2024年のイグノーベル賞(「笑って考えさせる」がテーマ)を受賞した「尻呼吸」が、実用化に向けて着実に進展しています。
大阪大学やシンシナティ小児病院 幹細胞・オルガノイド医療研究センター (CuSTOM)に所属する武部貴則氏ら研究チームが、ヒトを対象にした「腸から酸素を吸収する」という新しい治療法の実現に向けてヒト臨床試験を実施。安全性が確認されました。
この研究成果は2025年10月20日付で『Med』誌に掲載されました。
目次
- 2024イグノーベル賞「尻呼吸」のその後は?
- 「尻呼吸(腸呼吸)」のヒト臨床試験で安全性が認められる
2024イグノーベル賞「尻呼吸」のその後は?
お尻から呼吸するという、一見すると突拍子もないアイデアですが、これには生き物の体の不思議な仕組みが深く関係しています。
2024年に発表された研究では、哺乳類でも腸を使って酸素を吸収できることが実験的に示され、大きな話題となりました。
この研究は、ドジョウやナマズなどの魚類が、酸素の少ない水環境でも「腸で酸素を取り込む」という生存戦略を持つことに着目したものです。
研究者たちは、マウスやブタといった哺乳類を使って、直腸に「酸素を多く溶かした液体」を注入し、血中の酸素濃度が上昇することを明らかにしました。
この成果が世界的に評価され、2024年のイグノーベル賞(「笑って考えさせる」がテーマ)を受賞したのです。
しかし、この研究は、単に「笑い」を与えて終わるものではありませんでした。
重い肺疾患や事故などで人工呼吸器が必要となる患者は少なくありませんが、人工呼吸器の使用には肺に新たなダメージを与えるリスクがあるため、より体に優しい酸素補給法が求められてきました。
腸は血流が豊富で、栄養や薬などを体内に取り込む能力が高い臓器です。
この特徴を生かし、ヒトでも腸の粘膜から酸素も吸収できるなら、新たな「呼吸法」「治療法」を生み出せるかもしれません。
研究チームは、イグノーベル賞をとった動物実験の成果を受けて、いよいよ人間でも安全に応用できるかどうかを確かめる段階に進んでいます。
今回のヒトを対象にした臨床試験では、日本人の健康な成人男性27人(20歳から45歳)が協力しました。
研究チームは、パーフルオロデカリン(perfluorodecalin)を用いました。
パーフルオロデカリンは、非常に多くの酸素を溶かすことができ、医療用途での利用実績がある物質です。
今回はあえて酸素を含まない状態のパーフルオロデカリン液を、直腸から1回、最大1500mLの範囲で注入し、その後60分間体内で保持するという方法がとられました。
試験の目的はあくまで安全性と忍容性(薬の副作用を患者がどの程度まで許容できるか)を確かめることだったからです。
注入後には、参加者のバイタルサインや腹部の症状、血液検査(肝臓や腎臓の機能を含む)などが厳重にモニターされました。
液体成分が体内に吸収されないかや、重い副作用が起きないかも慎重に確認されました。
「尻呼吸(腸呼吸)」のヒト臨床試験で安全性が認められる
今回の臨床試験で得られた結果は非常に注目に値するものでした。
参加者20人が、液体を60分間体内に保持することに成功しました。
最大量の1500mLを注入した場合でも、副作用は腹部の膨満感や軽度の不快感といった一時的な症状にとどまり、深刻な問題は生じませんでした。
また、血液検査でも肝臓や腎臓の数値はすべて正常範囲に収まり、血中のパーフルオロデカリン濃度は検出限界未満で、実質的な全身吸収は認められませんでした。
さらに大型動物で得られたデータをもとに、パーフルオロデカリンの投与量と酸素移動の関係を予測するシミュレーションも行われました。
このシミュレーションから、理論的には高濃度の酸素を溶かしたパーフルオロデカリンを使えば、血中の酸素濃度を高めることができる可能性が示唆されています。
研究チームは、今回のヒト初試験で腸管換気が安全で忍容性が高いことを示し、治療法開発に向けた重要な第一歩になったと総括しています。
本試験は主にヒトへの安全性と忍容性の検証が目的で、有効性は未評価です。
今後は酸素をしっかり溶かしたパーフルオロデカリン液を使い、実際にどの程度血中酸素が上昇するか、どのくらいの量と保持時間が必要か、臨床の呼吸不全患者に役立つかを段階的に検証していく予定です。
もし今後の研究で有効性や長期的な安全性が確認されれば、呼吸不全や肺損傷で従来の治療が難しい患者や、気道が塞がり人工呼吸が困難な重篤なケースでも、腸から酸素を供給して肺を休ませるという新しい治療法が実現するかもしれません。
イグノーベル賞を受賞した「尻呼吸」の研究は、”ユニークな発想”というイメージを覆し、本格的な医学研究であることを人々に明らかにしつつあります。
この「腸から呼吸する」という新しい発想が、将来、重症患者の命を救うかもしれないのです。
参考文献
Butt-breathing science goes from IgNobel Prize infamy to human reality
https://newatlas.com/disease/butt-breathing-ignobel-prize/
IgNobel ‘Butt Breathing’ Idea from 2024 Moves Closer to Real Treatment
https://scienceblog.cincinnatichildrens.org/ignobel-butt-breathing-idea-from-2024-moves-closer-to-real-treatment/
元論文
Safety and tolerability of intrarectal perfluorodecalin for enteral ventilation in a first-in-human trial
https://doi.org/10.1016/j.medj.2025.100887
ライター
矢黒尚人: ロボットやドローンといった未来技術に強い関心あり。材料工学の観点から新しい可能性を探ることが好きです。趣味は筋トレで、日々のトレーニングを通じて心身のバランスを整えています。
編集者
ナゾロジー 編集部