驚くべきことに国際的な調査によると、世界の学齢期に達した児童の約3分の1が過去1か月に同級生からのいじめを経験したと報告しています(UNESCO推計)。
もちろんいじめの内容には様々な違いがあるでしょうが、これだけ多くの児童がいじめを受けたと認識していることは大きな問題です。
こうしたいじめ被害は不安や抑うつ、自殺念慮などのリスクを押し上げるという疫学研究も多数報告されています。
ただ、この問題については心理的な影響を取り扱うものは多い一方で、脳への影響や年齢を経てそれがどう変化するかを調査しているものは限定的です。
もしいじめが脳の変化も伴う場合、その影響は成人後まで長期にわたって影響を及ぼす可能性があります。
フィンランドのトゥルク大学(University of Turku)を中心とする研究チームは、この疑問に対して、いじめ経験の有無で分類した思春期と成人の脳を機能的MRIで測定するという調査を行いました。
その結果、脳の反応はいじめ被害経験の有無で異なっており、経験者は子供の頃は脅威に敏感になり、逆に大人になると脅威に鈍くなるという影響が見られたのです。
これは人間関係の作りづらさに大きく影響すると同時、成人後はいじめや阻害を受ける恐れのある状況を無視してしまうという問題に繋がる可能性があるという。
この研究の詳細は、2025年9月22日付けで神経科学の科学雑誌『Journal of Neuroscience』に掲載されています。
目次
- いじめは脳にどんな影響を残すのか?
- いじめ被害者の脳は子ども時代に敏感化し、成人後は鈍感化する
いじめは脳にどんな影響を残すのか?
いじめられたときの脳の影響を測るというのは、いじめ状況の再現という面で難しい問題があります。
従来の実験では、ボール回しから仲間外れにされる「サイバーボール(Cyberball)」のような単純化された課題を用いて、いじめが脳に与える影響が調査されていましたが、これでは実際のいじめ場面にあるような嘲笑、威圧、身体的接触、立場の上下などの“複雑さ”を十分に捉えられていません。
そのため、脳の影響については現実のいじめに近い刺激で脳反応を測る研究が求められていました。
そこで今回の研究チームは、実際の学校を舞台に子役が演じた一人称視点の短編映像を用意しました。
この映像には、からかい、排除、暴言、軽い身体的接触などのいじめ行為、そして対照としての好意的なやりとりが含まれています。各動画は20〜87秒で、合計12本、視聴時間は約9分です。
一人称視点での提示により、視聴者が“自分がその場にいる”感覚で状況を受け取り、より自然に近い脳反応が引き出されるよう工夫したのです。
この動画群が実際にいじめの状況を再現できているかについては、別の成人参加者235人がオンラインで「いじめの強さ」と「好意的やりとりの強さ」を時間経過に沿って評価し、その“強さの波形”をのちの脳解析のものさし(説明変数)として使いました。
本実験の参加者はフィンランドの思春期51人(11〜14歳)と成人47人(19〜39歳)です。
研究者は参加者に映像を見せながら機能的磁気共鳴画像法(fMRI)で脳全体の反応を測定しました。
分析では、モデル化された映像の各時点の「いじめの強さ」と「好意的やりとりの強さ」を時間的に脳活動に重ね合わせ、どの脳領域がどの場面で反応するかを調べています。
あわせて、参加者それぞれの実生活でのいじめ被害経験も調べました。
思春期の参加者には「同級生からの被害」について尋ね、成人では「子ども時代のいじめ被害やその期間」「現在の職場でのいじめ被害頻度」を尋ねました。
この分析では、いじめ被害と共起しやすい症状(不安や抑うつ)の有無や、成人後にいじめ被害にあっているかも考慮して統計モデルに組み込み、子どもの頃のいじめ被害歴と脳反応の関連を厳密に評価しました。
果たしていじめは脳にどんな影響を与えていたのでしょうか? それは大人になって以後も残っていたのでしょうか?
