がんになると体重や筋肉が急激に減ってしまう現象がよく起こりますが、実はこれまで、その詳しい仕組みははっきりとは解明されていませんでした。
今回、カナダのアルバータ大学(UAlberta)で行われた研究によって、がん患者の筋肉には「痩せやすいタイプ」と「痩せにくいタイプ」という2種類の異なる性質があることが初めて明らかになりました。
この2種類の筋肉タイプは、筋肉の中にある「RNA」という分子の働き方の違いによって決まるというのです。
さらに、「痩せやすいタイプ」の筋肉では、免疫や代謝、神経といった複数の仕組みが複雑に絡み合った異常が起きており、単純に栄養を補給するだけでは筋肉の衰えを防ぐことが難しいことも分かりました。
この発見により、患者さんの筋肉の状態を事前に予測したり、これまでにない新しい治療法が開発される可能性も示されています。
では、がん患者の筋肉を衰えさせてしまう本当の原因は、一体どのような仕組みで起きているのでしょうか?
研究内容の詳細は2025年9月10日に『Nature』にて発表されました。
目次
- 体が食べても痩せてしまう理由──がんが筋肉を奪うメカニズムを探る
- がんが筋肉を奪い激やせさせる仕組み
- 筋肉が痩せる謎を解明──がん治療を変える新視点
体が食べても痩せてしまう理由──がんが筋肉を奪うメカニズムを探る

がんが進行すると、多くの患者さんの体がどんどん痩せていきます。
普通、体重が減るのは食事が十分に取れていないからだと思われがちですが、がん患者の場合、たとえしっかり食べていても体重が減ってしまうことがあります。
なぜでしょうか?
実は、がん細胞が体の中に存在すると、筋肉や脂肪が次第に削られるように失われる現象が起きます。
このような症状を、医学では「がん悪液質(がんによる激やせ)」と呼んでいます。
この状態になると体力が大幅に落ち、病気への抵抗力が弱まるため、生きる力(生命予後)にも影響を与えます。
そのため、医療現場では深刻な問題として注目されてきました。
コラム:がん細胞が栄養を奪って痩せるという説は本当?
「がん細胞が栄養を全部取ってしまうから患者はどんどん痩せる」という考えは、とても直感に合っていて、多くの人にとって分かりやすいストーリーです。しかし、最新の研究や医学的知見を見てみると、体が痩せていく理由はもっと複雑で、栄養を奪われるだけでは説明できないことが多いのです。まず患者が十分に食事をとっていても筋肉がどんどん減っていくことが確認されています。さらに、基礎代謝が上がったり、脂肪細胞が熱を産む組織」に変わるような仕組みが関わっていることも報告されています。こうした複数の原因が重なって、「栄養を十分取っても体重や筋肉が戻らない」という状況を作ってしまうのです。がん細胞が栄養を食い尽くして太るから体全体が痩せるというイメージは部分的には正しいものの主因とは言えません。実際動物実験などでは腫瘍サイズと体重減少の相関は一致しないケースも多いとの報告があります。つまり実際には、体のあちこちで起きている炎症、代謝の異常、筋肉の作る力(合成力)の低下などが一体となって、がん細胞が奪えないほどの栄養があっても筋肉が減ってしまう、という状態が起きています。
医師たちはなんとかしてこの問題を解決しようと努力してきましたが、実際には、患者さんの体重減少を止める治療法はなかなかうまくいきませんでした。
たとえ栄養をしっかり取ったり、特別な薬を使ったりしても、多くの場合、筋肉の衰えを十分に防ぐことができなかったのです。
それどころか、患者さんは十分な栄養を取っていても、まるで体が「生きながらにして飢えている」ようにどんどん痩せてしまいます。
なぜこうした現象が起きるのか、その原因や仕組みについては、長い間はっきりとわかっていませんでした。
原因を調べるためには、患者さんの筋肉の細胞を実際に取り出して詳しく調べる必要があります。
