「頭を使うとお腹が減る」――そんな感覚には、実は脳の“燃料事情”が関わっているのかもしれません。
長い間「脳」の活動に必要なエネルギー源はブドウ糖(グルコース)だけだと考えられてきました。
ところが、オーストラリアのクイーンズランド大学(The University of Queensland, Australia)の生体工学・ナノテク研究所AIBN(Australian Institute for Bioengineering and Nanotechnology)とクイーンズランド脳研究所QBI(Queensland Brain Institute)を中心とするチームによって、脳のニューロンは“脂肪”もエネルギー源として使っていることが示されたのです。
では、私たちが難しい作業に集中すると“脂肪が燃えて痩せる”のでしょうか? この興味深い報告について本文で解説していきます。
この研究の詳細は、2025年9月30日付で科学雑誌『Nature Metabolism』にオンライン掲載されています。
目次
- 脳のエネルギー源は「糖」だけではないのか?
- 脳は”脂肪”も燃やしていた
脳のエネルギー源は「糖」だけではないのか?
人の脳は、体重の2%ほどしかないのに、全身のエネルギー消費の20%以上を占める「エネルギー大食い器官」です。
そんな脳のエネルギー源について、従来は「ブドウ糖(グルコース)を主な燃料として使っている」とされてきました。
糖分が切れると集中力が落ちる、頭が回らない――漫画などで知能の高いキャラクターがそんなこと言ったりしますが、これは実際科学的な報告に基づいているのです。
とはいえ、筋肉や肝臓など多くの細胞は、ブドウ糖だけでなく脂肪も燃料にしてエネルギーを作ることが知られています。
なぜ長い間、脳の神経細胞については、「脂肪を燃料にできない」と考えられていたのでしょうか?
その理由にはいくつかありますが、ひとつは、脳が極端にブドウ糖依存だという点です。この事が一般の人にもイメージしやすい事例として、低血糖になると人間はすぐに意識を失ったり朦朧としてしまうという問題があります。
1980年代の研究では、神経細胞に脂肪酸を与えてもほとんど利用されないように見え、脂肪を燃やす酵素の働きが極めて弱いと報告されていました。
そして脂肪を燃やすときに生じる活性酸素は不安定な分子で、DNAやタンパク質、細胞膜を酸化して傷つけてしまいます。多くの細胞はダメージを修復したり新しい細胞に置き換わったりできますが、神経細胞は再生が難しく、脂質の多い構造を持つため、特に活性酸素の被害を受けやすいと考えられてきました。
特に脳は全身の酸素の約20%を使う「酸素大食い器官」です。酸素を多く使う分、活性酸素が生じやすい環境にあります。そのため「神経は脂肪を燃やすのを避けているのではないか」と考えられるのです。
こうした背景から、脳は糖しかエネルギーとして利用しないという理解が定着してきました。
しかし1980年代の実験では、測定技術の限界もあり、脂肪の利用を検出できていないだけの可能性があります。
脳が糖しか利用しないといのは、完全に証明された問題ではありません。
こうした疑問点について、今回の研究チームは遺伝性神経疾患のある報告に目を向けました。それは遺伝性痙性対麻痺54型(Hereditary Spastic Paraplegia type 54, HSP54)と呼ばれる病気です。
全く聞き馴染みのない長い病名ですが、この病気では脚の筋肉が突っ張って硬くなり、歩きにくくなるといった症状が現れます。そしてその原因が脳の神経細胞の中にあるDDHD2という遺伝子の変異だとされているのですが、DDHD2は、細胞の中で脂肪を“燃料として使える形”に変える働きを持つ遺伝子なのです。
なぜ、脳内の神経細胞にある脂肪を燃料として利用するための遺伝子に異常が起きると、神経伝達に問題が起きるのでしょうか?
