人間が牛乳でお腹を壊さなくなったのはわずか数千年で獲得された進化だった

シミュレーション

牛乳をあまりたくさん飲むとお腹が痛くなるという人は珍しくありません。

とはいえ牛乳はありふれた飲み物であり、赤ちゃんのときには誰もが母乳を飲むので、これは奇妙なことに感じる人も多いでしょう。

ところが、実のところ人間は大人になると多くの人が乳糖の分解能力を失ってしまうのです。これが牛乳をたくさん飲むとお腹の調子が悪くなってしまう原因です。

ではなぜ多くの人はこの能力が大人になると失われるのでしょうか? 人類はいつこの能力を獲得したのでしょうか?

これまで乳糖を分解する遺伝子の獲得は、人類が家畜のミルクを飲むようになってから徐々に人々の間に広がる「穏やかな進化」だったと思われてきました。

この考えに従うと、私たちの牛乳を飲む能力は現在も進化の途上であり、少しずつ人々に広まっているため、まだ適応しきれていない人がいるという解釈になります。

しかし英国のブリストル大学(University of Bristol)で2022年に行われた研究では、人類が牛乳などの乳製品を飲むようになった9000年前から、乳糖を分解する遺伝子が出現するのに4000年かかり、さらにその遺伝子が人々の間に普及するのに2000年かかったことが示されたと報告されています。

この研究報告に従うと、乳製品の使用開始時期と乳糖分解能力の獲得時期には無視できないタイムラグがあり、単純な使用状況とは一致していなかったことになります。

乳製品の使用開始が乳糖分解能力獲得のキッカケでないとしたら、いったい何が原因となったのでしょうか?

研究内容の詳細は2022年7月27日に『Nature』にて掲載されました。

目次

  • 乳糖分解能力は飢饉や病気を生き残るためにわずか数千年で獲得された
  • 乳糖分解能力は悲惨な状況を生き抜くために獲得された
  • 極限状態ではミルクで死亡率が上昇する

乳糖分解能力は飢饉や病気を生き残るためにわずか数千年で獲得された

乳糖分解能力は飢饉や病気を生き残るためにわずか数千年で獲得されたと判明!
乳糖分解能力は飢饉や病気を生き残るためにわずか数千年で獲得されたと判明! / Credit:Canva . ナゾロジー編集部

現在、北欧出身の成人の多くは不快感なしにミルクを飲むことができます。

しかし日本をはじめとする世界各地には、ミルクを飲み過ぎるとお腹に問題を抱えてしまう人が存在します。

問題の原因は、ミルクに含まれる「乳糖」と呼ばれる成分です。

私たち人間は赤ちゃんのときには母乳に含まれる乳糖を分解する能力があります。

ですが北欧など一部の地域以外に住む人々は、大人になるにつれて乳糖分解能力を失っていき、3分の2が乳糖不耐症と呼ばれる状態に陥ってしまいます。

つまりミルクの飲み過ぎでお腹が「ゴロゴロ」してしまうようになるわけです。

一方、3分の1の人々は乳糖分解能力にかかわる遺伝子が変異しており、乳糖分解酵素の分泌が大人になっても維持できることが知られています。

これまでの研究では、乳糖を分解できる遺伝子変異は人類が家畜の乳製品を利用するようになった9000年前から、徐々に人々の間に広がり、現在の3分の1まで達したと考えられていました。

乳糖を分解する能力があれば、乳製品を大量消費することが容易になり、栄養状態が改善して生存能力が上がると思われていたからです。

しかしこの説は因果関係を予測しているだけで、具体的な裏付けがあるわけではありませんでした。

そこでブリストル大学の研究者たちは、554の考古学的遺跡から1万3181点の陶器断片を収集し、動物性脂質の痕跡を調査しました。

また同時に1700人以上の先史時代の人々のDNAを調査し、乳糖分解能力を授ける遺伝子が、人々の間でどのように広がっていったかを調べました。

結果、人類が家畜の乳製品の利用を開始したのが9000年前(紀元前7000年)であった一方で、乳糖分解能力を授ける遺伝子が登場したのが5000年前(紀元前3000年)であり、人々の間に広く普及したのは3000年前(紀元前1000年)になってからだということが判明します。

つまり既存の説のように乳糖分解能力は、乳製品の利用に従って徐々に遺伝子が拡散したのではなく、5000年前に何かのキッカケで突然出現し、その後現在に至る間に急速に拡散していたのです。

乳糖分解能力がこのように突然現れ急速に拡散した理由については、乳製品の高い栄養価だけでは説明しきれません。

さらに乳製品の使用開始時期と乳糖分解能力が獲得された時期を比較したところ、ほとんど相関関係がないことが判明します。

つまり遺伝的にも考古学的にも、既存の説が通用しなかったのです。

では乳製品の使用開始と無関係に、なぜ人類はこの能力を獲得し、それが急速に広まることになったのでしょうか?