いじめ被害者の脳は子ども時代に敏感化し、成人後は鈍感化する
研究チームの解析では、いじめ被害の有無に対して、「友だちとの好意的やりとり」などの場面に対する脳反応には、特に優位な差が見られませんでした。
しかし、いじめ場面を見たときは、いじめ被害にあった人は異なる脳反応を見せたのです。また興味深いことに、大人と子どもの間でもまるで異なる反応を見せたのです。
思春期の脳は、いじめ場面に対して強い反応を示し、体の感覚や運動に関わる領域まで活動が高まっていました。これは「言葉や態度によるからかい」であっても、まるで「殴られたり押さえつけられる」ような脅威として脳が過敏に反応していることを意味します。
一方、成人ではいじめ場面に対する反応は限定的で、特に注意や警戒に関わる領域では活動が弱まっており、思春期に見られた体の感覚なども低下していました。つまり成人になると、いじめの場面を見ても“危ないぞ”と知らせる脳の警報が弱まっていたのです。
著者らは、このような傾向が、繰り返しのストレスにさらされたことで「過度に反応しないように鈍くなった」可能性を考察しています。
また成人グループでは子どもの頃にいじめを受けていた期間が長い人ほど、この影響が強くでていたという。
いじめによる脳の変化は、社会生活にどう影響するのか?
思春期は仲間からの評価や立ち位置に敏感で、攻撃的な刺激に対して脳が「過敏化」しやすい時期です。そのため、いじめ被害者の子ども時代の脳の反応は、短期的には自己防衛につながるかもしれませんが、強すぎる警報が続くことで、心身に負担を積み重ねてしまいます。
これは想像以上に強いストレスになる恐れがあり、また新たな人間関係を築くことを困難にしてしまいます。
一方、大人になってから子どもの頃のいじめを思い出す人では、反応が鈍化する「脱感作」の可能性が示唆されました。これは一見すると「慣れ」にも見えますが、実際には脅威を正しく察知できなくなるリスクを示しています。
この結果、社会生活や職場で受ける攻撃的な他者の態度を過小評価し、問題への対処や周りに相談するなどの行動が遅れる恐れがあります。そして、再びいじめ被害に巻き込まれる危険性を高める可能性があるのです。
また今回はいじめを再現した主観映像から、脳の反応を見ていますが、脅威に関する脳反応が低下するということは、いじめ以外の脅威に対しても反応が低下する可能性も考えられます。
もしこの影響が非常に強く出た場合、物理的な脅威がある場面でも反応が低下して命を守る行動が適切に取れないという問題にも繋がるかもしれません。
この研究は、いじめが単なる心理的な嫌な思い出ではなく、脳の反応パターンそのものを変えてしまう可能性を示しました。
ただ、この研究は「相関」を示したものであり、いじめが直接的に脳を変化させたという因果関係を証明しているわけではありません。発達障害など、子ども時代にいじめにつながりやすい特性を本人が持っており、その特性が脳に現れていただけという可能性も考えられます。
また、いじめに対してどれだけ外部の支援(家族、友人、専門家)があったかによっても、その後の影響の大きさが変わる可能性があります。
いじめの被害にあったとしても、安心して回復できる環境が整えば、脳に刻まれた影響も和らげることができるかもしれません。
いじめの経験が長く脳に影響を残す可能性があるのなら、そのケアはより重要な問題となっていくでしょう。
参考文献
Bullying activates alertness and stress systems in the brain
https://www.utu.fi/en/news/press-release/bullying-activates-alertness-and-stress-systems-in-the-brain
元論文
Exposure to bullying engages social distress circuits in the adolescent and adult brain
https://doi.org/10.1523/JNEUROSCI.0738-25.2025
ライター
相川 葵: 工学出身のライター。歴史やSF作品と絡めた科学の話が好き。イメージしやすい科学の解説をしていくことを目指す。
編集者
ナゾロジー 編集部