ヒツジは現在ではありふれた動物であり、動物園や牧場で見ることができます。
しかし昔の日本ではかなり珍しい動物であり、平安時代の人々にとっては麒麟や龍に近い神秘的な存在だったといいます。
そのため仏画に描かれたヒツジは、実際の姿とかなり異なっています。果たして昔の日本人はヒツジをどう捉えていたのでしょうか?
この記事では昔の日本ではヒツジが珍獣として扱われていたことや、ヒツジとヤギを混合していたことについて紹介していきます。
なおこの研究は、廣岡孝信(2018)『奈良時代のヒツジの造形と日本史上の羊』奈良県立橿原考古学研究所紀要考古学論攷第41冊に詳細が書かれています。
目次
- ヒツジを珍獣として扱っていた平安京の人々
- 江戸時代後期までヒツジとヤギを混合していた。
ヒツジを珍獣として扱っていた平安京の人々

むかしむかし、雅やかな平安京において、風変わりな外来動物としてひときわ異彩を放つ存在がありました。
それは「羊」と呼ばれる生き物です。しかし、この羊なるもの、一筋縄ではいきません。
いにしえの人々の記録をひもとくと、羊は一方では「霊獣」として仰がれながらも、他方では日常の中に定着することなく、幻のように姿を消していったのです。
まずは平安時代の記録、『延喜式』に注目してみましょう。
この巻物には、当時の国家の制度や貢納品に関する規定がまとめられており、諸国からの貢納品として「羊皮」が記されています。
しかし、よく調べてみると、その多くは「牛皮」であることが明らかになるのです。
さらに、大膳式の記述には「羊脯(干し肉)」が登場しますが、これまた「鹿脯」で代用されるという注記が付されております。
この事実から導かれるのは、当時の日本には羊を恒常的に飼育する土壌がなく、たまに海外から渡来する程度であったという現実です。
羊肉も羊革も、夢物語のごとく貴重なものだったのです。
では、平安の人々が「羊」と呼んでいたものは、本当にあのフワフワとしたヒツジであったのでしょうか。
『水左記』や『玉葉』には、顎に髯をたくわえた生き物が描写されております。
しかし、その姿はどうも私たちが思い浮かべるヒツジとは異なるようです。
むしろ、現在のヤギに近いものだったのではないか、と多くの研究者は指摘しています。

これを裏付けるように、平安の記録には「羊」が木の枝葉を好むと記されておりますが、枝葉は草食性が強いヒツジには不向きな食料です。
そのことから当時の人がヤギのことを羊と呼んでいたことが窺えます。
さらに興味深いのは、平安時代の知識層が「羊」と「山羊」を区別して記録している点です。
たとえば、『日本紀略』には「白羊」と「山羊」の併記が見られますが、ここでの「山羊」とはヤギを意味し、「白羊」は白いヒツジであった可能性があります。
とはいえ、10世紀に入るとこうした区別も次第に曖昧になり、やがて羊とヤギは一緒くたに扱われるようになりました。
では、なぜ平安時代の日本では羊が広まらなかったのでしょうか。
その背景にはいくつかの理由が考えられます。
第一に、羊は気候や食性の面で日本の環境に適応しづらかったこと。
第二に、遣唐使の廃止により、中国からの文化や技術の伝来が停滞したこと。
そして第三に、羊が病気の原因とされ、社会的に敬遠されたことです。
これらの要因が重なり、羊は平安時代の日本で根付くことなく、希少で神秘的な存在として語り継がれることになりました。
それでもなお、平安の雅びな世界において、羊は一種の憧れの対象であり続けました。
高貴な人々は、遠い異国の地から渡ってきたこの不思議な生き物に、何かしらの神秘を見出していたのでしょう。
その姿が本当にヒツジであったのか、それともヤギであったのか、あるいは彼らの想像の産物であったのか――その真相を知るすべはありません。
しかし、この曖昧さこそが、平安時代の羊という存在を一層魅力的なものにしているのかもしれません。
さて、このように記録の中を行き交う「羊」という幻影は、現代に生きる私たちに何を語りかけているのでしょうか。
平安の人々が追い求めた羊は、もしかすると、未知なるものへの憧れや好奇心の象徴だったのではないでしょうか。
その姿が曖昧であればあるほど、人々の想像力をかき立て、豊かな物語を生み出したのです。
江戸時代後期までヒツジとヤギを混合していた。

古の仏画や彫像をめぐる研究に没頭するならば、そこには時代を超えた動物たちの影が浮かび上がってまいります。
中でも、十二神将の未像に描かれる「羊」についての考察は、我が国の中世における動物学的知識と信仰の交錯を垣間見る格好の機会を提供してくれるのです。
さて、醍醐寺に所蔵される『薬師十二神将図』(1227年)や、高野山の曼荼羅(1310年)、東寺の『二十八部衆并十二神将図』(1359年)などに描かれる未像に注目してみましょう。
これらの図像に共通する特徴は、「後方に伸びる角」と「顎髯」を持つ動物が描かれている点です。
角が真っ直ぐ後ろに伸びる姿は、羊ではなくヤギを思わせます。
さらに、その顎髯の描写も、ヤギならではの特徴を捉えています。
では、このヤギの姿は一体どこから来たのでしょうか。
仏教経典や中世の文献を紐解くと、『大般涅槃経』や『四座講式』などに「羊」の存在は記されていても、「山羊」に関する言及は見られません。
このため、仏涅槃図や未像の彫刻においても「羊」と認識されていた動物が、実はヤギをモデルにしていた可能性が浮かび上がります。
さらに興味深いのは、こうした中世の未像彫刻に見られる意匠です。
頭部には「羊」を象徴する標識が据えられていますが、実際にはその角の形状や顎髯から、彫刻のモデルは明らかにヤギであると考えられます。
これは当時の二次元の図像が彫刻の参考資料として流布していたために、同じモチーフが再現されてしまった結果といえるでしょう。
では、文献史料の中に「羊」として記録された動物はどうでしょうか。
14世紀までの例では、比喩表現としての「羊」が見られる一方、実際に生息していた羊の記録は非常に少なく、その多くがヤギであったと推測されます。
これにより、図像や彫刻に描かれた「羊」がヤギとして造形された背景には、中世の動物学的な誤解が影響していたことがわかります。
こうした中世の誤解や混同が次第に修正されるのは近世以降のことです。
江戸後期になると、中国から輸入された博物学や本草学の影響で、ようやく「羊」と「山羊」の区別が正確になされるようになりました。
明治時代には、学校教育を通じて正しい知識が普及し、日本における動物学的な基盤が整えられていきました。
中世の未像や仏画を紐解くとき、そこには人々が見ていた世界と、信仰の中で受け入れられていた動物の姿が入り混じっています。
その曖昧さこそが、時代を超えた造形美を生む土壌となり、後世に思索の種を蒔いているのです。
参考文献
橿原考古学研究所 | 紀要『考古学論攷』第41号~/奈良時代のヒツジの造形と日本史上の羊(PDF))
https://www.kashikoken.jp/under_construction/wp-content/uploads/2018/08/kiyo41-hirooka.pdf
ライター
華盛頓: 華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。
編集者
ナゾロジー 編集部