アメリカのジョンズホプキンス大学(JHU)で行われた研究によって、初めて人間の「大脳・中脳・後脳」に加え血管系まで備えた、非常に複雑な人工培養脳「多領域脳オルガノイド」が作成されました。
従来の脳オルガノイドは大脳の一部だけを再現したり、簡単な血管構造を持つものにとどまっていましたが、今回開発されたより包括的な全脳に近い状態を再現しています。
さらに各領域の間をまたがるように電気信号も確認され、各領域が協調するように活発に相互作用している様子も確認されました。
研究者たちはプレスリリースにて「(将来的に)全脳オルガノイドを用いれば、疾患がリアルタイムでどのように進行するかを観察し、治療が効果を示すかを確かめ、さらには患者さん一人ひとりに合わせた治療法を模索することさえ可能になるのです。」と述べています。
人間の脳を完璧に再現した全脳オルガノイドが誕生した時、何が起こるのでしょうか?
研究内容の詳細は2025年7月8日に『Advanced Science』にて発表されました。
目次
- 脳オルガノイドの限界と挑戦
- 大脳・中脳・後脳の間で協調的な信号が飛び交っている
- 人の代わりになる脳モデル
脳オルガノイドの限界と挑戦

人間のミニ臓器を実験室で培養して再現する「オルガノイド」研究は近年盛んです。
特に脳オルガノイドはヒトの幹細胞から育てた人工培養脳とでもいうべき存在です。
ただ従来の脳オルガノイドは主に大脳新皮質など脳の一領域だけを培養するものでした。例えば大脳(特に大脳皮質)のみを対象としたオルガノイドが主に研究されてきました。
しかし実際の人間の脳は、大脳・中脳・後脳といった複数の部位が胎児期から密接に連携して発達します。
(※後脳は小脳と橋と延髄のあたりをまとめた領域です)
また母親の胎内で胎児の脳は神経組織と血管網も同時に成長し、お互いに影響を与え合って複雑な「本物の脳」を形作ることがわかっています。
にもかかわらず、これまでの脳オルガノイドモデルでは複数の脳領域をまとめて再現し、なおかつ本格的な血管ネットワークを備えた例はありませんでした。
脳全体の発達や疾患を理解するには、複数の領域が相互作用するモデルがどうしても必要です。
そこで研究チームは、「複数の脳領域を一つにまとめ、さらに血管も備えたミニ脳」を作り出すことで、より人間の脳に近いモデルを実現しようとしました。
目的は、ヒト胎児の脳発達を丸ごと再現することで、発達障害や脳疾患の原因解明や治療法開発に役立つプラットフォームを作ることでした。
生身の人間の胎児脳を直接実験素材にすることはできませんが、試験管内に「もう一つの人間の脳」を育てることができれば、疑似的な脳実験が可能になります。
大脳・中脳・後脳の間で協調的な信号が飛び交っている