そこで研究者たちは、ある状況を想定した2つシミュレーションを実行して、この問題を検証することにしました。

乳糖分解能力は悲惨な状況を生き抜くために獲得された

乳糖分解能力は悲惨な状況を生き抜くために獲得された
乳糖分解能力は悲惨な状況を生き抜くために獲得された / Credit:Canva . ナゾロジー編集部

研究者たちが新たに想定したのは、「飢饉」と「下痢を伴う感染症」の蔓延した暗い状況でした。

乳糖分解能力がない人でも、食べ物が豊富にある状況では、ミルクを飲み過ぎて下痢になっても死ぬことはありません。

しかし農作物が全滅して飢饉が起きた場合、カロリーを補うためミルクを飲み過ぎれば命を脅かすことになります。

同様に下痢を伴う感染症が蔓延して消化器系がダメージを受けている状態で、ミルクがさらに下痢を誘発した場合でも、生存が脅かされます。

そのため研究者たちは、人口の増減と人口密度をそれぞれ飢饉と感染症のパラメータとして、それぞれの状況下での乳糖分解能力の遺伝子の増加率を調べました。

結果、通常の選択圧と比較して、飢饉は689倍、感染症の蔓延は289倍も乳糖分解能力を与える遺伝子を持つ人々を増加させる効果があることが判明しました。

この結果は、乳糖分解能力は飢饉や感染症の蔓延など危機的な状況において、人類が大量の犠牲をともなう淘汰を生き抜く過程で得られたことを示します。

乳糖分解能力がなければカロリーを補うレベルの乳製品を摂取できず、乳製品をとることで下痢をともなう感染症を悪化させる可能性があるからです。

極限状態ではミルクで死亡率が上昇する

乳糖耐性がないままカロリーを補うためにミルクをガブ飲みすると下痢を起こしてしまい、極度の栄養出張時には致命的になります
乳糖耐性がないままカロリーを補うためにミルクをガブ飲みすると下痢を起こしてしまい、極度の栄養出張時には致命的になります / Credit:Canva . ナゾロジー編集部

今回の研究により、乳糖分解能力を与える遺伝子が乳製品の利用に付随した「穏やかな進化」によって獲得されたものではなく、飢饉や感染症の蔓延といった厳しい状況で大量の犠牲者を出す「厳しい進化」によって、獲得されていったことが示されました。

農作物が全滅する飢饉においては、家畜によって植物から変換されるミルクを大量に飲んでカロリーを補う必要があるため、乳糖分解能力は必須となります。

また乳糖分解能力がない場合、腸内に乳糖が高濃度に蓄積して結腸に水を引き込むことが知られており、下痢を伴う感染症を悪化させ、脱水症状を経て命が脅かされます。

ミルクを発酵させることで乳糖を減少させる効果が見込めますが、先史時代の人々の場合、そのまま飲んでいた可能性が高く、乳糖による悪影響はより深刻だったと考えられます。

そのため研究者たちは、飢饉や感染症の蔓延する状態ではミルクを摂取することが死亡率の上昇につながり、乳糖分解能力を与える遺伝子を持つ人だけが生き残る厳しい淘汰を発生させたと結論しています。

また追加の調査で、現在の人々の乳糖分解能力の有無と健康状態を比較したところ、目立った違いがないことが判明しました。

このことから研究者たちは、通常の健康状態では乳製品の摂取が健康状態に影響を与えず、自然淘汰を起こす要因にはなり得ないことを示します。

ある種が特定の形質を急速に獲得する場合、その陰には多くの犠牲がつきものです。

もし今度ミルクを飲んでみることがあったら、私たちの先祖が支払った犠牲に思いをはせてみるのもいいかもしれません。

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参考文献

Evolution of Lactose Tolerance Driven by Disease and Famine
https://www.technologynetworks.com/tn/news/evolution-of-lactose-tolerance-driven-by-disease-and-famine-364157

元論文

Dairying, diseases and the evolution of lactase persistence in Europe
https://www.nature.com/articles/s41586-022-05010-7

ライター

川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。

編集者

ナゾロジー 編集部

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