「火事と喧嘩は江戸の華」という諺があるように、江戸の町ではしばしば火災が発生していました。
そのようなこともあって、江戸の町では火災を防ぐために、様々なことが行われていたのです。
果たして江戸の町では、どのような取り組みが行われていたのでしょうか?
この記事では江戸の町で火事を防ぐためにどのような防火政策がとられていたのかについて紹介します。
なおこの研究は、森下雄治,山崎正史,大窪健之(2012)『江戸の主要防火政策に関する研究 明暦大火後から享保期までを対象として』都市計画論文集47巻3号p.721-726に詳細が書かれています。
目次
- 火事が頻発していた江戸時代
- め組で有名な町火消と「火除地(ひよけち)」
- 二転三転した瓦の扱い・厳しかった庶民への統制
火事が頻発していた江戸時代
江戸の町では火事が多発し、その原因もまた様々でした。
料理や灯りをつける際の不始末によるもの、強風の日を狙った火付け、怨恨による放火など、まさに町全体が火の粉の上にあったと言っても過言ではありません。
その背景には、密集する長屋や困窮した町人たちの暮らし、そして関東では名物の冬の乾燥した「からっ風」と呼ばれる風をはじめとする複合的な原因があります。
さらに、火事そのものを喜ぶ人々がいたというのも江戸ならではです。
火事が起これば大工や鳶職には仕事が増え、消火活動を目立たせようとわざと火を回す者もいたとのこと。
このため幕府は厳しい処罰を課し、火付け犯を見せしめに火焙りにすることもあったものの、それでも放火はなくなりませんでした。
江戸の町人たちにとって火事はもはや「風物詩」のようなものであり、冬になると女性たちが火事を避けて近郊の実家に避難する習慣まであったといいます。
め組で有名な町火消と「火除地(ひよけち)」
江戸の火災においては纏(まとい)を旗印に建物を壊して消防活動を行う町火消がよく知られています。
江戸時代の火消しは周囲の燃え移るものを破壊して延焼を防ぐという方法がメインで、力自慢の「纏持ち」が民家の屋根に登りこの纏を振ることで、「纏を焼くな」という目標で火消し活動を行いました。
ちなみに町火消といえば「め組」が有名ですが、町火消は江戸の各所にいろは四十八組おり、め組はその1つで纏は組ごとに異なるデザインを持っていました。
とはいえ、彼らの活躍だけが江戸の町を火災から守っていたわけではありません。
江戸の町では火災を防ぐために、様々な手法がとられていました。
特に重点を置かれていたのが、火除地(ひよけち)の設置です。
火除地とは防火用の空き地のことであり、1657年に江戸を震撼させた明暦の大火をきっかけに設置されるようになりました。
この火除地があることにより、火が他のエリアにまで延焼することを防いでいたのです。
また火除地は単に火が燃え広がらないようにする目的だけでなく、火災が発生したときの人々の避難場所としても機能しており、幕府から「火事が起きたら火除地か川沿いに避難すること」というお触れが町人に出たほどです。
このように江戸の火除地は火災防止を目的とした場所であったものの、次第に広場として娯楽の場へと変化していきます。
火除地には出店が並び、多くの人で賑わうようになりました。
特に両国橋周辺(中央区東日本橋二丁目周辺)が盛況を極め、1740年代には娯楽が一部制限されたものの、しばらくしたらまた活況を取り戻します。
しかし火除地だけで江戸の火災を完全に防ぐことは出来ず、その後も江戸の町は火事に見舞われ続けました。
幕府は火除地を増やすことで火事を防ぐことも検討したものの、当時の江戸は人口が大幅に増加していたこともあり、火除地が増えることはありませんでした。
二転三転した瓦の扱い・厳しかった庶民への統制
また火災を防ぐ方法として、建築規制も取られていました。
具体的には燃えやすいからという理由で、明暦の大火の後、江戸の町では屋根の材料として藁葺や茅葺を使うことが禁止されていたのです。
一方で瓦は防火性に優れていたものの、「瓦は重くて破壊消火の妨げになる」という理由や、「瓦は贅沢品である」という理由で、そちらも明暦の大火後土蔵以外の建物に使うことが禁止されました。
そのため江戸の町の家の屋根は基本的には板葺きだったのです。
瓦に関しては、その後軽量化して大量生産をすることができる「桟瓦(さんがわら)」が発明されましたが、瓦の規制が慣習的に続いてしまいなかなか広まりませんでした。
しかしこれ以降も火災が相次いだことにより、遂に1720年に防火性に優れた瓦を屋根の材料にすることが許可されました。
なお時の将軍はあの徳川吉宗(とくがわよしむね)であり、倹約を是とする吉宗ですら瓦の使用を許可しなければならなかったほど、当時の江戸で火災が問題視されていたことが窺えます。
その後瓦葺の屋根は江戸中に普及していき、1792年には「瓦葺以外の家を作ってはいけない」というお触れが出たほどです。
さらに江戸の町では、火事にまつわる取り締まりが頻繁に行われ、町人たちは「火の用心」という呪文のような触書に囲まれて暮らしていました。
1609年には早くも喫煙が禁止され、町の上空に紙鳶(凧)を飛ばして火をつける遊びも即刻禁止されたのです。
火事が発生するたびに、幕府は町人たちの暮らしに次々とルールを設けていきました。
例えば、家の軒先には水桶と梯子を備えるよう命じられ、町中に防火用の井戸も掘られました。
また、薪の積み方にまで規制がかけられ、火災のたびに江戸の町並みが少しずつ「火を警戒する風景」へと変わっていったのです。
幕府は町方の営業も厳しく見張り、夜間の煮売りや深夜の不審者の巡回を禁止します。
やがて、花火や仕掛け花火も許されなくなり、火事の騒ぎにかこつけて浪人たちが騒ぐことも取り締まられるようになったのです。
挙句の果てには、風の強い日には家に戻れという厳命まで出され、屋根の上に番人を立てて火の監視を行うことまで始まりました。
こうして江戸の町人たちは、日々の生活にどんどん窮屈な規則を押し付けられていったのです。
しかしそのような努力もむなしく、江戸の町で火災が無くなることはありませんでした。
そのようなこともあって江戸の人々は「財産をため込んでいてもどうせ火事で燃えてしまうのだから、すぐに使った方がいい」と考えるようになり、これが「宵越しの銭は持たない」という江戸っ子の気風の遠因になったのかもしれません。
参考文献
江戸の主要防火政策に関する研究
https://www.jstage.jst.go.jp/article/journalcpij/47/3/47_721/_article/-char/ja/
ライター
華盛頓: 華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。
編集者
ナゾロジー 編集部