筋肉の組織を直接取り出すことを「筋肉の生検」と呼びますが、これは患者さんに負担がかかる方法です。
そのため、人間を対象にした筋肉の研究は倫理的に難しく、患者さん自身の筋肉の細胞を詳しく調べた研究はごく少数に限られていました。
これまでの研究も、「炎症を起こす物質(炎症性サイトカイン)」など、ごく限られた一部の原因物質だけに注目したものばかりでした。
そこで、多くの研究者たちは、代わりにマウスなどの動物を使った実験を行ってきました。
動物なら、人間と違って自由に筋肉を調べることができるからです。
こうした動物実験では、筋肉を痩せさせる原因となるいくつかの物質や仕組みが報告されています。
しかし、動物と人間は体の仕組みや病気の現れ方に違いがあり、動物実験で成功した治療が人間にそのまま当てはまるとは限りません。
実際に、動物実験で効果があると期待されていた治療法が、人間では全く効かなかったことも珍しくありませんでした。
しかも、これまで動物を使った研究の数は、人間を使った研究のおよそ100倍にも達しています。
そのため、がん患者の筋肉がなぜ激しく衰えるのか、その仕組みを人間の体で直接調べる必要性がますます高まっていたのです。
しかし近年、研究技術が急速に進歩し、新たなアプローチが可能になりました。
特に、細胞の中の設計図であるDNAや、その情報を実際に使っているRNAを細胞ごと丸ごと調べる方法(網羅的解析)が広まってきたのです。
DNAはよく「生命の設計図」と呼ばれ、ビル全体の設計図に例えられます。
これに対してRNAの一種である「mRNA(メッセンジャーRNA)」は、ビル全体の設計図の一部分、例えば柱や壁などの部品ごとの設計図のコピーのようなものです。
細胞の中では、こうしたmRNAが「設計図の部分写し」として働き、体の中で必要になったタンパク質を作る指示を出しています。
また近年、このmRNAの数や働きを調整する別の種類のRNA(非コードRNA)の存在もわかってきました。
これらのRNAは設計図の部分写しではありませんが、その部分写しを「増やせ」や「減らせ」といった指令を出す働きをします。
つまり、筋肉が増えるか減るかという調節には、mRNA以外の調節RNAも重要な役割を持っているのです。
これを例えるなら、筋肉を増やすか減らすかという「指示書」を細胞内で出しているようなものです。
もし筋肉を減らす方向の「黒幕RNA」が暴走してしまったら、筋肉が急激に痩せてしまう原因になり得ます。
しかし、これまでの研究は、特定の遺伝子やタンパク質などに限られた「ピンポイント」の研究に留まっており、筋肉が衰える仕組みの全体像はまだ不明でした。
そこで今回の研究チームは、患者さんの筋肉から取り出したすべての種類のRNA(mRNAや調節役の非コードRNAなど)をまとめて詳しく解析することで、「筋肉が痩せる仕組み」を全体的に見渡そうとしたのです。
これによって、筋肉が痩せやすい人と痩せにくい人を分子レベルで分類できるのではないかという、大胆で新しい発想に挑戦したのです。
がんが筋肉を奪い激やせさせる仕組み

研究チームが患者さんの筋肉を詳しく調べた結果、非常に興味深いことが分かりました。
がん患者の筋肉には、大きく分けて2種類のタイプ(サブタイプ)があることが明らかになったのです。
サブタイプ1と名付けられたタイプは体重が急激に減って筋肉も落ちやすく、生存率(病気になったあとどれだけ長く生きられるか)も低い傾向にありました。
一方でサブタイプ2ではそのような傾向は比較的に抑えられています。
つまり、「痩せやすい筋肉」を持っているのがサブタイプ1、「痩せにくい筋肉」を持っているのがサブタイプ2だと言えるでしょう。
これは単に体質や食生活の違いだけでなく、筋肉の細胞の中で起こっている出来事に明確な差があることを示しています。
それでは、この「痩せる筋肉」と「痩せにくい筋肉」の違いは何だったのでしょうか?