では、研究者たちはどのようにして多領域脳オルガノイドを作り上げたのでしょうか?
研究チームはまず、人間の大脳・中脳・後脳にそれぞれ相当するミニ脳組織と、脳の血管に相当するオルガノイドを別々に培養しました。
大脳オルガノイドと中脳・後脳オルガノイドは、ヒトの人工多能性幹細胞(iPS細胞)から脳の各領域に分化させて作製します。
同時に、血管オルガノイドも作りました。
従来は主にヒト臍帯静脈内皮細胞(HUVECs)という単一種類の細胞に依存していましたが、今回は血管内皮の前駆細胞、成熟した血管細胞、周皮細胞(血管を支える細胞)など様々な細胞タイプを含む複雑な血管オルガノイドを用意しました。
こうして出来上がった3種類の脳オルガノイド(大脳、中脳・後脳)と1種類の血管オルガノイド、合計4つのミニ組織を、「生体の接着剤」とも言える特殊なたんぱく質でひとつに合体させたのです。
研究者たちはこの手法を「バイオ接着による脳組織の組み立て」と表現しています。
培養を続けると各オルガノイド同士がしっかり融合し、境界をまたいで神経細胞同士がつながりました。
やがて融合ミニ脳全体で電気的な活動(神経信号)が記録されるようになり、異なる部位がネットワークとして応答する様子が観察されました。
このような活動は単一領域モデルでは見られないような、より複雑で同期的なネットワーク活動が見られないものであり、研究者たちは、複数領域が機能的に繋がって協働している証拠であると考えています。
また融合した全脳ミニ脳を詳細に解析したところ、いくつもの興味深い発見がありました。
まず、このオルガノイドにはヒト胎児の初期発達段階で見られる細胞タイプの約80%が揃っていることが分かりました。
言い換えれば、胎児の脳に存在する多様な神経細胞のほとんどがミニ脳内で再現されていたのです(残り20%は高度に分化した細胞など一部再現できないものもありますが、それでも画期的な多様性です)。
実際、このミニ脳は発生学でいう胎児40日齢ほどの脳に相当し、発達途中のニューロンやグリア細胞が多数確認されました。
サイズ自体は直径数mm程度で、含まれるニューロンの数は約600万~700万個と推定されています。
これは成人の脳(数百億個)と比べると圧倒的に少なく極小ですが、逆に言えば数百万もの神経細胞が互いに通信し合う「ミニ脳回路」がシャーレの中に存在していることになります。
加えて、脳を取り囲んで物質の出入りを制限する血液脳関門と呼ばれる脳のバリア機能の初期的な形成も、オルガノイド内で確認されました。
これは脳の血管が単に栄養を運ぶだけでなく、選択的なバリアを作っている証拠で、本物の脳に近い機能です。
さらに最も注目すべきは、脳と血管の相互作用により、これまでの単独のオルガノイドでは見られなかった新たな現象も明らかになりました。
それは、血管の細胞が後脳(脳幹や小脳に相当する領域)の発達を強力に支えているという発見です。
研究チームが詳細に解析したところ、後脳の中間的な神経細胞(将来ニューロンになる「前駆細胞」)は、血管成分を含むオルガノイドでのみ多く維持されていました。
つまり血管から放出される物質が後脳の未熟な細胞を育て、生存を助けていたのです。
一方で、大脳(前脳)の発達には血管細胞の存在はそれほど重要ではなく、血管なしでもほぼ正常に大脳組織が成長できることもわかりました。
このように、全脳オルガノイドの解析から血管と神経の新たな“会話”の存在が明らかになり、実際に13種類ものこれまで知られていなかったシグナル伝達のやり取りが検出されています。
これは脳の発生過程を理解する上で重要な知見であり、従来の単一オルガノイドでは発見できなかった現象です。
人の代わりになる脳モデル

今回開発された多領域脳オルガノイド(MRBO)は、単一の領域しか持たない従来の単一脳領域モデルとは異なる、『新世代の脳オルガノイド』です。
ヒト胎児脳の大部分を一度に再現できるため、神経発生の全体像を試験管内で観察できるようになりました。
これは脳全体に影響する神経疾患の研究にとって画期的な進歩です。
例えば自閉スペクトラム症や統合失調症、アルツハイマー症などは脳のネットワーク全体に関わる複雑な疾患ですが、多領域脳オルガノイドを使えば、それらが胎児期にどのように芽生え進行していくのかをリアルタイムで追跡できます。
動物モデルでは再現できなかったヒト特有の脳内異常を、この「ミニ脳」で疑似的に再現し、その場で治療薬を試すことも可能になるでしょう。
実際、神経疾患の新薬開発では現在マウスなど動物実験に頼っているため、ヒトで効果が出ず失敗に終わるケースが後を絶ちません。
ヒトの細胞でできた全脳オルガノイドを用いれば、薬剤が人間の脳発達に与える影響を事前に確認できるため、臨床試験での成功率を高める切り札になるかもしれません。
研究を率いたアニー・カトゥリア氏も「神経発達症や精神疾患を理解するにはヒト由来のモデル研究が必要ですが、人の脳を直接取り出して観察することはできません。全脳オルガノイドがあれば、疾患が発症する様子をリアルタイムで見たり、治療が効くか試したり、患者に合わせた治療法を模索することだってできるのです」と述べています。
ただ今回の研究では本物の脳そのものを完全に再現するには至っておらず、研究者たちは今後はより包括的な「全脳」を目指していくと述べています。
人類が自らの脳を“模倣し、観察し、改良する”時代が、ついに現実のものとなりつつあるのです。
元論文
Multi-Region Brain Organoids Integrating Cerebral, Mid-Hindbrain, and Endothelial Systems
https://doi.org/10.1002/advs.202503768
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部