カナダのウェスタン大学(Western University)で行われた研究によって、映像として映し出された自然の中をぼんやりと「たった10分」歩くだけの時間が、脳の集中力を劇的に回復させることが示されました。
ポイントは、余計な作業やタスクを行わず、「自然に身をまかせてぼーっと過ごす」ことにあります。
なぜ“何もしない”時間が、私たちの脳にこれほど大きな効果をもたらすのでしょうか?
研究内容の詳細は『Environment and Behavior』にて発表されました。
目次
- 集中力を奪う“常時オン社会”
- 架空の森で過ごすたった10分の「ぼーっと時間」が効く
- 自然の中で何もしない時間は最高のご褒美
集中力を奪う“常時オン社会”

皆さんも経験があるように、人間の集中力には限りがあり、使い続けると次第に低下していきます。
長時間勉強した後にボーッとしたり、注意が散漫になるのは、脳の「集中する力」が疲れて弱くなっているからです。
この現象は、心理学では「選択的注意疲労(ディレクテッド・アテンション・ファティーグ)」と呼ばれています。
これは、脳がたくさんの情報を処理しすぎて、まるでオーバーヒートしたような状態です。
私たちの脳は使い続けると集中力が落ちるため、定期的に休憩してリセットする必要があります。
ところが近年では、私たちは「脳を休ませる暇」すらなくなってきています。
昔は、バスを待っているときや列に並んでいるときなど、何もせず退屈な時間が日常にありました。
そうした“暇な時間”は、脳がスイッチオフできる大切なタイミングだったのです。
しかし今は、スマートフォンなどの影響で退屈を感じることが少なくなりました。
通知やSNSなどの刺激的な情報が常に流れてきて、脳を休ませるすき間がなくなっているのです。
このように脳がずっとオンの状態では、注意力を回復することができず、やがて「注意力疲れ」が慢性的に起こってしまいます。
そこで注目されているのが「注意回復理論(Attention Restoration Theory, ART)」です。
これは1980年代に心理学者のカプランたちが提唱した考え方で、「自然の中で過ごすこと」によって疲れた注意力が回復するとされています。
自然の中では、わざわざ集中しなくても、風景やせせらぎの音が自然に注意を引きつけてくれます。
つまり、都会やスマホのようなデジタル環境では必要になる「意図的な集中(トップダウン処理)」から解放されて、「受動的な注意(ボトムアップ処理)」に切り替わることで、脳が休息モードに入るというわけです。
自然の中を歩いたり、風景を眺めたりする時間は、使いすぎた脳を整える“メンテナンス時間”になります。
過去の研究では、森の中を歩いたり、自然の写真を見るだけでも注意力が回復することが報告されています。
しかし今回紹介された研究は、本物の自然ではなく、没入感のある自然の映像を使った点が新しいのです。
さらにその映像を使って、同じ自然の環境でも「課題を与えるか」「何もしないか」などを変えて、脳の使い方の違いが注意力の回復にどう影響するかを比較しました。
これまでの研究では、「自然と都市の違い」や「運動をするかどうか」など、いろいろな要素が同時に変わってしまうことが多く、どの要素が本当に効果を出しているのかはっきりしませんでした。
今回の研究では、「自然の環境自体がもたらす回復効果」と、「その中で意図的な課題をこなす場合の影響」とを分けて調べることを目的としています。
架空の森で過ごすたった10分の「ぼーっと時間」が効く