研究チームは筋肉の中にある「遺伝子」の働きを詳しく分析しました。
遺伝子はよく「生命の設計図」と言われますが、実際にはこの設計図からコピーされたRNAが、タンパク質を作る指示を出しています。
筋肉の細胞の中では、どのRNAがどれだけ働いているかによって、筋肉が強くなったり弱くなったりします。
今回の調査では、2つの筋肉タイプの間で数百種類ものRNAの働き方に違いが見つかりました。
こうした大量の違いを整理すると、8つの重要なテーマにまとめることができました。
① 部分写し(RNA)の調節の変化
RNA分析によってせっかく作られた「設計図の部分写し(RNA)」の量や働きを調整する仕組みが乱れ、本来の適切なタンパク質が作られなくなる可能性が示されました。例えるなら、料理のレシピ(設計図)を何枚もコピーしても、そのレシピの内容が間違えていればおいしい料理(タンパク質)は作れません。
② 神経と筋肉の間の連絡異常
RNA分析において筋肉と神経の連携に関わる遺伝子群に変化が起き、神経筋接合部を含むシグナル伝達経路に異常がある(遺伝子発現レベルでの異常という意味)可能性が示されました。 いわば、電話やインターネット回線が切れかかっている状態で、筋肉が神経からの指示を正しく受け取れなくなっているわけです。
③ 免疫関連のシグナルが活性化
RNA分析によって免疫反応が暴走し、「免疫の嵐(サイトカインストーム)」に似た現象が筋肉で起きていました。この免疫暴走が筋肉に悪影響を与えている可能性があります。
④ コラーゲンの崩壊や変質
RNA分析によって壁や梁(はり)に当たるコラーゲンが壊れ、代わりに硬い“かさぶた”のような組織が増えて柔軟性が失われた可能性が示されました。
⑤ 解毒のための筋肉からのエネルギー抜き取り
RNA分析によって筋肉内で薬物や毒物などの異物を処理する作業(異物代謝)が過剰に活性化され、本来筋肉が使うべきエネルギーやリソースが解毒に奪われている可能性が示されました。
⑥ 筋肉を分解して生きるエネルギーにする流れ
RNA分析によって筋肉の材料(アミノ酸)を分解して燃料に変える代謝経路が変化している可能性が示されました。ただ興味深いことに、これまで動物実験で注目されていた「筋肉萎縮の代表的な遺伝子」には特に変化がなく、人間では違う仕組みが働いている可能性が示されました。
⑦ 筋肉への栄養の途絶
RNA分析によって血液を固める作用の遺伝子が活性化しており、血液や栄養の筋肉への流れが妨げられている可能性があります。
⑧筋肉が筋肉をやめてしまう
RNA分析によって筋肉細胞が本来の成熟した筋肉の性質を失い、未熟で幼い状態(胚性幹細胞に似た状態)へと後戻りしてしまう遺伝子スイッチが入っている可能性が示されました。いわば筋肉が「筋肉としての役割」をやめ、赤ちゃんのような弱い細胞に戻ってしまっている可能性があるのです。
さらに注目すべきは、これらの異常が単独ではなく、互いに絡み合っていることでした。
特に、「RNAネットワーク」と呼ばれる複雑な仕組みが、筋肉が痩せる大きな原因の一つとして浮かび上がってきました。
研究チームによると、「長鎖ノンコーディングRNA」と呼ばれる調節役RNAが多数のRNAを繋ぐ「ハブ(中心点)」となり、このネットワーク全体を乱してしまう可能性があることが示唆されています。
一方、動物実験と比較してみると、興味深い違いも見つかりました。
動物モデルでは筋肉と神経の繋がりが壊れる様子がよく観察されていますが、既存のヒト研究では筋肉と神経の繋がりそのものは保たれていたと報告されています。
また、人間の筋肉で起きている免疫や代謝の異常の中には、動物ではそれほど目立たないものもありました。
つまり、人間と動物とでは筋肉が痩せる仕組み(悪液質の「レシピ」)に重要な違いがあるということが示されたのです。
この発見は、人間の体で起こる筋肉の痩せを理解し、実際に役立つ治療法を見つける上で大きな一歩となるでしょう。
筋肉が痩せる謎を解明──がん治療を変える新視点

今回の研究は、がんで起きる「筋肉の激やせ(がん悪液質)」に関する非常に重要な発見をもたらしました。