ここから研究者たちは「脳の神経細胞は実は脂肪も燃料にしているのではないか?」という疑いを抱くようになったのです。
そこで、クイーンズランド大学の研究チームは、この疑問を確かめるためにマウスの神経細胞を使って実験を行いました。
研究者たちが注目したのは、DDHD2という遺伝子が働くと細胞の中で作られる飽和脂肪酸(ミリスチン酸、パルミチン酸、ステアリン酸)です。これが細胞にとってはエネルギーの材料になります。
研究者たちは、この飽和脂肪酸が神経細胞のエネルギー工場であるミトコンドリアに取り込まれ、燃やされてエネルギーにあたるATPを生み出しているのかどうかを調べました。
さらに、脂肪を取り込めないようにする薬を使って、エネルギーが減るかどうかを確認しました。もし脂肪が燃料になっているなら、この薬でエネルギーの産生が落ちるはずです。
逆に、外から「燃料としてすぐに使える形の脂肪」を補ってやると、DDHD2が働かずエネルギー不足になっていた細胞でも、再び元気を取り戻すのかどうかも調べました。
脳は”脂肪”も燃やしていた
実験の結果、脳の神経細胞は、DDHD2という遺伝子の働きによって生み出される飽和脂肪酸を、ミトコンドリアに送り込んで燃やし、ATPと呼ばれるエネルギーを作っていることが明らかになりました。
これによって神経のエネルギーを支え、シナプスの機能維持にも寄与していることが確認されたのです。
この発見は、「脳は糖だけを燃料にする」という単純な考えを更新するものです。
研究チームがこの実験においてマウスの大脳皮質ニューロンでDDHD2が脂肪酸から得られるエネルギーを計算したところ、細胞が安静時に必要とするエネルギー量(基礎代謝)のおよそ20%に相当することがわかりました。この数字は培養細胞での実験から推定された割合のため、実際の脳が脂肪によるエネルギーをそれだけ利用しているとは言えませんが、脳の神経細胞が糖だけでなく脂肪も利用している可能性を示す重要な証拠となります。
また、脂肪を取り込めないようにするとエネルギーが目に見えて落ち、逆に“すぐ使える形の脂肪”を少量補うと、弱っていた細胞のエネルギーやシナプスの働きが回復することも示されました。
こうした報告を聞いて、一般人として気になるのは、「頭をフル回転させると痩せるのか?」という疑問です。
しかし残念ながら、今回示された脂肪の利用は、”予備電源”のような役割であり、体重が目に見えて減るほどの消費量ではありませんでした。
「頭を使うとお腹が減る」という感覚があるとしたら、それはストレス反応や心理的な要因など複数の仕組みが関わった現象と考えられ、この研究は特にその現象を直接説明するものではありません。
また本研究は、実際に体内で脂質がどのように神経細胞に届くかを完全には再現していないという限界があります。
実験では培養された神経細胞に脂肪酸を直接与えるという方法を使っており、血液脳関門を通る脂質の供給経路を模した実験ではありません。
血液脳関門では液体に溶けにくい大きい分子は通ることができません。脂質は溶けにくい物質のため脳関門を通過できないのです。
つまり、この研究は「神経細胞が脂肪酸を燃料にできる可能性」を示す重要な証拠ですが、それが体内で実際にどのように行われているかを確定させるには、さらなる実験と検証が必要です。
さらに、今回の研究はマウス実験であり、この仕組みが人間の脳でも同じ規模で働くのかは、臨床研究で慎重に確かめる必要があります。
まとめると、脳は状況に応じて糖と脂肪を使い分ける柔軟なエネルギー戦略を持っており、糖のみに頼っているわけではない可能性がある、というのが今回の報告の重要な点です。
そのため頭がいい人には痩せてる人が多い、とか難しいこと考えるとお腹が減る、という感覚を抱く人がいるとしたら、それは今のところ、たまたまとしか言えないでしょう。
しかし今回の知見は、神経の病気や老化に関わる新しい治療のヒントになるかもしれません。
参考文献
Fat fuels our brains in new AIBN discovery
https://aibn.uq.edu.au/article/2025/09/fat-fuels-our-brains-new-aibn-discovery
元論文
DDHD2 provides a flux of saturated fatty acids for neuronal energy and function
https://doi.org/10.1038/s42255-025-01367-x
ライター
相川 葵: 工学出身のライター。歴史やSF作品と絡めた科学の話が好き。イメージしやすい科学の解説をしていくことを目指す。
編集者
ナゾロジー 編集部