、驚くことに、これらの操作をした腫瘍では、Upd3の放出が抑えられ、生き残ったがん細胞の増殖が明らかに遅くなったのです。
このことから、がんの進行にはマクロファージががん細胞を貪食することと、それによって放出されるサイトカインUpd3が大きく関与していることが確認できました。
また、このUpd3が、がん細胞自身にも「さらなるサイトカインを放出せよ」という指示を出し、次々と連鎖的にサイトカインを増やしていくという仕組みも明らかになりました。
この連鎖反応は『正のフィードバックループ』と呼ばれ、まるでスイッチを入れたら止まらない機械のようにがん細胞の増殖を促進してしまいます。
これまでマクロファージががんを掃除するはずだと思われていたのに対し、実際にはがんを育てる「肥料」を作り、腫瘍を助けてしまうという驚くべき仕組みが浮かび上がったのです。
さらに研究チームは、マクロファージががん細胞を取り込めないように遺伝子を調整した場合には、この増殖の連鎖が断ち切られ、腫瘍の成長が抑えられることも確認しました。
これは逆に言えば、マクロファージによる貪食やサイトカインの放出を抑えることが、将来的な治療につながる可能性を示しています。
しかし一方で、疑問も生まれました。
このマクロファージとがん細胞が協力して増殖を促す仕組みは、はたしてショウジョウバエだけで見られる特別な現象なのでしょうか?
それとも、私たちヒトのがん組織でも共通して起きているのでしょうか?
免疫の裏切りを利用する新しいがん治療への道筋

今回の研究によって、マクロファージが死んだがん細胞を食べることで、かえって生き残ったがん細胞の増殖を助けるという、これまで考えられていた役割とまったく逆の可能性が示されました。
この事実は、単純な善悪の枠組みで捉えがちだった免疫細胞の働きが、実はとても複雑であることを浮き彫りにしています。
通常、私たちが免疫細胞と聞くと、体を守る『正義の味方』のようなイメージを抱くかもしれません。
しかし、今回明らかになったのは、その正義の味方が状況次第では『悪役の手助け』をしてしまう可能性があるという、意外で興味深い現象でした。
研究者たちは、こうした現象が人間のがんでも普遍的に起きている可能性があると考えています。
先にも述べたように、ヒトのがんでもがん組織の中心部には死んだ細胞がたくさん蓄積しており、その周囲にはマクロファージが多く集まっていることが知られています。
そして特に進行したがんほど、細胞死の蓄積が顕著になる傾向がありましたが、これまでその理由や影響についてはあまり注目されてきませんでした。
今回の研究結果は、この『死細胞とマクロファージの共存』が、実はがんをさらに悪性化させるエンジンの役割を果たしている可能性を示唆しています。
その一方で、この新たな知見は、がん治療にとって非常に重要なヒントになるかもしれません。
例えば現在、人間の自己免疫疾患や炎症疾患の治療には、IL-6の働きを抑える薬剤がすでに用いられています。
今回の研究で明らかになったUpd3はヒトのIL-6とよく似た物質であり、もしヒトのがんでも同様の仕組みが働いているならば、これらの薬剤をがんの治療に転用できる可能性が出てくるのです。
つまり、マクロファージの貪食を適切にコントロールしたり、Upd3やIL-6の働きをブロックしたりすることで、がん細胞が連鎖的に増殖を続ける仕組みを断ち切る治療法につながるかもしれません。
さらに、この研究成果はがんの早期診断や予後予測にも役立つ可能性があります。
具体的には、がん組織内でどれだけ死細胞が溜まっているか、またマクロファージがどれくらい活性化しているか、そしてサイトカイン(IL-6)の濃度がどれほど高まっているかなどを詳しく調べることで、これからどれくらいがんが積極的に増殖していくのかを評価できるかもしれません。
これまで見過ごされがちだった『がん組織内部の免疫の活性化』が、実は病気の進行にとって重要な指標になる可能性があるのです。
『掃除屋』が『肥料』になってしまうという意外な発見は、がん治療において免疫細胞を単純な攻撃役として使うだけではなく、時にはその働きを抑えるという逆転の発想が必要であることを示しています。
がんという複雑な病気に対し、免疫細胞が敵にも味方にもなり得るという今回の新しい視点は、これからの医学やがん研究において極めて重要な意味を持つでしょう。
参考文献
死んだがん細胞の捕食ががんの爆発的増殖を促進 ~マクロファージの”貪食” ががんを育てる意外な仕組みをハエで発見 新たな治療法の確立に期待~
https://www.nagoya-u.ac.jp/researchinfo/result/2025/06/post-845.html
元論文
Macrophages promote tumor growth by phagocytosis-mediated cytokine amplification in Drosophila
https://doi.org/10.1016/j.cub.2025.05.068
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部