これまで漠然としていた筋肉が痩せる仕組みを、分子レベルで2つのタイプに明確に分類できたことは、大きな社会的意味があります。
つまり、これからは患者さん一人ひとりの筋肉の分子の状態を調べることで、「筋肉が痩せやすいタイプかどうか」を事前に知ることができるようになる可能性があるのです。
このような分類ができれば、筋肉が痩せるリスクの高い患者さんに対して、もっと早い段階から適切な栄養指導や運動療法、あるいは特別な治療を準備することが可能になるかもしれません。
これまでがん患者の筋肉の激しい衰えを防ぐために、医師たちはいろいろな薬や治療法を試してきましたが、その成果は限定的でした。
例えば、体の中で炎症を起こす物質(サイトカインと呼ばれます)の中でも特に重要だと思われていた「TNF」や「IL-6」といった物質を単独で抑える薬を使っても、思ったほどの効果はありませんでした。
なぜなら、実際には筋肉が痩せていく原因は単なる一つの物質ではなく、複数の仕組みが絡み合った「体内ネットワーク全体の異常」だったからです。
このような複雑な仕組みに対しては、一つの物質を狙うだけでは焼け石に水で、十分な成果が出ない可能性が指摘されています。
そのため、今回の研究では、単なる一つの物質を抑える方法ではなく、筋肉内で起きている複数の炎症や免疫の異常をまとめて整える「包括的な治療法」の必要性が強調されています。
とはいえ、この研究も完璧ではありません。
まず、調査の対象がカナダの一つの病院で手術を受けた、大腸がんと膵臓がんの患者さんに限られていたため、他の種類のがんや別の国の人々でも同じ結果が得られるかはまだ確認が必要です。
また、筋肉の研究には「健康な人」と比較することが重要ですが、筋肉の生検は体に負担をかけるため、健康な人から筋肉を取ることが倫理的に難しいという問題があります。
今回の研究でも健康な人の筋肉は取ることができず、その代わりに筋肉があまり痩せていない患者さんのデータを比較対象として使いました。
さらに、この研究はあくまで「こうした関係性がある」ということを示したもので、原因と結果の直接的な証明までは行われていません。
しかし、それでもこの研究は非常に重要な成果をもたらしています。
これまでの考え方を大きく変える新しい視点を示しているからです。
がんによる筋肉の激やせは、単に栄養不足で起きるものではなく、体内で起こる免疫や代謝、神経などさまざまな仕組みが絡み合った「複雑な体内ネットワークの崩壊」によって引き起こされるということがわかったのです。
筋肉が痩せるのは、決して受け身で起きる現象ではなく、筋肉自体が体の中のさまざまなシグナル(情報)を受け取り、それに反応して「自ら変化している」のです。
このように筋肉を能動的な臓器として新たに捉え直すことで、これまでにない治療や対策を考えるヒントが生まれます。
今回特に興味深いのは、筋肉の痩せを引き起こす原因として「調節用RNA」という新しい物質が浮かび上がったことです。
これらは、体の設計図(DNA)から作られるタンパク質を増やしたり減らしたりする「司令塔」のような存在です。
研究チームは、こうしたRNAが異常な働きをすることで、筋肉が過剰に分解されることを防げなくなる可能性を示唆しました。
これは非常に斬新な視点であり、将来、これらのRNAをコントロールすることで、筋肉の激しい衰えを抑える新薬や治療法が生まれる可能性があります。
筋肉ががんによって痩せ細ってしまうのは避けられない宿命ではなく、原因を詳しく理解することで十分に対策が可能な現象なのです。
この研究が示した新しい視点と発見を出発点に、研究者たちはがん患者さんが元気な筋肉を取り戻せる道をさらに探求していくでしょう。
元論文
Molecular subtypes of human skeletal muscle in cancer cachexia
https://doi.org/10.1038/s41586-025-09502-0
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部