カナダ・ウェスタンオンタリオ大学の研究チームは、22人の学生ボランティアを対象に「10分間のウォーキング」を使った実験を行いました。
ただし、全員が同じように歩く中で「どんな環境で歩くか」を変えて、脳への効果の違いを比べました。
具体的には、参加者は次の3つの条件で、10分ずつトレッドミルの上を歩きました。
1つ目は「コントロール条件」と呼ばれるもので、何も映像のない空間を歩きます。
目の前には180度の白いスクリーンが広がっているだけの状態です。
2つ目は「自然条件」と呼ばれ、森の中を進むようなバーチャル映像を大型スクリーンに180度映し出します。
その中を歩くことで、まるで森の中にいるかのような体験ができるようになっています。
3つ目は「負荷付き条件(課題付き自然条件)」と呼ばれ、2つ目の自然映像に加えて注意を必要とする作業が組み合わされています。
具体的には、歩いている間に飛んでくる鳥を、叩くゲームなどを行います。
さらに、足元の映像も凸凹になっていて、バランスを崩さないように常に気をつける必要がありました。
こうして「自然を見ながら何かをする」という状態が意図的に作られたのです。
多くの参加者は3つの条件をランダムな順番で体験しました。
それぞれのセッションでは、歩く前と後に注意力を測るテストを受けてもらいました。
使われたテストには、数字を聞いて逆の順に言い直す「数字スパンテスト(DSB)」や、立方体がひっくり返って見える図形を見て、何度切り替わったかを測る「ネッカーキューブテスト(NCT)」などがあります。
これらのテストを通じて、集中力がどれだけ回復したかを調べたのです。
結果として、もっとも集中力が回復していたのは何もせず歩いた後でした。
自然条件では、DSBのスコアが他の2条件より明らかに高くなっていました。
一方で、コントロール条件では大きな変化は見られませんでした。
また、負荷付き条件でも集中力の回復はほとんど見られなかったのです。
つまり、たとえ周りの景色が森だったとしても、その間に注意を必要とする作業があると、自然の持つ回復効果は打ち消されてしまうとわかりました。
(※なお今回の記事では「トップダウン負荷がない状態」という部分を日本語でわかりやすく「何もしない」と表現しましたが、より厳密には「脳が意識的に課題処理をしない状態」と言えるでしょう。)
さらに、参加者の気分(ムード)の変化も調べられました。
しかし、どの条件でも歩く前と後で気分の変化に大きな違いはありませんでした。
つまり、集中力の回復は「気分がよくなったから」ではなく、環境や作業内容の違いそのものによるものだったのです。
自然の中で何もしない時間は最高のご褒美

「自然の中で何もしない時間」が脳の集中力を劇的に回復させる――この結果は、私たちの生活スタイルに大きな示唆を与えます。
まず第一に、「何もしない」は決してサボりではなく、脳にとって必要なメンテナンス時間だということです。
忙しい現代社会では、ぼーっとしている人を「怠けている」と見がちですが、脳科学的にはむしろ推奨される行動かもしれません。
今回の研究では、たった10分の“ぼんやりタイム”でも効果があることが示されました。
小さな休憩時間でも、公園を散歩したり、窓から空を眺めたりするだけで、脳のパフォーマンスがリセットされる可能性があります。
さらに、この恩恵は本物の自然に行けない場合でも受けられる点にも注目です。
研究チームは、常に本物の自然が近くにあるとは限らないが、だからといってシミュレーション環境の効果を軽視すべきではないとしています。
実験では大型スクリーンに映した仮想森林を使いましたが、映像や写真などの疑似的な自然体験でも脳を休ませる可能性があります。
授業や仕事の合間に、短い「自然映像休憩」を取り入れるだけでも集中力が回復するかもしれません。
今回の結果は、大学キャンパスや職場、都市設計においても応用できる可能性があります。
緑地や自然映像を流すスペースを増やす、講義の途中に短い自然休憩を入れる、オフィスで自然映像を流すなど、日常の中で自然に触れる工夫が生産性やストレス軽減に役立つかもしれません。
最後に大切なのは、私たち一人ひとりが「意識的に何もしない時間」を持つことです。通勤通学や家事の合間にスマホを見ず、景色を眺める。森でなくても、庭の花や窓の雲でも十分です。
大事なのは、五感は働かせながら頭をオフにすること――つまり“自然に身をゆだねてぼんやりする”時間を意図してつくることです。
そうすれば脳は自動的にクールダウンし、鋭さを取り戻します。
「何もしない」は脳にとって無駄ではなく、必要な充電タイムなのです。
元論文
A Simulated Walk in Nature: Testing Predictions From the Attention Restoration Theory
https://doi.org/10.1177/0013916519882775
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部